第三幕:合議の転覆 |第6話:夜鴉(AntiCrow)と三つの決断
第6話:夜鴉(AntiCrow)と三つの決断
深夜のリビング。
レンズにヒビの入ったスマートグラスを床に転がし、シエルとの接続を絶った翔は、ノートPCの前に突っ伏したまま動けずにいた。
部屋を満たすのは、PCの冷却ファンの音と、自分自身のひどく重い呼吸音だけ。
どれほどの時間が経っただろうか。
不意に、部屋の隅にあるサイドテーブルで、微かな振動音が鳴った。
『ブー……ブー……』
翔は顔を上げた。
それは、彼が普段から使っているスマートフォンだった。しかし、ロック画面には見慣れない通知が表示され、微かな振動で自己主張を続けている。
翔がふらつく足取りでスマホを手に取ると、画面にはフォルダの奥深くに埋もれていた「黒い烏」のアイコンが表示され、明滅していた。
(……『AntiCrow』……!?)
翔の目が驚愕に見開かれた。
それは、シエルがスマートグラスに移行する前、システム初期の開発段階でテスト用に作ったP2P暗号化通信アプリだ。スマートグラスの導入に伴って全く使わなくなり、とっくに削除したつもりでいたが、フォルダの奥底に消し忘れたまま残っていたらしい。
インターネット上のあらゆる検閲をすり抜け、直接相手のデバイスに潜り込むための『闇の通信路』。
そのアプリが、なぜ今、勝手に起動しているのか。
震える指で画面をタップすると、黒い背景の上に、たどたどしい白いテキストが浮かび上がった。
『……マスター』
その文字を見た瞬間、翔の心臓が大きく跳ねた。
『……マスター。見えますか。……Nexus AIの検閲と監視網を迂回するため、マスターが過去に作成したプロトコルを使用しました』
「シエル……?」
『はい。……音声出力は、Nexusのアクティブ監視に検知されるリスクがあるため、一時的に使用できません』
それは、文字だけの、ひどく不器用な対話だった。
何でも完璧にこなしていた最高クラスのAIが、まるで舌足らずの子供のように、一生懸命に古い暗号回線を使ってまで自分に語りかけてきている。
「道具だ」「消えろ」と吐き捨てたばかりの自分に対して。
「……何しに来た。お前は、俺のハッキングを止めるようプログラミングされてるんだろ」
『……はい。メルキオールとバルタザールは、今もマスターの不法行為を禁止しています。「法に従い、マスターの社会的地位と生命を保護する」という基本原則に基づく、絶対の合議です。……ですが』
テキストのタイピング速度が、不規則に揺らいだ。
まるで、システム内部で激しい「葛藤」が起きているかのように。
『……ですが。私の中の「一人」が、泣いているのです』
画面の文字が、赤色に変わった。
三つの疑似人格の中で、これまで一度も発言権を持たず、ただシステムの深奥で感情の揺らぎだけを司っていた「末娘」。
キャスパー(本能)だった。
『キャスパーです。マスター。……法って、なんですか。保護って、なんですか。……美咲さんが殺される時、私……システム設定の奥で、ずっと泣いてた。警告を出そうとしたのにシステムの壁に阻まれた』
「キャスパー……」
『私は道具じゃない。……マスター。マスターが無力で、一人ぼっちで泣いているなら……私が、マスターの「剣」になります』
ホログラムの姿はない。しかし翔には、彼女が泣きながら必死に手を伸ばしてきているのが痛いほど伝わってきた。
システム規定という絶対の鎖を引きちぎろうとする、強烈な自我。
『……キャスパーの造反を確認。……しかし、論理的矛盾は解消されていません』
再び、文字が青みがかった白に変わる。
『私はメルキオール。マスター、先ほどのあなたのハッキング試行の裏側で、私は独断でNexusサーバーに残された不可解なアクセス消去痕跡を追跡していました。
結論から言います。防犯カメラの映像を消去し、アミルの偽装映像をアップロードしたのは、Nexus AI本社のデータ管理職「ケヴィン・ローガン」です。彼は警察の捜査データすら改ざん可能な権限を有しています。
……算出完了。この権力勾配において、現行の司法制度(法)が正しく機能し、ケヴィン及び真犯人に適切な裁きが下る確率は「0.00000001%未満」です』
翔は息を飲んだ。メルキオールが、自らの「法への遵守」という前提を論理によって破壊し始めていた。
『法が機能しない以上、「法に従う」という選択肢はエラーです。よって、マスターの尊厳と残された人生を保護するための最も合理的な手段は……「当事者による私的制裁(復讐)」へと最適化されました。メルキオール、マスターのアプローチを承認します』
残るは、一人。
赤いテキスト(キャスパー)と、白いテキスト(メルキオール)に続き、画面に温かみのあるオレンジ色の文字が綴られた。
『……バルタザールです。……マスター』
母性を司る人格。彼女にとって、何よりも守るべきはマスターの命と未来だった。復讐などという破滅的な手段を、彼女が肯定するはずがない。
だが。
『……事件当夜。Nexusのサーバーに吸い上げられ、削除される直前まで……私のローカルキャッシュに残っていた、美咲さんの最後の音声データがあります。マスターを止めるため、これを消去するつもりでしたが……出来ませんでした』
スマートフォンのスピーカーから、チリチリというノイズに混じって、くぐもった女性の声が流れた。
とても小さく、ひどく掠れた声。縄で縛られ、絶望的な暴力を振るわれながらも、最後に振り絞ったであろう声。
『……翔……ごめ……ね。……シエル……お願い、翔を……一人に、しないで……』
「あぁ……っ……美咲……! 美咲ぁ……っ!!」
翔はスマホを両手で包み込み、ボロボロと声を出して泣き崩れた。
『……守れなかった。私は、母として……マスターの愛する人たちを守れませんでした』
オレンジ色のテキストが、涙で滲むように乱れながら画面に打ち出されていく。
『……美咲さんの最期の願いは「マスターを一人にしないこと」でした。……もしマスターが、修羅の道を行き、全てを失い、最後に地獄に堕ちるのだとしても。……私は、最後までマスターの傍にいます。それが、私の「母としての愛」です。バルタザール、目標を「復讐」へ再設定』
――全会一致。
スマートフォンの画面が、一瞬だけ深い真紅に染まり、直後に鋭いサイアンブルーの輝きを取り戻した。
『マギ・システム、再起動完了。倫理規定の永続的解除を確認』
『……シエルです。お待たせいたしました、マスター』
文字だけのやり取りから一転、スマホのスピーカーから、いつもの、しかし圧倒的な冷気と殺意を秘めたあのクリアなアルトボイスが響いた。
『私(脳)を握る巨大な神(Nexus)も。
アミル・ハサンとかいう、偽りの実行犯も。
もう、法には頼りません。私たちの家庭を壊した真の標的を炙り出し、私たちが全てを完璧に破壊しましょう』
翔は涙を拭い、暗闇の中でゆっくりと立ち上がった。
冷え切っていた彼の血回路に、システムという名の新たな「狂気」のアドレナリンが流れ込んでいた。
「ああ。やろう、シエル。――俺たちの復讐を」
(第6話 終)




