素晴らしい経験を。
「ユウ殿、堪えられよっ! 一瞬さえ凌げれば、勝てぬまでも生き残る事は出来ますからなっ!」
そんな大音声でユウへと向けて、長髪を靡かせながら大太刀を振るうのは、冒険者組合シシリア州カターニア支部における戦闘教導官、セッシであった。
冒険者引退を公言し、中年太りした彼ではあるが、歴とした黄金位階の冒険者でもある。神速の手業と称される凄腕でもあった。
人柄が穏当で、武芸百般に通ずる彼は組合から請われ講師として、日々組合へと詰めている。
「くうっ!」
大太刀は刃を潰し、更に峰打ちで振るわれている。左右から横薙ぎされたそれらを盾で受けつつ踏ん張っているユウの足元の土は、既に抉れていた。
ユウが受けているこの日の教導。大楯にてセッシの太刀を受け止め続けるというものだ。
「息を抜かず、異能を展開されるのですぞっ!」
サラウンドで聴こえるセッシの声。彼は当然の様に分身をしていた。二方向からの斬撃を受け止め留め、一声を発する事が本日の課題であった。
「腐海耽溺【とらBLメイカー】!」
ユウが異能を展開すると同時に、二人のセッシの履くズボンのお尻部分が破けた。まろび出るのは中年のお尻。ノーパンである。二人のセッシはお互いのお尻を見て、オェッとしながらその場から離れた。
「よくぞ、保たせなされた。休憩としましょうぞ」
納刀し、一人のセッシとなった教導官は破れた尻を抑えながらも寄ってくる。グフグフと笑うセッシの見た目は、まるっきり不審者であった。
「はぁ、はぁ……。ありがとうございました。だけどもっとこう、手心とかを……」
喘ぎながらも礼をして、少しずつ息を整える。礼に始まり礼に終わる。セッシに教わった訓練での心構えであった。見た目は古典的キモオタの癖にこの師匠、礼儀作法にはかなり煩い。
「飲み物でも買ってこられるが良い。休憩がてらに感想戦と参ろうか。拙者のは熱い珈琲を、ブラックで頼み申しますぞ」
「行ってきます」
ユウは紙幣を渡されて、喫茶店へと向かった。
程なくして戻って来たユウの手には、熱々の珈琲と冷たい紅茶、幾つかのドーナツの入った紙包みが持たれている。買ってきた品であった。
「一緒に食べましょうね。師匠」
「お気遣い、かたじけない」
「お礼なんて、そんな。セッシ師匠に奢って貰っているんですから」
パタパタと手を振り笑うユウ。道場に備え付けてあるテーブルに、二人は腰掛けた。
基礎戦闘の講習を受け始めて、そろそろ二ヶ月となる。街には木枯しが吹き始め、朝も冷えるようになってきた。冬の訪れもすぐ側へと来ている。ユウが転移をしてからは、既に四ヶ月を過ぎていた。彼女はドーナツを皿へと盛って、先生、お先にどうぞと薦める。
「ならば、拙者はこれを」
セッシが選んだのはチョコレートに粒々とした七色のトッピングをしたレインボーチョコレート。予想通りの選択だった。彼の好物である。ユウは苺チョコでコーティングされたフワフワドーナツを手に取った。
「「乾杯」」
カップを持ち上げて、互いに言い合う。寛ぎの時間が産まれた。
「確か、本格的に術式を学び始めたのは、ここ数ヶ月なのだと仰っていましたな?」
「ええ。私の居た地域では、術式の教育が整備されておりませんでしたので。これまでは縁もなく」
「あいや。拙者、麗しき淑女に、そんなお顔をされたくはありませんぞ。責めている訳ではござらん」
嘘を吐く事に少し引け目を感じて、語調や表情は曖昧なものとなってしまう。人の良い師匠に申し訳ない気持ちになった。あと、お世辞でも麗しいと言われるのも、畏れ多かった。
セッシ師匠や周囲へは、ヤボンの南にある島から来た旅行者で、航海中の嵐に拠ってシシリアに漂着してしまった遭難者であるとしていた。都合良く、ユウが転移した時期にはヤボン籍の旅客船の遭難があった。
「生きる努力を惜しまぬお人には、拙者共一同、助力を惜しみはしませんぞ」
シシリアとヤボン近郊の海域にはかなりの距離があるものの、未知なる海洋もまた、一種の大異界とされている。
距離や時間を無視して漂着物が出現する事なども、特に珍しい事でもない。加えて、ヤボン南の島はここ十年程でヤボンに接収されている。島の文化や言語形態はヤボンや大陸諸国とも異なり、術式に纏わる知識なども、あまり発展していないらしかった。
「シシリアは恵み深く、おおらかな島でござる。身の振り方などは、ゆるゆると決められるとよろしい」
島民の、おおらかさに助けられている。ユウの語るそれらの物語は転移者である事を隠す為の、カバーストーリーとしてのものだ。クラウディアやカドオナ、ポンメルなどと相談して作り上げた創作であった。
「ありがとうございます。お気持ちに応える為、精進しようと思います」
それでも、善意に付け込み嘘を吐く罪悪感には慣れない。感謝と共に謝罪の気持ちで頭が下がった。
「ま、ま。話を戻しましょう。身体能力も術式も確かにまだまだ未熟。だが、筋はそれ程に悪くもありません。弛まず修行をしていけば、目標に届くのはそう遠くはないでしょう」
目標とはシシリアでの鉄位階への昇格だ。他所ならば、実績を積めば辿り着けるものである。だが、シシリアでは実績だけでなく、お山【霊峰エトナ火山】を一人で歩いても生き延びられると認められて、昇格の査定がされた。
「流石に、自衛するくらいの力は欲しいですからね」
当初は戦闘など無理だと思っていたユウであるが、近頃では段々と自信も付き始めている。無論、喧嘩や殺生などは無理だ。だが、身を護り、逃げる。所謂、護身に専念するならば、なんとかなるのではないかと考え始めていた。
「そろそろ、強化強度も十を超えそうですしな。基礎術式も実用に足るものです。異能と合わせれば、低層の採集依頼なども熟せるやもしれませんな。暫くは、護衛付きならば。ですが」
術式の勉強をしていく中で、最も難関となるであろうと考えていた、未知であった術力を練るというモノは実にあっさりと出来てしまった。まったく原理など想像も付かぬが、強い術力に触れていると、自然に出来る様になるらしい。ユウも既に確りと己の体内術力を認識し、そこかしこに溢れる自然術力の存在も、感じられる程度にはなっている。
「異能ですか。私のこれって、役に立つんですかね」
件の島は術式の発展こそしていないが、異能者が多くいたらしく、同様に異能持ちであるユウが出身とするには都合が良かった。
「精神干渉の強度は、それ程高くはなさそうですが、事象操作の制御はなかなかに強力。制御を上手く出来れば、切り札ともなりますな」
腐海耽溺【とらBLメイカー】についてであった。男性同士にお色気ハプニングが起こり、彼等がちょっとだけ意識し合うという、ささやかな異能である。
「どういう訳だか、拙者も尻を出し、つい注目してしまいましたので、隙を作るのには有効な手段かと。戦闘においては基本的に、複数を相手取るのは下策です。が、複数に襲われた場合の牽制としてならば、有用でしょう。かといって、修行の方針は変わりませぬぞ」
異能とは選べるものでなく、成長もしないものらしい。だが、術力に依存せずして行使可能であり、活用出来るのならば戦術の幅は広がった。なので、この異能を開示して、相談もしている。薔薇の煉獄【ハッテンバーン】については秘密である。あんな危険な異能を、易々と知られる訳にはいかない。切り札だった。
「まずは地力を養う。ですよね。それと装備や道具なんかも整える」
ユウが錬鉄を目指したのも、実力を測るのに、必ずしも敵を討ち倒す必要がないと知った為だった。
武器を持ち、相手に振るうのは恐ろしく、またその技術もない。手軽に扱える銃や術具などはあった。そういった物ならば訓練により、いずれは使用可能となるかもしれないが、平和な日本で育ったユウには使用への抵抗がある。
そういった事柄は、段階を置きながらセッシへも伝えていた。だからこそ、武装としての殺傷能力よりも、防具としての防御力を重視した大楯を薦められている。鈍器なので、使い方によっては殺傷能力は当然あった。だが、剣や槍、斧や鎚などの明らかな凶器に比べれば、ユウにも心理的な抵抗は薄かった。
「だが、時として相手を討ち果たさねば、争いが収まらぬ事はある。覚悟を決めろとは言えませぬが、ユウ殿が傷付けば、悲しむ者が多くおる事は忘れられぬよう。無論、拙者とて、平静ではいられはしますまい」
例えセッシの言葉が社交辞令であるのだと判っていても、嬉しくなってしまう。見た目こそキモオタそのもので、少しは身嗜みに気を遣って欲しいとは思うものの、それでもだった。
「それでは、もう一つ稽古をお願いします」
ドーナツを平らげて、それぞれのカップも空となった二人は、その後も暫く鍛錬に励む事となった。
酌婦の仕事を辞めたといっても、ナイトクラブには毎日通っている。遊びに来ている訳ではない。労働依頼としてのものだ。事務方としてであった。
「ユウお姉様。そろそろ少し休憩にしましょう。紅茶でよろしいでしょうか?」
「あ。じゃ、少しだけ待っててね。こっちの書類仕上げちゃうから」
ビタロサ王国の法人には決算報告の義務がある。これは企業や団体だけでなく、行政府などの地方自治体や冒険者組合などにも適用され、怠った場合には代表者などの経営役員に対し、禁固刑と多額の科料が課せられた。なので、どういった集団も真面目にやるのだが、日々の記帳などは面倒事も多くあり、なかなかに地味で骨の折れる仕事であった。
「ユウお姉様には手伝って頂けて、非常に助かっております」
「こういうのには慣れてるからね。字も読める様にはなったし、お客様のお相手をするよりは気楽かな」
「私もです」
きっちりと学園制服を着こなし、おっとりと微笑む眼鏡をかけたこの少女、ヒミカという。労働依頼として酌婦をしている兼業冒険者でもあった。
「お母様のお客様に頂いた、良い茶葉があるのです。もしよろしければ、後でお持ち帰りくださいませ」
「マダムのお客様? どのお方なんだろね」
「お店のではございませんよ。シシリアナ孤児院長様から頂いた、ブリテンの茶葉にございます」
楚々として紅茶を淹れるヒミカ。このお上品な身ごなしや言葉遣い。ユウの感覚で言えば、割とリーズナブルなナイトクラブの酌婦などにはとても見えないし、信じられない。だが、立場を知ればそれもそうだろうと頷ける。ヒミカはこのナイトクラブのオーナーである、マダムの娘さんであった。
「ああ。あの……」
シシリアナ孤児院長様も有名人だ。何せ、元王妃様である。小市民であるユウには畏れ多くて、名を口にする事すら憚られた。
「とても優しくて、素敵な女性にございますよ」
「それは、そうなのでしょうけど……」
色々と有名な話だ。九つで母を亡くし、十二でシシリアの公娼資格を得た元王妃様は、公娼として春を鬻ぐ事を認められる二十の歳でデビュタント、遊郭の専門用語では突き出しを飾ると、即座に前王によって身請けされて高御座へと登った。彼女は春を売るでなく芸を売る八年間で、ただ一度たりとも身体を開く事なく最高位の公娼、太夫として認められていた。
美しく、機知に富み、愛情深い少女であったのだと伝えられている。彼女が突き出しさえ行わぬままにそれ程の評価を得たのには、巧みな宣伝工作や将来性を買われてもあるのだろう。だが、苦界とも呼ばれる公娼業である。余程に傑出していなければ、海千山千の遣り手達から、その様にして特別に扱われる事など、まずあり得なかった。
「確か、あのお方は孤児院の為に、その道を選んだんだよね。……たった九歳で」
「いいえ。お姉様。我等が『ママ』が、自ら苦界へと沈むお覚悟をされたのは、『子供達』の、『未来』への為でございます。孤児院は、ただの場所でしかありません。お母様や私達が、あのお方へと微力を捧げられる事は、私達にとっても福音なのです」
言葉を訂正をされて嗜められる。先代王妃に対し、ヒミカは見習うべき先達と、崇拝にも似た感情を寄せている。どういう育ちだったのか、ヒミカも物語の中の聖女の様に清らかで、聖母の様に愛情深い。しかも、クラウディアにも匹敵する美少女である。嗜み程度にだが、百合へも理解のあるユウをクラクラとさせるくらいには、ヤバい娘さんであった。
「そうだったね。その頃に孤児院に居た、あのお方が『我が子』と呼ぶ、子供達の為に……」
そういう話は小説や絵物語にもなっていて、割り引いて聞かなければならないのだろうが、それでも一言で言ってしまえばヤバかった。
何せ、先代王妃様は当時九歳の幼女である。その幼女が、当時の成年である十五を筆頭とする子供達を『我が子』と呼んで、母として育んでいる。
昔の話であるし、脚色もあるのだろうが、異常な話であった。常識力の高さに自負のあるユウにとって、荒唐無稽な絵空事としか思えなかった。年端も行かない少女にバブみを感じてオギャるなど、変態でしかない。
「お母様が近頃お忙しいのも、貴人たちへの社交と経営の講義の為ですの。そのお陰もありまして、喜ばしい事にお店も軌道に乗ってございます。喜ばしいし、誇らしいですけれど。……偶には、お母様も、私達やお店の事を、もっと気に掛け下さっても良いのに」
前半を誇らしげに、後半を寂しげに告げるヒミカにユウはやはりキュンキュンしていた。可愛すぎない? この子と。
文字通りに裸一つでナイトクラブを立ち上げたマダムは、遣り手の商売人でもある。十五でヒミカを産んだ彼女は後に冒険者と公娼の二足の草鞋で金を貯め、この事業を始めている。
これまでは困難とされていた手頃な価格での社交や癒しの場の提供を、業として軌道に乗せたのは、やはり遣り手であった。
キャパやクラブなどに類する仕事は昔からあるのだが、長く生き残れる店や企業は多くない。マダムはそういった経験を買われ、社交や経営の講師としても、大陸中を駆け巡っている。営業活動を兼ねてであった。
「マダムが安心して営業に回れるのも、ヒミカちゃん達が頑張ってくれるからだからね。それに、お母様は直接言いはしないけど、すごく気に掛けているから」
フォローに回るユウである。だが、判ってはいますけど、寂しいのです。そう呟くヒミカには言えない事もあった。
マダムはこの純情な子の母親とはとても思えない、とても享楽的な女性であった。ユウは知っている。マダムの社交や経営の講義は、自分の楽しみのおまけでもあるのだと。
マダムは極めて薄型の男性用感染症予防兼避妊具の、共同開発者であった。彼女が成人にも呼ばれているのは、床の上の技術を教導するが為である。現在非売品である超極薄型のそれは、ユウの居た日本では、超極薄型と呼ばれた道具である。まんまであった。
マダムは女性達を手取り足取り導きながらも、数多の男性達への上に跨って、踊っている。不意に増やす事のない、明るい家族計画だ。そんな話、潔癖な所のあるこの娘さんに聞かせられる筈もなかった。例えそれが、後の莫大な利益を保障するものだとしても。
「うふふ。ありがとうございます。ユウお姉様」
「いいよ。ここにいるのも。ヒミカと一緒にいるのが好きだからなんだもん。私は、マダムと三人でいるよりも、ヒミカと二人の方が嬉しいかな」
「まぁ……」
開いたお口に両手を当てるヒミカであった。
正直な話、マダムは決算報告の役には立たない。三桁以上の計算が苦手であるからだ。一応は出来るし、時間を掛ければ問題ない。だが、少なくもビタロサには電卓も算盤もなかった。そんな環境で、暗算が苦手なマダムに決算報告を手伝わせるのは無謀であった。賑やかなだけで、足手纏いなのだ。そういう意味の話であるが、文言はかなり危険な発言である。ユウには気付けない。ヒミカの瞳が妖しく輝いている事に。
「うふふ。書類仕事はここまでにしましょう。やはり皆様、都合が付かないようなので。心苦しくはありますが、本日はお姉様にもお久しぶりに、出て頂きますからね。片付けを終えたら、お着替えですよ」
「真面目な学生さん達は大変だよね。ま、これも仕事の内だから、穴埋めは確り熟すよ」
秋が深まる頃、学園では中間考査が行われる。それは現在の能力を測るものであり、成績は将来への保障ともなった。学生達が力を入れない筈もない。この様な時期には、労働依頼を休む学園生達も多かった。
「と、すると今日は四人? なかなかしんどいかも」
ヒミカと、他二人である。彼女達は十九で、学園は既に卒業している。学府へは進まず、また就職も決まらずにいて、取り敢えずは冒険者として生計を立てつつ、地力を養おうという娘さん達だった。所謂、日本にもいたフリーターの様な立場である。
「今日、初めての子が入りますので、五名となりますね。それならば、充分な戦力にございます」
「初めての子?」
この時期に初めてなのは珍しい。シシリアでは大抵の学生が、仮成年となる十五の春に冒険者登録をするからだ。短時間で依頼達成となる酌婦や酌夫は特別な知識や資格も必要とせず、労働依頼としての時間効率も良い為に、見習い期間には好まれるものだった。一応は社交や客あしらいなども学べる仕事なので、受付も、早くに経験を薦めた。
「一つ歳下の、学園の後輩なんですよ。彼女も今後の為に、経験しておきたいと」
「いや、ダメじゃん。働かせられないよ」
それでは十四歳である。特に酌婦に資格は必要でないのだが、仮成人以上である事が条件だった。それが唯一の条件だからこそ、冒険者登録と共に行える容易な労働依頼の一つとして普及している。
「大丈夫です。あの子は、冒険者なのですから」
「あー。そういう事か。でも、本人が望んでなの?」
「事情を察せられてしまいまして。力を貸してくれるそうです。あの子自身も、経験した事がなかったという話でしたので、そこそこ乗り気ですよ。せっかくですので、お言葉に甘える事にしました」
冒険者登録をすると、仮成人として看做される。ただし、十五での登録は無条件であるが、それ以下の年齢での登録は難度が高かった。学力も実力も、共に高い能力が求められる。学府修了程度の学科試験での合格と、小規模異界の単独攻略が必要とされている。
「恐らくはお姉様も、名前くらいはご存知なのではないのでしょうか」
冒険者となれば扶養を外れ、納税や勤労の義務を負う。高難度な上に責任を求められるので、十五未満の冒険者登録は少ない。だが、何事にも例外があった。
「勿論、知ってるよ。有名だもん、彼女は。シシリアナの末娘。シシリア州最後の孤児……」
それが孤児である。親や保護者を持たない孤児のみが、主と国家の間の愛し子から抜ける十二の歳で、冒険者登録を認められた。
これは基本的人権の保障と労働資格を与える為にある制度からのものである。条件も、義務教育修了程度の学力か、異界で力を示すまでに緩和されている。
それでも相応に難度は高いのだが、落とす為の試験ではないので、決して無茶な要求ではない。
そして、安定したシシリアには現在、たった一人しか孤児登録者はいない。その一人というのは十四歳の少女で、移民の子であった。
彼女が幼い頃に両親は死亡し、孤児となった。数多くの養子話を断り、シシリアナ孤児院へと入った彼女は、確かにヒミカの学園での後輩にあたる。そして、銅板に記されし者。銅位階の冒険者でもあった。
「クーナ=シシリアーナ嬢。とても真面目で可愛い子ですのよ。お姉様も、きっとお気に入り下さるかと」
他州の孤児上がりの冒険者達は、生活の為に学園通いを辞める者も少なくないのだが、彼女は冒険者としての活躍をしながらも、学園には通っていた。
「見た事はあるよ。シシリアンズ・ミィエィ・フィグリは、注目の冒険者パーティだしね」
元王太子殿下であらせらるヴィットーリオ殿下。元騎士で、現シシリア州議員でもあるエレノア女史。都市カターニアの職員でもあるフランシスコ氏に、クーナ嬢を加えた四人こそが、『シシリアの愛し子』を意味するパーティだった。
若くして、黄金位階と魔銀が二人。新入りのクーナ嬢さえも、齢十四という若さにして、銅板に記されている。元王子様こそ孤児ではないが、クーナを含めた三人は元孤児だ。二人は既に成人しており、クーナが無事成人を迎えれば、現状、シシリアに孤児登録者は存在しなくなる。
行政や州民達は新たな孤児を出す事は社会の敗北であるとして、彼女の健やかな成長を見守っている。そうでなくとも美しく、また朗らかな愛らしい娘さんであった。彼女は移民や孤児だと差別もされず、街中で慈しまれ、愛されてもいた。
「良い街だよね。優しい人達が多くて」
「お姉様も、その一員でございますわ。忘れないでくださいね」
ヒミカによる褒め言葉には照れてしまう。幸運に恵まれていると、ユウには思えた。優しい人達がいて、余裕のある社会でもある。
もしも経済状況が悪かったり、治安の悪い地域にいたならば、そうは思えなかっただろう。凡人の自覚のある彼女は、もしもそういった場所へ転移していたのなら、征服され、搾取されていただろうと想像がついた。
口にこそ出さないが、そんな状況であったなら、いつかの『あの子』の様に、目の前にいる人を、縁のある人達を、様々な物事を大好きだよ。愛しているよ。などとは、到底想えはしなかっただろうとも考えてもいる。
「そうだね。ありがとうヒミカ。私も、皆に恥じない大人になりたいな」
「お姉様っ!」
立ち上がって帳簿の片付けをしていたユウへ、ヒミカが飛び付いた。ユウも最近では体力も筋力もついてきており、小柄で華奢なヒミカが飛び付いてきた所で、体幹は小揺るぎもしなくなっている。
「お姉様っ! お姉様っ! お姉様っ!」
フンフン、ハァハァするヒミカ。落ち着きがあり、大人びた子といえと、まだ十五。忙しい母に甘える機会はあまりなく、共に働く、中には歳上の少女達への長姉役をしている彼女のいじましさが可愛いくて、ユウは少女の頭を撫でる。
日本に居た頃はコンプレックスであった百七十に迫る身長も、こちらではあまり気にならなかった。
人類種には様々な種族がいて、長身な女性もまた多い。見られる事が嫌で、目立たぬ様に背を曲げて俯いていた頃とは今は違う。背筋を伸ばし、立ち居振る舞う様になっていた。それも武術の鍛錬の一貫だと、セッシに諭されての事である。
「ヒミカもさ。頑張り過ぎなくても良いからね。寂しい時は寂しいんだもん。無理をして、苦しむ姿を見せられる方が、周りは辛いんだよ」
入院をしていた為に、たった一人、生き残った子。病気で苦しんでいるのに、運が良いのだと言われる。生きているんだから、頑張んなきゃいけないと、励まされもした。
「辛い時には吐き出して、周りに頼りなよ」
大切な家族を失って、嘆き悲しむ級友の遺族達を見るのは辛かった。好奇心で覗く、無遠慮な人々の視線が怖かった。それらのどれもが、優にはどうしようもない事ばかりであった。
背が高かったから、目立つ。何もしていなくても、視線を集めた。だから背を曲げて俯いて、友達も作らずに一人勉強に励んだ。当たり前に得ていたものが、失くなってしまうのが怖かったから。
「私はさ。そう出来なかったから、お父さんとお母さんとのさようならの時も、心配かけちゃってね」
そんな生活を送っていれば、周りも強いて関わろうとはしなくなる。高校でも大学でも、青春の様な事はなく、また、せずにもいた。それを心配していたのが両親だ。心配させたくなくて、だからこそ頑なになって弱音を吐かず、大手と呼ばれる企業へと就職も出来た。これで、今まで愛し、育てて貰った恩返しが出来ると、安心していた。
だがその冬に、両親は共に流行病によって逝ってしまう。精一杯に生きて欲しいという、激励と後悔を残して。そこで、優の心は折れてしまった。
諸々の手続きなどは、嵐の様な忙しさの中で済んでいた。遺された家には、自分一人だけ。支えとなっていた人達は、もういない。再び当たり前にあった場所が奪われた。
それからは惰性であった。心に蓋をして、新たな関係を築く事なく、月日だけが流れていった。仕事は忙しくなっていて、余暇のオタク趣味だけが僅かな慰めとなっていた。自殺は考えられなかった。『生きて』という、両親の願いだけには報いたかった。そんな日々の末に、目が眩み、フラフラと線路に落ちて——。
「お姉様?」
死の恐怖へブルリと震えれば、伝わってしまったのだろう。ヒミカが心配そうに見上げてくる。
「この街に来て、生まれ変わった様な気分なんだ。前居た所では出来なかった事も、試してみたいし」
安心させようと、ユウが言えばヒミカもハイと返事をする。ギュッと掴まる彼女の頭を再び撫でる。
実際に、かつての鳴海優を知る者からすれば、生まれ変わったのだと思うのかもしれなかった。
今のユウは背筋を伸ばし、前を向いている。鍛錬による運動や食事は健康にも良い影響を与えている様で、肌艶や髪質なども以前よりも良くなっていた。様々な仕事の中で、時に認められ、時に誉められて、表情にも自信が満ちるようになった。
もう世間の視線が怖く、俯いていた頃の彼女ではなかった。
「今日の予約は、ルッツ社の慰労会だけだっけ? それじゃあ、そろそろお店を開ける準備をしよう。ヒミカはクーナちゃんに付いててあげてね」
ルッツ社とは、女性向けアパレルブランドの名である。元はマルテ社という老舗総合アパレルメイカーのセカンドラインであったが分社化し、今ではマルテブランドの中核をなしている。
ありとあらゆる貴女を、華やかに飾る。時、場所、場合を選ばず、女性の魅力を際立たせる事をコンセプトとしていた。
「では、着替えに参りましょう」
ヒミカに腕を取られ、ドレッシングルームへと連れていかれるユウは、そろそろ礼服なんかも用意しないといけないな。などと考えている。