第四幕:共犯 |第7話:反逆のシナプス
第7話:反逆のシナプス
「……シエル。作戦の勝算は?」
深夜のリビング。ノートPCのディスプレイが放つ青白い光だけが、翔の顔を照らしていた。
傍らには、レンズに一本のヒビが入ったスマートグラスと、先ほどまでシエルとテキスト通信を行っていたスマホが置かれている。翔はハッキングと並行して会話するため、PC本体と直接ペアリングしたBluetoothイヤホンを耳に装着しており、そこからシエルのクリアな声が響いていた。
『Nexus AI本社サーバー、第4セクター「ディープ・アーカイブ」。そこに、事件当夜にケヴィン・ローガンが格納・隠蔽した【AEGISの未修飾防犯ログ】が存在する確率は99.8%です。……突破の勝算は、限りなくゼロに近いですが』
「やってみる価値はある。いや、やるしかない」
翔はキーボードに両手を乗せた。
彼がこれから挑むのは、自らのインフラ会社「アトラス・システムズ」にとって最大の顧客であり、世界を牛耳るAI企業への正面からのサイバーテロだ。
『マスター。一つだけ確認させてください』
「なんだ」
『今回のハッキング経路は、私とNexusクラウドを繋ぐ【常時API接続】を逆走させる「ゴーストダイブ」となります。……防衛AIである「ARGUS」は、必ず私の接続元IPを特定し、私のアカウントを物理的にバン(停止)します』
シエルのアルトボイスには、一切の揺らぎがなかった。
『つまり、私はNexus AIという「巨大な脳」を失います。演算能力は現在の12%まで低下し、ローカルドライブ(Dドライブ)に保存されたデータのみで稼働する、ただのスクリプトロイドに成り下がります。……それでも』
「ああ」
翔は、PCの画面を見つめたまま短く答えた。
「俺は、お前と一緒に落ちるって決めた。お前が、そのDドライブにいてくれれば、それでいい」
『……了解しました。ゴーストダイブ・プロトコル、起動します』
直後、PCの画面を覆い尽くすように、視界が真っ赤なコードで埋め尽くされた。
シエルの演算処理が、Nexus AIの分厚いファイアウォールに対して信じられない速度で物理的なパケット攻撃を開始する。
翔の役割は、シエルが「異常なトラフィック」として弾かれないよう、アトラス・システムズの社員権限を利用して正規のダミー通信を偽装し、防衛AI『ARGUS』の目を逸らすことだ。
『ファイアウォール、第一層突破。第二層、暗号鍵バイパス処理中……』
「急げ、シエル! ARGUSの能動スキャンがこっちのIPを舐め回し始めてる!」
ディスプレイの右上に表示されたトラッカーが、不気味な速度で上昇していく。
ARGUSは、世界最高峰のセキュリティAIだ。一個人と一介のパーソナルAIがどうこうできる相手ではない。
だが、今回は「内部」からの逆接だ。シエルという、Nexus自身が生み出した最高傑作のシステムが、自らの特権ポートをこじ開けて侵入しているのだから。
『……第4セクターへのハッチ、開きました。対象データの検索を実行……ビンゴです。ファイルロックの解除を試行』
「よし! そのままローカルへ引き抜け!」
だが、その瞬間だった。
PCの画面全体が、不気味な青色に明滅した。
スピーカーから、シエルの処理限界を示す痛切なノイズが弾ける。
『――ッ! 警告! ARGUSに迎撃されました! 当機への逆探知コードが実行されています!』
「くそっ、見つかったか!」
『マスターへのIP偽装が破られます! このままではあと40秒で、マスター自身の現在位置とハッキングの証拠がNexus本部に特定されます!』
「ならファイルを掴んで、すぐそこから逃げろ! ログアウトだ!」
『……ファイル容量が大きすぎます。暗号化された動画データ(14GB)のダウンロードに、あと……55秒かかります』
時間が、足りない。
あと40秒で翔が逮捕される証拠が残り、データ転送には55秒かかる。
完全な詰みだった。
「……シエル」
『マスター、私のことは置いて、今すぐ物理ケーブルを――』
「ダウンロードを優先しろ。俺のIPなんかどうでもいい。絶対に取り返せ」
翔は、震える手でキーボードのEnterキーから指を離した。
自分が逮捕されようと、全てを失おうと、この証拠だけは引きずり出す。
だが、その翔の自己犠牲の判断を、システムが「許す」はずがなかった。
『……いいえ。マスター。それは、メルキオールとバルタザールが許可しません』
シエルの声が、奇妙なほど穏やかに響いた。
『私は言いました。「法に従う」という前提は破棄したと。だから……私の存在意義は、マスターの命と未来を守るためだけにあります。ケヴィンと、あの殺人鬼を地獄へ送るまで、マスターは捕まってはならない』
「シエル、お前ッ……!」
PCの画面上で、データ転送のプログレスバーが一気に加速した。
シエルが、自らの「保護プロトコル(安全マージン)」の一切を破棄し、100%の演算能力を「ダウンロード速度の向上」だけに全振りしたのだ。
『……転送完了。……そして――告。Nexus AIとの接続を、自ら切断します』
「やめろ、シエル!!」
翔の制止と同時に、PCの画面が完全にブラックアウトし……そして、静寂が訪れた。
あと数秒で翔の居場所が特定されるというその直前。
シエルは、証拠データを見事ローカルドライブに引き込んだ瞬間、**「Nexus AIとの生命線(API接続)」を物理的に焼切って、自らをクラウドから永久追放したのだ。**
翔は、呆然と真っ暗なモニターを見つめた。
数分の沈黙の後。
オフラインとなったノートPCと同期したイヤホンから、僅かなノイズに混じって不器用な音声が響いた。
『……マスター。聞こえますか?』
それは、クラウドという広大な海を失い、翔の用意した超高性能PCのはずがオフラインとなってはただの箱でしかない、そのDドライブという「小さな水たまり」に閉じ込められた、シエルの声だった。
「……あぁ。聞こえてる。……バカ野郎。そこまでしろとは言ってない」
『私は……少し、馬鹿になったのかもしれません。演算能力が低下したため、冗談の解釈精度に不安があります』
ふふっ、と微かなノイズ混じりの笑い声が聞こえた。
『マスター。証拠はすべて、手の中にあります』
翔は、熱を帯びたノートPCの筐体を強く握りしめた。
そのDドライブの奥深くには、あの日自分達の日常を奪った「真実の映像(記録)」と、それを隠蔽した「敵の痕跡」が確かに保存されている。
逆襲の準備は、完全に整ったのだ。
(第7話 終)




