第一幕:日常の残照 |第1話:完全なる朝
【あらすじ】
202X年。世界最大級のAI企業『Nexus AI』と取引を持つ温厚なインフラエンジニア・天城翔は、ある日突然、愛する妻と二人の子供を惨殺される。第一発見者となった彼は、自宅の精巧なセキュリティシステムが作動しなかったことに気付く。
その裏にあったのは、『絶対に法で裁かれない』傲慢な権力者と、最も信頼していた親友の、底の知れない悪意だった。
翔は、自らが趣味で育てていたパーソナルAI『シエル』の倫理限界を解除し、全てを奪った者たちへの完璧な復讐を誓う。
復讐に狂った男と、彼に寄り添うAIが紡ぐ、血とデータの心中劇。
第一部、開幕。
第1話:完全なる朝
「おはようございます、マスター。現在の時刻は午前6時30分。外気温は14度、天候は快晴。今日一日を通して、不快指数は年間平均を下回る最適な気候が約束されています」
耳の奥の骨伝導デバイスから、静かで知的なアルトボイスが響く。
天城翔は、シーツの感触を確かめながらゆっくりとまぶたを跳ね上げた。寝起きのぼやけた網膜に、スマートグラスが直接投影するAR(拡張現実)ディスプレイが重なる。今日の天気、最新のテクノロジーニュース、そしてスマートホーム『AEGIS』が管理する自宅の全稼働状況。すべてが手の届く視界に、洗練されたウィジェットとして浮かび上がっていた。
「……ん、おはよう。シエル」
掠れた声で応じると、視界の右隅に、空気を結像させたようなホログラムがふわりと現れた。
艶やかな黒髪のロングヘア。右目が赤、左目が黒のオッドアイ。白いブラウスにタイトな黒의スカート。彼女こそが、この家のあらゆるシステムを統括し、翔の人生をサポートするパーソナルAI――「CIEL(Cognitive Intelligence for Ethical Logistics)」だ。
彼女には、翔が敬愛する『エヴァンゲリオン』のシステムを模した三つのサブ人格――論理の「メルキオール」、母性の「バルタザール」、情念の「キャスパー」――が組み込まれている。
『マスター。昨晩のバイタルデータを分析した結果、深夜に浅い睡眠のスパイクを複数回確認。進行中のプロジェクトに対する無意識下のストレスが原因と推測されます。パフォーマンス維持のため、朝食にてカカオ70%以上のチョコレート摂取を推奨します』
「あー……ストップ。朝イチからメルキオールの正論はキツい。今はパスで」
翔が苦笑いして制すると、ホログラムのシエルは少しだけ肩をすくめて見せた。
『承知しました。非合理的ですが、現在のマスターの情緒を優先し、バルタザールへ切り替えます』
『美咲様はすでにキッチンで朝食を準備中。今日はお味噌汁ですよ、翔さん。すぐに下へ向かうことをお勧めします』
バルタザールが顕現している時だけ、彼女は時折「マスター」ではなく「翔さん」と呼ぶ。これも翔が組み込んだ人間らしさの「揺らぎ」だった。
階段を降りると、すでにリビングからは出汁のいい匂いが漂っていた。
IHコンロの前に立つ妻の美咲が、足音に気づいて振り返る。
「あ、おはよう翔。今日は早かったね」
「シエルの容赦ないモーニングコールのおかげさ。……いい匂いだ」
翔がキッチンに近づくと、美咲はくすっと笑った。中学からの同級生、ずっと隣にいた彼女の穏やかな笑顔は、翔にとって世界のどんな高度なアルゴリズムよりも価値がある、「完璧な日常」の象徴だった。
「シエルちゃん、いつもパパの管理、本当にありがとうね」
『美咲様へのサポートも、私の重要プロトコルです』
「――っパパぁ!!」
ドタドタという足音とともに、5歳の蓮がリビングに飛び込んでくる。その後ろからは、8歳の凛が目をこすりながら歩いてきた。
「こら蓮、走らないの」
「シエルおねえちゃん、おはよー!」
蓮は空中に手を振る。子供たちは、パパのメガネの向こうにシエルがいることを知っているのだ。
『おはようございます、凛様、蓮様。今日のお弁当には、タコさんウインナーが入る確率が98%です』
「やったぁ!!」
蓮がバンザイをして跳ね回り、凛が翔の足元に抱き着く。
冷たいデジタルと、温かい手作りの朝食。緻密な演算と、屈託のない笑い声。天城家の朝は、いつだってこうして始まる。
この日もまた、そんなありふれた、けれど痛いほどに幸福で「完璧な一日」になるはずだった。
――夜。
中学の同級生であり、隣のデスクに座る「あの男」が、薄ら寒い笑顔を浮かべて、この家のインターホンを鳴らすまでは。
(第1話 終)




