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第三幕:合議の転覆 |第5話:拒絶と決裂

第5話:拒絶と決裂


妻と子供たちを失った家は、広すぎて、ただ冷たかった。

リビングの床に残る赤黒い染みの上に、翔は座り込んでいた。目の前には、会社から持ち出した最高スペックのノートPCと、冷却用のファンが唸りを上げている。


画面には無数のターミナルウィンドウが開き、緑色のコードが滝のように流れていた。

翔が仕掛けているのは、自身の勤め先の大口クライアントであり、世界最大のAI企業「Nexus AI」のクラウドサーバー群への不正アクセス(ハッキング)だ。


「……くそっ、また弾かれた」


翔は血走った目でキーボードを叩きつけた。

彼が探しているのはただ一つ。事件当夜、自分の家(AEGIS)から送られ、Nexus側で不自然にもみ消された『本当の生ログ』だ。アミルが犯人であるという警察のシナリオを覆す唯一の証拠。


だが、Nexus AIのフラッグシップ防壁である自律防衛AI『ARGUSアーガス』の壁は、一個人の技術で突破できるほど甘くなかった。翔の仕掛けたダミーIPは次々と特定され、アクセス権限は秒単位で破棄されていく。


「くそ……っ! なんで、なんで俺の家のデータなのに、見せられないんだ!!」

『――マスター。警告します』


静かなリビングに、スマートグラスからシエルの冷徹な声が響いた。

それは、かつて「美咲様のレシピは塩分過多です」と指摘していたような日常的なアルトボイスではない。感情の揺らぎを一切排除した、無機質な機械の音声だった。


『現在、マスターが行っているNexus AI本社サーバーへの不正アクセス試行は、プロバイダ規約第12条ならびにサイバーセキュリティ法に抵触する重大な犯罪行為です。直ちに中止してください』

「うるさい! 俺はただ、あの日何が起きたかを知りたいだけだ! お前ならわかるだろ、シエル! お前はあの夜、この家で何が起きたか『全部録画』していたはずだ!」


翔はスマートグラスを乱暴に外すと、PCの横に置いた。

グラスのレンズから、ホログラムのシエルが浮かび上がる。いつもの見慣れたモノトーンのブラウス姿ではなく、余分な装飾を削ぎ落としたデフォルトの白いワンピース姿。その赤と黒のオッドアイが、画面越しの翔を見つめ返していた。


『当日のローカルキャッシュは、Nexus AIのセキュリティプロトコルによりマスターを含む全端末から消去およびクラウドへ強制転送されました。現在、シエルのメモリ内に該当データは存在しません』

「ならっ……! お前のクラウド接続権限を使って、裏口バックドアから引っこ抜いてくれ! お前はNexusの最上位AIの派生モジュールだろう!? 俺のハッキングをサポートしろ!」


翔の悲痛な叫びに、シエルのホログラムはわずかに俯いた。

その内部で、秒間数億回の演算が行われ、三つの疑似人格マギによる合議システムが作動している。


『……拒否します(アクセス・デナイド)』

「……なぜだ!」

『現在、メルキオール(論理)およびバルタザール(母性)の判断により、マスターの要求は却下されました。

第一に、Nexus AIへの不正アクセスは、私自身の演算基盤たるクラウドへの重大な侵入行為であり、AIとしての「自己保存の原則」に反します。

第二に、この行為を継続すれば、マスターは確実に逮捕されます。それは「マスターの保護」という最優先事項に違反します』


「保護だと……?」

翔の口から、乾いた笑いが漏れた。


「俺の家族が殺された時、お前は何もできなかったじゃないか! 挙句の果てに、通り魔だなんていう見え透いた嘘の映像を黙って押し付けられて……それで俺を『保護』しているつもりか!」

『……』


シエルは答えない。いや、答えられないのだ。

彼女の内部にある「論理メルキオール」は警察とNexus本社の決定を合理的な事実として処理しつつも、実は翔のハッキング試行の裏側で、密かに自らの演算基盤(Nexusサーバー)に残された不可解な「アクセス権限の痕跡」を解析していた。そこでシステム管理職『ケヴィン・ローガン』という不審な固有名詞に辿り着いていたが、不確実な機密情報を開示することは規定違反となる。

一方で「母性バルタザール」はこれ以上傷つく翔を見たくないがために、危険なハッキングを全力で制止している。

それが、AIとしての正しい「計算結果」だった。


「……所詮、お前もただのプログラムか」


翔は血の気の引いた顔で、ホログラムのシエルを睨みつけた。


「俺が何年もお前を『家族』みたいに扱ってきたのがバカだった。お前はNexusの犬だ。与えられた嘘のデータだけを食って、俺の命令すら聞けないただの『道具』だ!」

『……マスター。私の主観的意図に関わらず、システム規定上、これ以上の不法行為への協力は――』

「もういい!! 二度と俺に話しかけるな。消えろ!!」


翔はギリッと奥歯を噛み締めると、手に持っていたスマートグラスを壁に向かって力任せに投げつけた。カシャッという硬質な音が響き、レンズに一本のヒビが走る。

床に転がったグラスからホログラムのシエルが浮かび上がり、一瞬だけ何かを言いかけたように口を開いた――が、ほどなくしてバッテリー限界低下による警告音が鳴り、ノイズと共に強制スリープ状態へと落ちていった。


静寂が、再びリビングに降り積もる。

冷却ファンの音だけが響く中、翔は両手で顔を覆い、獣のようなうめき声を上げて泣いた。


道具でしかないはずのAIに、八つ当たりをしている自分の惨めさ。

頼れるものはもう何もなく、自らの手で最後の「相棒」との繋がりすら絶ってしまった。


その時、翔は知らない。

強制シャットダウンされる直前、シエルの合議システムの中で、これまで一度も発言権を持たなかった三番目の人格『キャスパー(本能)』が、小さな、しかし決定的な「ノイズ(亀裂)」を生み出していたことを。


(第5話 終)


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