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第五幕:契約の残響 |第11話:深淵からの招待状

ケヴィン・ローガン逮捕のニュースが報じられた翌朝。

アトラス・システムズのオフィスでは、誰もがその話題で持ちきりになっていた。


「あのNexus AIのデカい顔してた御曹司、逮捕されたらしいぞ。横領の疑いだって」

「マジかよ、うちの会社も取引多いのに……」


社員たちがひそひそと言葉を交わす中、桐谷雄一郎のデスクだけは、まるで真空地帯のように沈黙していた。

モニターに向かっているはずの彼の目は一切の文字を追っておらず、マウスを握る指先は小刻みに震え、キーボードを叩く音は不規則でぎこちない。


(……なんでだ。なんで、ケヴィンがあんなにあっさり捕まるんだ)


桐谷は胃の奥からこみ上げてくる吐き気を必死に飲み下していた。

自分たちの「完璧な計画」は、アミルという名の貧しい外国人をダミーに仕立て上げた段階で、永遠に迷宮入りするはずだった。その防波堤となっていたのが、Nexus AIという絶対的な権力の内側にいるケヴィンの存在だったのだ。


それが崩れ去った。

警察の捜査がどこまで及んでいるのか。ケヴィンはどこまで喋ったのか。「アミルに金を渡して映像を捏造させた」という決定的な事実までバレているとしたら?

その恐怖が、桐谷の理性を少しずつ削り取っていく。


「……雄一、どうした? 顔色が悪いぞ」


ふいに背後からかけられた声に、桐谷は心臓をわしづかみにされた気分でびくっと肩を跳ねさせた。

振り返ると、親友の顔をした天城翔が、どこまでも人の良さそうな、あどけなさすら残る心配そうな表情で自分を覗き込んでいた。


「翔……いや、なんでもない。ちょっと、最近寝不足でさ。ああ、あのNexusの事件……うちにも影響が出ないといいよな」

「そうだな。まあ、俺にはもう会社の仕事の心配なんて、どうでもいいくらいに全部なくなっちまったけどさ」


自嘲気味に笑う翔。その姿は、未だに妻と子供を失った悲しみの底で這いつくばっている「哀れな被害者」そのものだった。


「……無理はするなよ、雄一。俺にはもう、お前しか頼れる相手がいないんだからな」


翔がそう言って自分の肩をぽんと叩いた瞬間、桐谷は内心で大きく安堵の息を吐いた。

(……よかった。翔は何も知らない。こいつは絶対に俺を疑ってない。落ち着け、俺はただの「優しい親友」だ。アリバイは完璧なんだから、堂々としていればいい)


そう自己暗示をかけ、桐谷は作り笑いを浮かべた。

「ああ。もちろんだよ、翔。俺はずっとお前の味方だ」


『――マスター。桐谷雄一郎のバイタルデータ、急激な安堵による血圧の低下と、それに伴う微細な筋肉の弛緩を検知。完全に油断しましたね』


スマートグラスの奥で、シエルの無機質なシステム音声が報告する。


「……ああ。そこから落とす方が、痛いからな」


誰にも聞こえない、唇だけを動かした微かなささやき声。

翔は席に戻ると、キーボードを一回だけ、静かに叩いた。


***


昼休み。

喫煙スペースで一人になった桐谷は、震える手でタバコに火をつけようとしていた。

その時、ポケットの中のスマートフォンのバイブレーションが突然、長く重苦しく鳴り響いた。


「……?」


画面を見ると、『通知不可能』という差出人不明のメッセージアプリから、たった今、一つの動画ファイルが送りつけられてきたところだった。

嫌な予感が全身を駆け巡る。開いてはいけないと本能が警鐘を鳴らすのに、指先は吸い寄せられるようにその再生ボタンを押していた。


暗い画面。

やがてそこに映し出されたのは――


『ッ!? な、なんだこれ……!』


桐谷は思わずスマホを落としそうになり、慌てて両手で掴み直した。

そこに映っていたのは、自分自身の顔だった。

しかも、自分の部屋でくつろいでいるような映像ではない。天城家のリビングで、血だまりの中に転がる凛と蓮の遺体の横で、口を塞がれ涙を流す美咲を見下ろしながら、恍惚とした表情で笑い声を上げている……『あの夜』の自分の姿だった。


「ひっ……!」


ありえない。あの映像はケヴィンが完全に消去したはずだ。

パニックに陥った桐谷は、咄嗟に動画の再生を止めようと画面をタップした。

しかし、スマホは一切の操作を受け付けない。完全にロックされている。それどころか、スピーカーから漏れ出す動画の音声――子供の首をへし折る鈍い音と、自分自身の嫌悪を催すような狂った笑い声が、徐々にボリュームを上げながら無限にリピート再生され始めたのだ。


「と、止まれ……! 止まれちくしょうッ!」


電源ボタンを長押ししても画面は消えない。

焦燥と恐怖で心拍数が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。このまま誰かに見られたら、聞かれたら終わりだ。完全に狂乱した桐谷がスマホを床に叩きつけて物理的に破壊しようと腕を振り上げた、まさにその瞬間だった。


『――着信:翔』


ブラックアウトした画面に、ポップアップだけが白く浮かび上がった。

着信と同時に、あの忌まわしい動画の再生と笑い声がピタリと止まる。

静まり返った喫煙室で、無機質な着信音だけが鳴り響いている。

まるで、見えない「神」が、桐谷の行動のすべてを監視し、コントロールしているかのように。


桐谷は震える指で、通話ボタンをスライドさせた。


「……も、もしもし……」

『雄一か?』


スピーカー越しに聞こえてきたのは、なんら普段と変わらない、穏やかで弱々しい翔の声だった。俺を頼ってくれ、と言っていた午前中のトーンと全く同じ声。


「しょ、翔……。ど、どうしたんだよ」

『……雄一。突然で悪いんだけど、今夜、俺の家に来てくれないか?』

「家……?」

『ああ。実はお前にしか、見せられないものがあるんだ』


心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。

スマホに送られてきた動画。ロックされた端末。そして、このタイミングでの自宅への呼び出し。

偶然のわけがない。だとしたら、なんだ。翔はどこまで知っている。ケヴィンが裏切って俺の情報を警察に売ったのか。それとも翔自身が、どこかで何かに気づいたのか。


(……いや、考えろ。翔の奴はただのインフラエンジニアだ。こんな高度なサイバー攻撃ができるわけがない。……動画を送ってきたのは、ケヴィンと敵対しているどこかの組織の嫌がらせで、翔の呼び出しは偶然重なっただけという可能性も……)


必死に希望的観測にすがりつこうとする桐谷の耳に、冷たい言葉が撃ち込まれた。


『待ってるからな、雄一。……あの夜と、同じようにさ』


ブツッ。

電話が切れた。

桐谷の顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。


***


夜九時。

桐谷は、かつて自分が惨劇を引き起こした天城家の玄関ドアの前に立っていた。

インターホンを押そうとする指が震える。

(……大丈夫だ。バレているわけがない。翔は証拠なんて持ってないはずだ。仮に怪しんでいたとしても、俺が口を割らなければいいだけのこと……)


何度も、何度も頭の中で自己暗示の言葉を呪文のように唱え、ようやくインターホンを押す。

『どうぞ』という低い声とともに、電子ロックが解除された。


玄関を開けると、中は異様な雰囲気に包まれていた。

リビングに通じる廊下も含め、家の中の照明はほとんど落とされている。真っ暗な暗闇の中、ただ一箇所だけ――奥のダイニングテーブルの上だけが、ペンダントライトの青白い光で照らし出されていた。


ゆっくりと歩みを進め、リビングへと入る。

そこには、テーブルを挟んで椅子に深く腰掛けた翔の姿があった。

顔の表情は暗くてよく見えないが、彼が身につけているスマートグラスのレンズだけが、不気味な光を放っている。


「……翔。来たよ」

「よく来てくれたな、雄一。そこに座ってくれ」


促されるまま、桐谷は翔の向かいの椅子に腰を下ろす。

そして、テーブルの上に置かれた『それ』を見て、桐谷の呼吸が完全に止まった。


テーブルの中央には、二つのマグカップ。

そしてその隣には、見覚えのある小さな皿。そこに乗っていたのは――ウサギや星の形をした、少し不格好な手作りクッキーの欠片だった。


「……しょ、翔……これ……」

「警察の現場検証が終わった後、特別に返してもらったんだよ。……あの夜、美咲が、お前のために焼いたクッキーの残りだ」


翔の声は、どこまでも低く、静かだった。

午前中のような「弱々しい親友」の響きは、そこには微塵も存在しない。

ただただ、絶対零度の冷徹さが、暗いリビングの空気を凍てつかせている。


「お前が欲しかったのは、これか? ……それとも、俺の絶望か?」


翔はゆっくりと手を伸ばし、自らの顔から、象徴であったスマートグラスを外した。

カチャン、とテーブルの上にグラスが置かれる。

AIシエルというフィルターを通さない、天城翔という人間の、純粋で剥き出しの瞳が、暗闇の中で桐谷を真っ直ぐに射抜いた。

修羅の道へと堕ちた、漆黒の殺意を宿す瞳。


「お……おま……翔……! 何を言って……」


桐谷は立ち上がろうとした。だが、膝がガクガクと震え、うまく力が入らない。

すべてバレている。こいつは知っている。あの動画を送ってきたのもこいつだ。警察に突き出すでもなく、わざわざ現場に呼び出して、あの夜と同じ光景を再現する。それは法の手順などではない。

復讐の、処刑の儀式の始まりだ。


「……お前が俺からすべてを奪ったその手で、俺の肩を抱きしめた時のあの感触。……吐き気がするほど、気持ち悪かったぜ」


そう言い捨てると同時に、翔の右手が、テーブルの下に隠されていた『何か』をゆっくりと引き抜いた。

闇の中で、鋭く冷たい金属の刀身が、鈍い光を反射した。


「……さぁ、雄一。親友同士、面と向かって人生の答え合わせをしようか」


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