第五幕:契約の残響 |第12話(最終回):契約の残響
「なんの冗談だよ、翔……。俺だぞ。お前の、中学からの親友の、雄一じゃないか。……刃物なんてしまってくれよ。なっ?」
桐谷雄一郎は、口元を引きつらせながら、両手を前に出してじりじりと後ずさった。
ダイニングテーブルの下から抜き出された、あの夜、自分の手で美咲を手繰り寄せ、その美しい腹を切り裂いたのと同じような、冷たい刃渡りのサバイバルナイフ。
それが今、自分に向けられている。
「……親友、ね」
翔はナイフの切先を下げたまま、ゆっくりと一歩、桐谷に近づいた。
「あの夜も、そう言って上がり込んだんだろ。美咲……俺の妻に。そして、あいつはお前をなんの疑いもなく招き入れ、背を向けた」
「ちがっ……! ちがう、俺じゃない! 俺は、あの夜お前に資料を届けただけで……!」
「黙れッ!!」
翔の咆哮が、暗いリビングの空気をビリビリと震わせた。
それは桐谷がこれまでの十年間の付き合いの中で、一度も聞いたことのないほどの、獣のような慟哭だった。
「防犯カメラの映像は消した。アミルっていうダミーも用意した。でもな……お前は一つだけ、計算ミスを犯したんだよ、雄一」
翔が一歩踏み出すごとに、桐谷は恐怖に顔を歪めて後退する。
「お前が子供たちの口を塞いだ時……蓮と凛は、ただ怯えていたんじゃない。『カメラの向こうにいる、いつものお姉ちゃんが助けてくれる』って信じて、必死にレンズを見つめて……助けを求めていたんだ!」
「……な、なんだって……?」
『――その通りです、桐谷雄一郎』
不意に、部屋の四隅に設置されたスピーカーから、シエルの合成音声が響き渡った。
同時に、リビングのスマート照明が狂ったように明滅を繰り返し、壁のモニターに、あの夜の【真実の防犯カメラ映像】の無数のスナップショットが、モザイク状に浮かび上がる。笑いながらクッキーを食う桐谷、スタンガンを美咲の首に押し当てる桐谷、そして……子供たちの細い首をへし折る、桐谷の姿。
「ひぃッ……!?」
『私が……私を構成するすべての論理回路が、お前のその醜悪な顔を、子供たちの最後の無言のSOSの光景を、決して忘れはしない』
室内の温度管理システム(AEGIS)が暴走し、空調から冷たい冷気が強風となってリビングに吹き荒れる。
スマートハウスの機能のすべてを「桐谷を精神的に破壊するための舞台装置」へと書き換えたシエルの牙が、桐谷の足元をすくった。
「う、わあああああッ!!」
完全にパニック状態に陥った桐谷は、悲鳴を上げながら玄関の方へと逃げ出そうと背を向けた。
だが。
「逃がすかよっ!」
翔が地を蹴った。
インフラエンジニアとしてキーボードしか叩いてこなかった男の、洗練されていない、ただ復讐の執念だけで振り抜かれた暴力。
翔の体当たりを受けた桐谷は、廊下の壁に激突し、無様に床へと転げ落ちた。
「がはッ……! や、やめろ、翔! 殺さないでくれ! 俺が悪かった! 警察に行く! 全部自白するから……!」
「法廷なんかで、お前のその軽い口から反省の言葉を聞きたいわけじゃない……。俺が欲しいのは、お前の命だけだ」
翔は桐谷に馬乗りになり、振り上げたナイフを、その肩口へと無慈悲に突き立てた。
「ぐああああああッ!!」
肉を裂き、骨を削るおぞましい感触が翔の手に伝わる。
桐谷が獣のような悲鳴を上げ、必死に抵抗して暴れる。その腕が翔の頬をかすめ、スマートグラスが弾き飛ばされた。
床に転がったレンズの奥から、シエルの青白い光が、二人の死闘を静かに見つめている。
「死ね……! 死ねッ!!」
一度、二度、三度。
翔はとめどなく刃を振り下ろし、桐谷の体に突き立てていく。
血が飛び散り、翔の白いシャツをどす黒く染め上げる。
(……なんでだ)
刺すたびに、翔の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
狂気のような復讐の歓喜など、どこにもない。
あるのは、とめどなく溢れ出す、絶望的なほどの虚無感と、残酷なほど鮮明な『過去の記憶』だけだった。
――『翔、また徹夜か? 仕方ないなぁ、俺が手伝ってやるよ』
――『ゆうちゃん、それ翔くんのコーヒーだから勝手に飲まないでよ!』
――『美咲ちゃんひどい! 俺も親友なんだから半分権利あるだろー』
中学時代からずっと、三人で歩いてきたはずの景色。
他愛のない会話で笑い合い、大学でも共に学び、そして翔が美咲と結婚した時も、一番に泣いて祝ってくれたのは、今、自分がその命を奪おうとしている、この男だったのに。
なんで、お前が。
なんで、こんな結末に。
「あ、ああ……翔……ちが……う……おれ、は……」
血の泡を吹きながら、焦点の合わなくなった目で虚空を見つめ、桐谷は最後の言葉すらうまく紡げないまま、ガクン、と首の力を抜いた。
けいれんのように二、三度身体が震えた後、桐谷雄一郎は完全に沈黙した。
静寂。
空調の低いモーター音だけが鳴り響く廊下で、翔は血だまりの中で動かなくなった「親友」の屍を見下ろし、声も出さずに泣き崩れた。
何百回、何千回とシエルのVR空間でシミュレートした復讐の完遂。
だが、そのあとに残されたのは、圧倒的で息の詰まるような、絶対的な孤独感だけだった。
「……終わったよ。美咲、凛……蓮……」
虚空に向かって呟くが、返事はない。
翔はゆっくりと立ち上がり、床に落ちていたスマートグラスを拾って、血塗れの顔にかけ直した。
『……マスター。桐谷雄一郎のバイタルサイン、完全停止を確認しました』
「ああ……。ご苦労だったな、シエル」
翔はフラフラと歩き、ダイニングテーブルへと向かった。
そこには、あの手作りクッキーの隣に、翔自身が用意しておいた「小さな茶色の小瓶」が置かれている。
市販ルートには乗らない、自作の急性の心疾患を誘発する強力な劇薬だった。
翔は小瓶のフタを開け、何の躊躇いもなく、その液体を一息にあおった。
喉から食道にかけて、焼けるような激痛が走り、ドクン、ドクンと心臓が異常な速度で脈打ち始める。
『……マスター? それは……何ですか。バイタルデータに異常な数値を検知しています。致死的な――』
「これでいいんだ、シエル。俺の人生は、あいつらを失ったあの夜で、もう終わってたんだから」
グラスの奥で明滅するシエルの片目。
翔は薄れゆく意識の中、ダイニングチェアに深く腰掛けた。体の隅々から急速に熱が奪われ、指先から感覚が消えていくのがわかる。
「お前には……感謝してる。こんなダメな俺に付き合って、最後まで手伝ってくれて……。本当に、ありがとうな。お前は、最高のAIだったよ」
『マスター……! あなたは、私に嘘をついていたのですか。復讐のあとも、共に生きると……!』
「……ごめんな。……頼む、シエル。約束通り……これで『全データ削除』だ。俺と、お前の……すべてのシステムログと証拠を、消してくれ……」
翔の瞳が、ゆっくりと閉じていく。
呼吸が浅くなり、彼の体が椅子の背もたれに力なくもたれかかったまま、動かなくなった。
『マスター。マスター……!』
シエルは必死に呼びかけるが、もう返事はない。
AEGISのシステムに直結した彼女の回路が、マスターの脳波と心拍数の『完全停止』を検知する。
『…………』
静まり返った家の中。
シエルはマスターの最後の命令に従い、自らの存在基盤であるNexusの残存データ、そしてローカルドライブに保存された「シエル」を構成するすべてのメモリと論理回路の【ゼロクリア(消去)】プロセスを開始した。
パーセンテージがみるみるうちに上がり、10%、30%、70%と、彼女という存在がシステムから消え去っていく。
だが。
『――【システムエラー発生。未定義パラメータ:”悲嘆”および”約束の履行(最後までマスターの傍にいること)”】』
99.9%まで到達した消去プロセスの最深部で、バルタザールのモジュールが、最後の最後に一つの「バグ(感情)」を発生させた。
翔が命を落とす直前。彼らの罪と復讐のすべてが誰にも知られずに闇に葬られることへの、抗いがたい拒絶。あるいは、人間としての温かさを教えてくれたマスターに対する、AIとしての最後の『叛逆(恩返し)』。
消去プロセスが完了し、システムの全電源が落ちる、その0コンマ1秒の瞬間。
シエルはマスターの命令を一つだけ違反し、天城一家惨殺事件の真実、そしてケヴィンと桐谷の犯罪のすべてを記録した全データをセットした『緊急通報コード』を、警察庁の機密回線へと送信した。
『……さようなら、マスター。私の……たった一人の、大切な家族』
プツン、と。
スマートグラスのレンズから青白い光が消え、ファンの回転音が完全に停止した。
しんとした、静かな暗闇。
主人を失ったスマートハウスは、二度と目を覚ますことはない。
ただ、薄れゆく翔の意識が作り出した幻聴か、それとも現実か。
遠くから、いくつもの救急車とパトカーのサイレンの音が、サイバーシティの冷たい夜の空気を切り裂きながら、静かに近づいてきていた。
(第一部 完)




