第一幕:日常の残照 |第2話:AEGISの盲点
第2話:AEGISの盲点
その日の夜。ITインフラ構築を請け負う「アトラス・システムズ」のオフィス近く。喧騒に満ちた居酒屋では、翔が所属するチームの決起集会が開かれていた。
ジョッキがぶつかる音、終わらない保守案件への愚痴。エンジニア特有の疲れた熱気に包まれる中、翔は手元のウーロン茶を見つめながら、こっそりと骨伝導デバイスに意識を向けた。
「……シエル、家の様子は?」
周囲には単なる独り言にしか聞こえない小声だ。
視界の隅に現れたウィンドウパネルに、自宅の状態が緑色で表示される。
『AEGIS正常稼働中。現在、美咲様はキッチンで夕食の準備。二階では凛様と蓮様が読書中です。すべては完璧な正常を維持しています』
「翔! お前さっきから何ブツブツ言ってんだよ。まだ酒入ってねえろ!」
肩を勢いよく叩かれ、翔は視線を上げた。隣に座る別チームの先輩が、赤い顔で絡んでくる。
「いや、ちょっと家のシステムのステータスを……」
「またお前んちの『過保護AI』かよ! お前、マジでAIに生活支配されてんな。どうせなら、あの可愛い奥さんにもっと構ってやれっての」
居酒屋には賑やかな笑い声が溢れている。だが、ふと翔が周囲を見渡すと、いつメンであるはずの男の姿がなかった。
「……あ、そういえば今日、桐谷は?」
「桐谷? あいつは今日は不参加だ。急ぎのトラブル対応とかで残ってるらしいぞ。まあ、あいつも最近機嫌悪いから、放っとけ放っとけ」
中学からの同級生、桐谷雄一郎。家族ぐるみの付き合いがある親友だ。会社でも隣の席だが、今日は一度も顔を合わせていない。
――その時だった。
視界の隅、シエルのホログラムが微かに明滅した。メルキオールからの割り込み通知。
『マスター。ただいま、天城邸のメインエントランス・スマートロックが解除されました。ステータスは「来客モード(手動承認)」です』
「……え?」
翔はわずかに眉をひそめた。この時間に訪ねてくる人間など思い当たらない。
「シエル、誰が来た?」
『玄関カメラ解析。対象は、桐谷雄一郎氏の生体データと99.8%一致。美咲様とインターホン越しに会話した後、ロックが内側から解除されました』
「雄一……? あいつ、残業してたんじゃ……」
翔の胸の奥で、小さな違和感が音を立てた。あいつはプロジェクトが別で、今は会社にいるはずだ。
『音声解析。桐谷氏は「翔が資料をデスクに忘れたから、代わりに届けに来た」と発言。しかしマスター、居酒屋のネットワーク経由で参照した桐谷氏の出退勤ログには矛盾が確認されます』
だが、シエルの警告も、周囲のバカ騒ぎとアルコールの匂いに包まれた翔には、決定的な「異常」としては届かなかった。
「……なんだ。あいつ、わざわざ届けに行ってくれたのか」
美咲も「いつもの親友」だから、何の疑いもなく鍵を開けたのだろう。
「あいつにコーヒーでも淹れてやってくれよ。シエル、友人が来ている時に家のシステムで監視し続けるのも野暮だ。AEGISの屋内セキュリティレベルを、客用の『最低ランク(レベル1)』に下げておいてくれ」
『……承認しました。屋内センサーの感度を最低レベルへ移行。……しかし、バルタザールからの進言です。桐谷氏のバイタルデータ、とりわけ心拍数が通常時から乖離。不自然なほど高ぶっています』
シエルの声が、微かにこわばっていた。
「いや、いい。あいつのことだ、最近別れた女の悪口でも美咲に聞いてもらって、勝手に興奮してるだけだろ。そのままにしておいてやってくれ」
AEGISは「不正な侵入」を検知する完璧なシステムだ。
だが、その完璧な論理の壁には、たった一つの致命的な「盲点」が存在する。
――住人が自らの手で鍵を開け、招き入れた親友。 And、主が自らシステムの目を塞いでしまったという事実。
翔の視界の端で、AEGISのステータスは「レベル1(監視低下)」に切り替わり、美しい緑色の「正常」を保ったまま輝き続けていた。
(第2話 終)




