15話.パンになった女
「えっと、今日の香りはどうかな? 原料、分かりそう?」
仕切り直しといった感じに、オジェはソルに向き直った。
「名前は分からないけど、集中すれば分かるよ」
ソルは何度か鼻を動かした。
その姿は間違いなく、猫が匂いを嗅いで安全かどうかを確かめている時の仕草だ。ティエラにはそうにしか見えなかった。
「そんな、本格的に嗅ぐものなのか」
真剣にオジェの手首の匂いを嗅ぐソルに、オジェは若干引いていた。想定していた姿と違ったらしい。
ソルを見ていると、ティエラの頭の中に一つのひらめきがやってきた。
――自分も同じようにすれば、匂いを嗅ぎ分けられるかも。
「ちょっ、ティエラさん!? 近い近い近い!」
「動かないで、匂いが逃げる」
「逃げないよね!? 匂いって逃げないよね!?」
思い立ったが吉日だと、ティエラはオジェの空いている方の手を掴み、ものすごい勢いで鼻を動かして匂いを嗅いだ。ソルの三倍は嗅いだ。
「……ミルクの匂いも分かんない」
「あはは、だろうね。ティエラさんは仕方ないと思うよ」
自分に匂いを嗅ぎ分ける才能がなかったこともショックだが、それがどういうわけかオジェにまでそうだろうなと思われていることに、二重のショックを受けた。
力の抜けた手のひらから、オジェの手が落ちていく。
自分の顔は、そんなに匂いが分かりませんという顔をしていたのか。
「どうして……どうして私の鼻は、匂いを嗅ぎ分けられないのっ!」
「いや、だって、ティエラさんはいつも何かしらのパンの匂いをさせてるから、多分鼻がそっちに慣れちゃってると思う」
「えっ、私ってそんなパン臭かった!?」
自分がパン臭いという事実は、今日一番の衝撃だった。オジェの香水の匂いが分からないことなんて、もはや些事だ。
「臭くないよ! そばを通ったら『パンの匂いがしたかな?』ぐらいの温度感だから!」
「本当に!? ソル! 私、パン臭くない!?」
「ティエラは甘くていい匂いだよ。パンは大体クロワッサンの匂いがする。それかベーコンエピ」
「いやぁぁぁ!!」
パンの種類が特定できるほどの匂いだと知り、ティエラは絶望した。
特に、ソルが挙げた二種類はよく食べている自覚がある。これらを食べ過ぎて、体臭がパンになってしまったんだ。
「パンの種類までは分からないかな……」
「私、もうお嫁にいけない……」
「オジェの付けてる今日の香水の匂いはミルクと、よく服からする甘い匂い。柔らかい服のやつ。後は蜂蜜の匂いがする葉っぱ。ハニーリーフだっけ? 前にうちも使ってたよね」
「使ってたぁ……」
両手で顔を隠して泣いているティエラをガン無視して、ソルは匂いの元を当てていく。このマイペースな感じがソルらしく、そしてちょっぴり憎い。
ハニーリーフというのは、蜂蜜のような味がする植物のことだ。
学園生活が始まる前、本店の方で両親が作っていた新作のパンに、材料の一つとして使われていたのをソルは覚えていたようだ。
ただ、今のティエラはそれどころじゃない。
「柔らかい服からする、甘い匂い……コットンフラワーかな? ミルクとハニーリーフに、コットンフラワーを合わせれば……」
こっちはこっちで、ティエラそっちのけで香水の材料配分について、呪文のような早口を唱えながら考え込み始めた。
そして、オジェは急に表情を引き締めていった。
「よし、これなら姉貴に仕返しできる!」
「仕返し?」
思ったより不穏な言葉が出てきたことで、ティエラは手の隙間から顔を出した。
「今日の香水、実は姉貴に無理やり付けられたものなんだ。そのお詫びにって言って渡してきた弁当箱も、明らかに女性もので嫌がらせだし。でも、材料を全部言い当ててやったら、絶対に姉貴も驚くはず!」
その言い方は、子供がいたずらを企む時みたいだった。彼にも年相応なところがあるんだと思うと、ちょっぴり可愛く見える。
「それで、ソル! 良かったらなんだけど……」
オジェが勢いよく振り返り、再びソルの肩を掴む。
「君の鼻、ぜひうちの香水作りに——」
「いやだ」
「まだ言い終わってないんだけど!?」
オジェが膝から崩れ落ちた。
ソルはというと、少しだけへそを曲げたような顔をしている。
「だって、いろんな匂いがするのは嫌」
「それが仕事になるからね……」
ティエラも、思わずうなずいてしまった。香水の作業場なんて、ソルには地獄だろう。
「まあ、世の中そう上手くはいかないよね。うん」
オジェくんはふらつくように鞄を持ち、扉へ向かう。思いっきり机の角に太ももをぶつけたようで、足を押さえて引きずっている。
ドアの前で、オジェは一度だけ振り返って笑った。
「でも、今日はありがとう。もしよかったら、また感想聞かせて」
オジェの言葉にうなずくソルを見て、ティエラは目を大きく開いた。
「また明日ね、ティエラさん、ソル」
「また明日」
ソルが小さく手を振る。ティエラも同じように手を振りながら、胸の奥がポカポカするのを感じた。
今日の夕暮れは、いつもより長く教室を照らしていた。




