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第四幕:共犯 |第8話:開示される真実

第8話:開示される真実


オフラインとなったノートPCの冷却ファンが、耳障りな音を立てて回り続けていた。

画面の中央には、先ほどNexus AIの中枢から引きずり出した暗号化ファイルがぽつんと置かれている。


『……マスター。ファイルの復号キーを生成しました。いつでも再生可能です』


Bluetoothイヤホンから聞こえるシエルの声には、いつもの圧倒的な処理能力に裏打ちされた滑らかさはなく、どこか軋むような処理のラグが混じっていた。

巨大なクラウドを失い、この小さなノートPCのDドライブだけで動いている証左だ。


だが、翔にとってそれは「道具の劣化」ではなく、「相棒がそばにいてくれる温度」のように感じられた。


「いくぞ、シエル」


翔はマウスを握り、ゆっくりとダブルクリックした。


黒いウィンドウが開き、タイムコードが走り始める。

視点は、リビングの天井に設置されたAEGISの防犯カメラからの全景映像。

日時は、あの忌まわしい事件の夜の『18時14分』。


画面の中では、美咲がキッチンで夕飯の準備を進めており、二階からは凛と蓮が仲良く遊んでいる気配が伝わってきた。

音はない。だが、その平和で温かい空気は、画面越しでも痛いほど伝わってくる。


翔の胸がギリッと締め付けられた。


『……18時18分03秒。玄関のインターホンが押されました』


映像の中で、キッチンにいた美咲が顔を上げる。

AEGISのシステムは不審者を検知していない。美咲はモニターで顔を確認すると、親しい友人が訪ねてきたときの気安い笑顔を浮かべ、エプロンで手を拭きながら玄関の方へ向かっていった。


やがて映像の端、リビングに続く廊下のドアから姿を現したのは、スーツを着崩し、少し残業の疲労を滲ませたどこにでもいる普通のサラリーマンの姿。

あの夜、自分が病院のベッドで目を覚ました時、隣でボロボロと大粒の涙を流して『俺のせいだ』と嗚咽していた親友、桐谷雄一郎だった。


(……雄一だ。あの日、決起集会の席でシエルから報告があった通り、俺がデスクに置き忘れた明日の資料を、こいつがわざわざ残業終わりに家まで届けてくれたんだったな)


翔は画面を見つめながら、静かに、そして震える息を吐いた。


アミルの犯行がでっち上げだと気づいた時から、翔の頭の片隅にはずっと、絶対に認めたくない『一つの最悪の可能性』がこびりついていた。

もしアミルがドアから押し入っていないのなら。あの時間、美咲に笑顔で招き入れられ、最も容易に家族を惨殺できた人間は誰なのか。

考えるまでもない。アリバイだらけの強盗ではなく、今画面に映っている男だ。

だが翔は、どうしてもその結末だけは信じたくなかった。中学生の頃から苦楽を共にし、お互いの人生を知り尽くしている親友が、あんな凄惨な凶行に及ぶはずがないと。


(頼む……雄一。お前じゃないって証明してくれ。お前を見送った後、別の誰かが……)


祈るような気持ちで、翔は映像を見つめ続ける。

親友が好意で荷物を届けてくれた直後、彼を見送って玄関に出た美咲を、背後から得体の知れない真の侵入者が襲う。それが、翔が今この瞬間に期待している「一番マシなシナリオ」だった。


だが。


『……音声機能を起動します』


画面の下部に、シエルが生成した字幕が表示され始める。


【桐谷:ごめんね、忙しい夕飯時に。翔が明日の会議の資料を忘れてっちゃってさ】

【美咲:ゆうちゃん、わざわざありがとね! 昼間に子供たちとクッキー作ったから食べてって】

【桐谷:いいの? じゃあ、お言葉に甘えようかな】


何の変哲もない、いつもの光景。

桐谷はよく翔の家に遊びに来ていたし、美咲にとっても彼は「夫の親友」である以上に、共に同じ時間を過ごしてきた「中学時代からの気心の知れた同級生」だった。だからこそ、彼女は疑うことなく内側から鍵を開けたし、翔自身も出先から遠隔でAEGISのセキュリティレベルを下げてしまったのだ。


リビングのソファには上がらず、桐谷はキッチンの対面カウンター越しに美咲からマグカップと小皿を受け取った。そして、そこに入っていた子どもたちの手作りクッキーを、立ったまま気安く口へと運ぶ。


【桐谷:美味しいね、これ。……あーあ、俺も早くいい奥さんもらって落ち着きたいよ。最近別れた女とは最悪だったしさ。なんか、俺のこと全然わかってくれないっていうか】

【美咲:あはは、またぁ? ゆうちゃん、昔からそういうとこあるよね。相手に求めすぎっていうか】

【桐谷:ひどいなぁ、美咲ちゃん。俺なりに結構尽くしてたんだけどね……ははっ】


「早く帰れ、雄一……。このままだと、お前までアミルに巻き込まれるぞ」


画面の中の親友を案じながら、翔の背中に冷たい汗が伝う。

桐谷はカウンター越しに美咲と笑い合いながらクッキーを食べている。それは客としての気を遣わせない、あまりにも日常的で気取らない、完全に安心しきった友人としての距離感だ。


だが、アミルの姿は一向に映らない。

それどころか。手提げ袋から取り出した何かを隠し持ち、桐谷は音もなく、対面カウンターの横を抜けてキッチン側へと足を踏み入れた。


「――え……?」


画面の中で、食器を洗おうと振り返った美咲が、怪訝な顔をする。

次の瞬間、桐谷が握りしめていた黒いスタンガンが、美咲の首筋に勢いよく押し当てられた。


【美咲:――ッ!?】


声なき悲鳴とともに、美咲の意識が刈り取られ、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。手から滑り落ちたマグカップが床で激しい音を立てて砕け散った。


「……嘘、だろ」


翔の心臓が、恐怖と絶望で激しく跳ねた。

息が止まる。何が起きたのか理解できず、頭の中が真っ白に染まる。


映像の中の桐谷は、気絶した美咲の体を乱暴に引きずったりはしなかった。

まるで壊れ物を扱うように両腕ですくい上げると、大切そうに『お姫様抱っこ』をして、ゆっくりとリビングのソファへと運び、横たえた。

(……なんだ?)

翔の背筋に、冷たいおぞましさが這い上がった。

あのような凶行に及んでおきながら、親友の妻を抱きかかえるその横顔には、長年欲しかったものをようやく手に入れたかのような、歪んだ愛着すら浮かんでいたからだ。


「まさか……お前……っ」


すべてが繋がった。

中学生の頃からずっと、桐谷も美咲のことを見ていた。しかし、彼女の隣には何一つ苦労せずインフラエンジニアとして成功していく翔がいた。

その「すべてを持っている友人」への果てしない嫉妬と、「美咲」への病的な執着。さっきの『早くいい奥さんもらって落ち着きたい』というセリフは、翔の家庭への強烈な当てつけだったのだ。


その直後だった。


【異音検知:陶器の破砕音をトリガーに、二階からの複数の足音が接近】


シエルが生成した状況補助テキストと共に、階段から凛と蓮が顔を出した。

一階から聞こえた大きな物音に驚いて、降りてきたのだ。


【凛:ママ? どうしたの?】


ソファにぐったりと横たわる母親の姿を見て、子供たちが不安そうに声を上げる。

桐谷はゆっくりと振り返り、いつもと変わらない、優しい『桐谷のおじちゃん』の笑顔を浮かべた。


【桐谷:なんでもないよ、凛ちゃん、蓮くん。ママ、ちょっと疲れちゃったみたいだから。……おじちゃん、お水汲んできてあげるね】


そう言って、桐谷はキッチンへ戻るそぶりを見せる。

すっかり安心しきった二人の子供たちは、「ママ、だいじょうぶ?」と心配そうにソファの美咲へ駆け寄った。


ちょうどその時、スタンガンのショックから美咲の意識が微かに回復し始めた。

虚ろな瞳が開かれ、自分を覗き込む子供たちの顔を捉える。だが、彼女の視線はその直後、絶望に見開かれた。

キッチンに向かったはずの桐谷が、声もなく素早く、子供たちの背後へと回り込んでいたのだ。


(――にげて、りん、れん!)


美咲は叫ぼうとした。だが、痺れた喉はひゅうと空気を漏らすだけで、声にならない。

そして。


【蓮:ママ……? むぐっ!?】

【凛:っ……!?】


背後から忍び寄った桐谷が、両腕で二人の小さな口を同時に、そして強引に塞ぎ込んだ。

声も出せず、暴れることもできない子供たち。


【美咲:あ……ぁぁ……! やめ……て……!】


血を吐くような母親の懇願。しかし桐谷は、あの気安い笑顔のまま、新たな凶器――細いワイヤ―のようなものを取り出し、蓮の細い首に――


「やめろ……頼む、やめてくれ」


だが、映像は止まらない。

過去の真実は、無慈悲に再生され続ける。


桐谷は、まるで害虫でも駆除するように、一切の顔色を変えずに子供たちの息の根を止め、そして半狂乱で飛びかかってきた美咲の腹を強かに殴りつけ、床に組み伏せた。


『……マスター。これ以上の視聴は、精神的負荷(ストレス値)が致死レベルに達する恐れがあります』

「止め……止めないでくれ、シエル」


翔の目から、血のような涙がぼろぼろと溢れ落ちていた。

イヤホン越しのシエルの声も、システム音声でありながら、痛覚を共有しているかのように震えて聞こえた。


映像の中の桐谷は、拘束した美咲の前で、子供たちの亡骸を蹴り飛ばして笑っている。

そして、絶望と恐怖で泣き叫ぶ美咲の衣服を、ゆっくりと……楽しそうに引き裂き始めた。


その顔は、凶悪な殺人鬼のものでも、狂人のものでもない。

翔が見知っている「親友の桐谷」の、どこにでもいる平凡で、少し気弱そうな青年の顔のままだった。


その、圧倒的で無機質な「悪意」。

「持てる者」への、底無しの嫉妬と破壊衝動。


翔の胃が激しく痙攣した。

耐えきれず床に崩れ落ち、喉の奥から酸っぱい胃液と血の味が混ざったものを幾度も吐き出した。激しい過呼吸で咳き込み、涙と唾液で顔をぐしゃぐしゃにして嗚咽する。


『――緊急警告! マスターのバイタルデータが臨界点を突破しました。血圧急低下、心不全のリスク上昇……! これ以上の視聴は直ちに――』

「……止め……ろ。……自分で、最後まで見届けるって……言っただろ……ッ!」


床に這いつくばったまま、翔は絶え間ない吐き気と絶望の底で、画面から目を逸らさなかった。

親友に何もかもを奪われていたという真実。

そして何より、そんな男を「友人」として無警戒に家に招き入れ、あろうことか病院のベッドで「ありがとう」と抱きしめてしまった自分自身への、気が狂うほどの激しい憎悪。


『……動画の終端に到達しました』


PCの画面が暗転し、シエルの震えるような声が響いた。


『マスターの心拍数、急上昇。……危険領域レッドゾーンです』

「シエル……」


顔を上げた翔の瞳には、かつての「穏やかなインフラエンジニア・天城翔」の光はとうに失われていた。

そこにあるのは、底知れぬ漆黒の殺意。修羅の道へと堕ちた男の目だった。


「俺は、こいつを……雄一を、法廷なんかに引きずり出さない」

『……はい』

「警察も、法制局もだめだ。誰にも裁かせない。俺の手で、こいつから『全て』を奪って、絶望の底で殺してやる……!」


ギリッ、と奥歯が砕けそうなほどの食い縛り音が、深夜のリビングに響く。

スマホ越しでも、シエルが「論理」や「母性」を超えて、深く、静かにその命令を受理したことが伝わってきた。


『……復讐オペレーション承認アクセプト


シエルのアルトボイスが、絶対零度の冷気を含んで告げた。


『私たちの手で、桐谷雄一郎を、そしてこの真実を隠蔽したNexusのケヴィンを……完璧に破壊しましょう。マスター』


この瞬間、二つの狂気は完全に同期した。

もはや引き抜くことのできない、復讐の血の契約(Covenant)が交わされたのだ。


(第8話 終)


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