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新しい生活へ向けて。

改稿。どうにも地味な物語です。



「うむ。この出来ならば、取り敢えずは問題あるまい。仕事を選べるだろうよ」


 退院を翌日に控えたこの日、優はポンメルにより筆記試験を受けさせられていた。基礎学力などを測る為だそうである。

 それは日本でいう所の数学であった。内容は、理系学部の大学入試範囲相当のもので、とても苦戦している。

 文字は交信のお陰か読めるので、言語による不利はない。とはいえ、勉学に打ち込んだのは今は昔の事なので、大変に難問ばかりであった。


「大丈夫なのですか? 半分くらいしか出来なかったと思うのですけど」

「論文も合わせれば、六割近くは取れておるよ。この試験はな。更生施設の卒業試験の一科目と同じものよ。これで半分を解けるのならば、知識は別としても主と国家の愛し子から離れる幼年教育修了と、同程度の学力があるのだと見做される。労働資格に問題はないであろう」


 ファンタジー舐めていて、ごめんなさい。優は素直にそう思った。

 幼年教育修了は、日本で言う所の小学校卒業に相当している。この異世界、そんな子供達にさえ高等教育である専科大学並の学力を求めていた。

 優が受けたのは数学のみであるが、他にも二十の科目があるらしい。

 更生施設に送られた転移者の中には二十年以上も卒業出来ずにいる者もあるという話にも頷けた。離れて長いとはいえ、一応は大学で数学を専攻していた優ですら、この程度なのだ。日本からの転移者達の多くは若年層だと聞いている。一般的な中高生では、相当に厳しかろう。


「技術者や研究者でもなければ、そう用いはせぬ学問であるのだがな。思考の柔軟性や論理性を測るのに、これらは悪くない。故に子供達には身に付けさせるのよ。知識や記憶でどうにかなるものは、学ぶ気概さえあれば、どうとでもなるのでな。まぁ、転移者の中には、虐待だ。などと言う者もおるそうだがな」


 ちょっと困った顔をするポンメルに、つい吹き出してしまう。教材を持って来たりして、何度か顔を出してくれた彼とはすっかり打ち解けている。


「十五の仮成人を迎える歳であるならば、誰でも成れるのが、冒険者なのですよね? 中々転移者に、厳しくはありませんかねぇ?」

「そう突っ込まれると弱いのう。だが、転移者には強大な異能が備わるのだ。己を律し、正しくあって貰わねば、お互いに危険であろうよ。これは、拙者達の都合であるがな」


 彼は真面目で堅物なだけではない。ごく当たり前な優しさなどを持っていて、気遣いも出来る人だった。

 自分達の社会の都合として、転移者に不自由を強いる事には罪悪感があるのだろう。それでも、彼等が護ると誓っている平穏の為には必要なのだと己を律している。

 強情で、損な性分だ。そういった人達は、あまり身の回りにはいなかった。どちらかと言えば利己的な人達が多くいて、そういった環境に疲れてしまっていた優にとって、そう悪いものではなかった。


「もう、ユウさんも退院ですのね。退院されれば私の患者ではなくなりますけど、せっかくお友達になれたのです。これからも、仲良くして下さいね」


 クラウディア達も、こうしてよくやって来る。優は学びの中で、彼女達とは共通の趣味がある事に気付いてしまっていた。


「お住まいが決まりましたら、教えてくださいね。冬の新刊には、参加して頂きますからねっ!」


 漫画である。それも、一応は健全だが、ちょっとだけ腐った類の少年達の愛の漫画であった。

 そういった出版物をこちらでは漫画と呼ばす、絵物語と呼ぶそうである。だが、実質的には同じ物であった。

 コミケに参加した事のない優であるが、自作のネット小説にはイラストも掲載していたし、漫画も描いている、小学校五年で始めているから、同人活動歴は既に十七年以上。彼女はかなり、年季と力の入ったオタクであった。


「今冬のは、サ殿の総受け本ですからね。かなりの注目を浴びる事になるでしょう」

「ええ。実は既に描き始めています。文字を覚えていないのでネームはまだですが、ヨ✖️サでの悲恋物を完成させるつもりです。余力があれば、陛下✖️サ殿でもう一本。漲ってくる……」


 文字を学ぶ教材として、雑誌や新聞が使われるのはそう珍しい事ではない。

 丁度良く、保護の術式が掛けられて、それらは保管されていた。一年程以前の雑誌や新聞であった。そこに載っていた画像は、優を大変奮い立たせるものだった。

 それは王弟によるクーデター。新王朝の誕生を報せるものと、その後に起こったシシリア州領主である辺境伯の隠居と、彼の筆頭騎士であった男の逐電であった。

 王都にて、政変を起こした王弟である現、ビタロサ国王陛下は、盟友であるオリヴェートリオ・シシリア辺境伯の願いである隠居を赦した。

 辺境伯家には娘が一人おり、彼女は当時三歳にもならぬ幼子だ。辺境伯家こそ継ぐものの、任には耐えぬとして、辺境伯家は領主の地位を解かれている。その流れにより、シシリア州は議会制へと移行していた。


「ナマモノとはいえ、こんなに美味しい素材が転がっているなんて、異世界って最高だわ……」


 何が優の琴線に触れたかといえば単純に、彼等の顔面偏差値の高さであった。

 辺境伯家の筆頭騎士であったサ殿は精悍な赤髪の美少年。その主であり、辺境伯であったヨの字は影のある金髪の美少年であった。

 彼等の近影は記事には載ってはおらず、優が見たのは、ヨ殿が辺境伯家を継ぎ、領主となった後に凄腕の冒険者として頭角を表していたサの字を『我が騎士』として、叙任した数年前の写真であった。

 その写真撮影の時期の彼等は十七歳と十五歳であったという。

 それは実に華やかな、とても美しい少年達のツーショット写真であって、元は二次元至上主義者であった優を、ナマモノ信奉者へと転ばせたのであった。ヨ殿の同級生である、国王陛下の現在の写真もとんでもない美青年であった為、非常に彼女の妄想は捗った。


「節度を保って、お願いしますぞ」


 ポンメル閣下は困った顔をして、見逃してくれている。

 当然だろう。あくまでも、優やクラウディア達による絵物語は、創作物なのである。これはフィクションであり、実在の人物、団体などには一切の関係はありません。とも明記しているのだ。実在する人物と結び付けて考えるのは、正に邪推である。


「全年齢向けの、健全物ですからね。ご心配をなさらずに」


 いけしゃあしゃあと宣うクラウディアだった。

 彼女は成人指定の作品は描かない。寧ろ、描けないか。

 まだ二十歳という彼女は外科医として、男性器などを見ているし、その機能などにも知見はあるが、恐らくは実践の経験は無かった。それは言動から容易に察せられる事である。割と本気で、愛情から八百一穴が造られるものだとも思っているっぽいのだ。それに、まったく彼女の描く成人物の描写にはリアリティが無かった。そういった絵物語の描写に従っているだけなのである。

 敢えて、それを指摘する事はない。盛大なブーメランであるからだ。どこかとは強いて言わぬが、通じ合うものがあり、友として、同志として、似た物として短期間の内に非常に打ち解け合っている。優もまた、良い歳をして実践経験の無い乙女であった。



 という訳で退院を迎え、その足で冒険者組合へと赴く事になる。

 優に先立つ物はない。あるのは腐った情熱と、生計を立てなければならないという使命感のみだった。

 住居や生活の基盤は必要だが、現在は文無しだ。着ている物はリネン地のブラウスとデニムのパンツ。下着一式や靴と鞄と共に、クラウディア達から贈られた物である。今の優一人では、着る物すら満足に用意出来ない。まずは仕事であった。

 食、住に関しては、見通しが立っている。仕事にありつければ安宿を探すつもりであった。気は進まぬが、最悪仕事が無くて文無し継続であろうとも、教会へ行けば、数日くらいならば何も言われないらしい。炊き出しもあるという。そういった言葉を当てにして、堂々と冒険者組合シシリア州カターニア支部の扉を開いた。


「お邪魔しまーす」


 が、すぐに後悔する事になる。扉を開いて踏み入った瞬間に、ガラの悪い男性達の眼光に射すくめられたからである。入院していた十四日間。良識ある人達に囲まれて、過ごしていたが故の慢心だった。


「お邪魔いたします」


 言い直しても意味はない。日本語において、ちょっと丁寧な言葉が混ざっただけである。非常に無意味であった。


「いらっしゃいませ! お姉様!」


 だが、そこに救いはあった。優の足元に、小さな女の子がトテトテと歩いて来ていて、とても朗らかに元気良く、挨拶を返してくれたお陰であった。少女ではない。三、四歳くらいの幼女であった。


「お嬢ちゃんに、冒険者組合はまだ早いかなぁ?」


 しゃがみ込み、視線を合わせて言ってやる。この幼女、ちょっとヤバイくらいの美幼女であった。優が筆舌に尽くせないと思った程である。クラウディアや著名人達もヤバかったが、この幼女はちょっと飛び抜けている。彼女に宗旨替えを強いたヨやサに匹敵する、もしかしたら上回る綺麗さであった。そんな幼女が、ユウの手を握って小さく呟いた。


 ——我が心は、ただ汝に寄り添う。ただ一時の安らぎを。——安息レスト


 柔らかく、暖かな何かで満たされる。幼女の手は離れてゆくが、何かが残った。つい軽口が唇へと昇る。


「可愛いご挨拶、ありがとうね。ごちそうさまです」


 不安など見せない様に、冗談めかしておいた。


「ふふん。お姉様。アンナはまだ名乗りをあげる事を赦されておりませんが、お母さんと共にここな組合へ、用事を片付けに来ているのです。謂わばお仕事で来ているのです。それに、もう何回も来ているのですよ。謂わばベテラン。上級者であります。しかして、お姉様のご様子から察するに、初心者と見受けますのです。どうぞ、私にお頼りなさってくださいな」


 幼女は無邪気に、目に映る人、物、全てが大好きで愛おしい。そういった感情を隠さずに、滅茶苦茶なドヤ顔を晒すのだ。しかも天然なのか、うっかり名乗りをあげてしまっている。あざとい。とても、あざとい。

 これには腐女子を自認する優も、ちょっとヤバかった。幼女が可愛い過ぎて、性癖が滅茶苦茶になりそうになる。だが、優は節度ある貴腐人であった。


「駄目でございますよ。お嬢様。ついうっかり、お名前を唇へ乗せてしまっていましてよ。それに、可愛らしき小さな淑女様。見知らぬ大人へのお声掛けは、諸刃の剣へとなってしまいます」


 この辺りの受け答え。看護師である彼女による、教育の賜である。彼女はクラウディアとは同年で、学園在籍時は同級でもあったそうだ。とても天然な女性であった。淑女文化に傾倒していて、一時期は過激な描写にのめりこんでいたらしい。だが、最近の性癖は健全寄りになっている。現在の彼女はドロドロとした、ねちょい物語よりも、子供達を主役に添えた、爽やかで、淡い物語を殊の外好んでいる。

 ちょっと性癖を拗らせ過ぎじゃね? とは思ったが、敢えては突っ込まない。今の看護師は幼女百合物や、おねロリ物などに傾倒していて、非常に危険な腐女子であった。その辺りが好みであるならば、別に、腐ってはいないのだが。


「ア……。私には、お姉様は少し、ご不安を抱えていられる様に見受けられました。素敵なお姉様にご不安を与えるでは、冒険者組合の名折れ。私はおばあちゃんが働いている組合を、皆が大好きになって貰いたいのです。差し出がましくはあるのでしょうが……」


 やっべ。やっべ。と苦しむ優である。

 つい、何この良い子と愛でたくなった。だが、幼女との触れ合いは御法度であるとも聞いている。それに、破落戸共の視線の意味も、既に察していた。それは、幼女が来てるんだ。静かにしておけという、身も蓋もない意味合いであった。


「ふ。シニョリーナ。心配はいりませんよ。あまり声高に名乗れる立場ではありませんが、私は異能者で、転移者なのですっ!」


 おおっ! と驚く幼女に、ガヤガヤと騒ぐ周囲。この十四日間の中で、優は二つもの異能の習得を叶えていた。

 その名も、『腐海耽溺』と『薔薇の煉獄』。どちらも精神、あるいは概念作用の術式であり、その効能は世界の大凡半数を占める男性に有効であると、感覚的に理解している。

 強度の都合上、適用範囲はそう広いものではない。精々が戸建て一軒程度、日本で言うならば百十五平米強、三十五坪くらいの範囲距離である。なお、適用高度と対象人数は無制限である様な気がしていた。


「転移者の姉さんよぉ。知らねぇのかもしれねぇが、子供達には『触れるべからず』だ。あまり不審な態度でいると、手枷を嵌められるぜ。お嬢も、心配してなのだろうが、初対面での声掛けなんかは慎もうな。それとお嬢。マリアさんが探してたぜ」

「はぁい……。ごめんなさい。お姉様、お兄様。失礼いたします」


 幼女は綺麗な礼をして、去ってゆく。声を掛けて来たのはちょっとヤンチャ系っぽい少年だ。線は細く、まだ高校生くらいの年齢に見えた。優は彼へとお礼を言って、幼女へは「ごめんね」と声を出して謝っておいた。聴こえていたようで、元気いっばいに手を振ってくれている。


「いや、別に良いんだけどよぉ。転移者とかも、態々名乗らない方がいいぞ。姉さんには悪いが、あまり良く思われていないからな」


 言葉遣いは綺麗ではないが、優しい少年らしい。言葉の中には気遣いが見えた。


「こんな事を言ったら失礼なのかもしれないけど、キミもかなり若いよね? まだ子供なんじゃないの?」

「んあ? 本当に失礼だな。一応、十五になるから仮成年だぜ。子供扱いはやめてくれよ」


 大体想定通りの年齢だった。とはいえ、三十路も間近な優にとっては十五歳など少年だ。

 盗んだバイクで走り出しそうな多感なお年頃でもある。かくいう彼女とて、十五の頃は大っぴらに非行などしなかったものの、社会を知らず、万能感と無力感に溢れていた時期だ。成人向けの作品に手を出し始めたのも、その頃である。大変に未熟であった。今もあの頃から、どれ程成長したのか実感もない。


「これは失礼しましたわ。シニョーリ。もしかして、貴方も冒険者登録をされに?」

「あ? なんだ、姉さんはまだ未登録かよ。あぁ、転移者なら仕方がねぇか」


 ちょっと勝ち誇った様な顔をして、俺は今日、若木として認められたんだぜ。と言う彼に、賞賛の言葉を贈っておいた。冒険者登録には階級制度があって、準市民権と労働資格を得る紙位階から始まって、功績を積む事により、若木、錬鉄、中級と呼ばれるその先へという風に位階が上がってゆく。

 この位階という仕組み。受諾可能な依頼などにも影響するし、位階が上がるのに従って、信用情報の更新が出来る。

 これは冒険者組合が金融機関を兼ねるからであり、この社会においては纏った金銭を工面する為に、冒険者として位階を上げるのは有用であった。加えて、錬鉄ともなれば有用な資格として、就職などにも有利となるらしい。


「んま、佳い姉さんが根無し草のままっていうのも頂けねぇか。ほら、俺の事なんか構ってねぇで、登録に行ってこいよ。自由な冒険を。そうあれかし」


 少年はそう言いながら優の背を押して、組合から出て行った。手には依頼票らしき物を持っている。どうやら仕事に向かう様だった。若者が、生き生きとして仕事に出て行く。その背中を眩しく見送り、受付へと向かった。


「いらっしゃいませ。冒険者組合ビタロサ王国シシリア州、カターニア支部へようこそ。異界より訪れた、木漏れ日の様な穏やかなお姉様」


 受付も普通にヤバかった。大層な美人さんである。歳の頃は十七、八といった所であるが、とても落ち着きのある娘さんであった。受付が容姿採用という仮設に、頷かざるを得ない。


「流石は冒険者組合という事ですね。私が、転移者であるとお察しですか」

「いいえ。いいえ。お姉様。あれ程に声高に仰られたのなら、カマカケや確認に、それを盛り込まずにいられないのが、私達受付でございます。冒険者登録をされに、いらっしゃったのでございますね」


 クスクスと笑う彼女に、思わず優は身悶える。己の迂闊が為だった。そう大声で話した訳ではないが、幼女との会話はばっちり聴こえていた様だ。少なくとも、このかなり広いエントランス内にいた四十名程の人達には。


「それと、この街には異能者や転移者だからといって差別する、あるいは利用しようと考える不届き者などおりません。が、場所によっては違います。身を護る為に、そういった情報は秘匿されるべきでしょう」


 確かに。と思った。クラウディアやポンメルには、この世界における転移者の立ち位置なども教わっている。要するに、武器を握ったメンヘラだ。差別はまぁ仕方がないとして、利用されるのも嫌である。いつの間にか悪事の片棒を担いでいて、断罪されるなど御免であった。そういった場合、大抵は苦労が大きく、実入りは少ない。


「迂闊でしたね。でも、あんな小さな子に心配されたなら、仕方ないですよう……」


 元々は、転移者であるだとか、異能者であるだとかという事を、大っぴらに開示する気はなかった。クラウディア達とも、その方が平和だろうと、見解が一致していたからだ。

 異能を得たとはいえ荒事の自信はないし、そういった事に首を突っ込むつもりもない。

 この世界、冒険者がいて、異界や怪物があるとはいえ、かつて優が読んできた異世界ファンタジーの様に、「闘わねば、生きられない」という様な、ダークで残酷なファンタジー世界ではないようだった。

 有難い事である。ならば、安定した平和な生活を。それを求めるのは、当然の感性である。


「これからは、お気を付けくださいね。我等がカターニアの冒険者の中に、みだりに個人情報を吹聴する様な、慮外者はおりませんが」


 殊の外、大声で言うのはエントランスに居る人達へのものだろう。フォローというか、牽制というか、そういった意味合いがありそうで、その心遣いが理解出来た為に、深く頭を下げた。


「まぁ、本当に仕方がない事故みたいなものでしょうしね。ご安心下さい。皆様弁えておりますので。それに、お姉様はとても幸運ですよ。『あの子』に逢えたのですからね」


 『あの子』の意味する事など、尋ねるまでもなかった。先程の幼女である。声音からも、この受付の女性だけでなく、この場にいる、あるいはいた誰もが彼女を大切に扱っているのだろう事が察せられた。


「とはいえ、『触れるべからず』なのでしょう。敢えて聴きはしませんよ」


 交信が身に付いているので、会話に不自由はない。まるでこの技術、猫型ロボットの翻訳蒟蒻であった。声に出しての会話ならば不自由しないし、文字も読める。あまりの便利さに、共有語覚えなくても良いかも。と思った程だ。

 だが、人は誰もが理解し合いたいと欲するものではないそうで、偶々親しくした人達との会話は成立したが、病院内でさえ大半の医師や看護師達とは会話が成立しなかった。今も、エントランス内での多くの会話は聴こえていても、理解出来ていない。


「良いお人柄でございますのね。私、嬉しくなってしまいます」


 クラウディア達もそうだったが、こうやって人柄などを褒められるのには慣れない。恥ずかしいし、そんなに性格良くないから。という気持ちもある為だ。

 優にはさっき出会った美幼女の様に、世界の全てが、出会う人達や物事の全てを、大好きだよ。愛しているよ。などと想う事など出来る気がしない。

 相手の本音や下心が気になるし、優にだって当然そういうものがある。それを晒すのは怖かった。やり様はあるのだろうが、交信では見栄を張ったり嘘をつく事が難しい。気持ちを直接届ける術式であるからだ。

 だから、さっきの美幼女を安心させる為の言葉では誤魔化しが出来ず、秘匿すべき情報をつい口走ってしまっている。


「うふ。それではお姉様。謀りを疑う訳ではありませが、お持ちでしたら、いらっしゃった場所での身分証などを拝見させてくださいな。それが最も簡単な登録方法ですの」


 デニムパンツのポケットに入れている財布から、運転免許証を取り出す。異世界へ来た事により、役には立たないだろうと考えていた身分証であるが、有効な活用法があった。運転免許証には様々な情報と共に、顔写真が載っている。写りの問題などはあるが、概ね本人確認が出来た。生年月日や更新日時なども記載されているが為に、年齢以外を条件としない冒険者登録においては強い意味を持つ。この世界では転移者の存在が認知されており、専門家や博識な者ならば、文字や数字を解するらしかった。


「仮成人を超えていらっしゃいる事を確認しました。お返ししますね」


 一度カウンターの下へ置いた免許証と優の顔を見比べて、生年月日と更新日時を確認した受付に恭しく返される。

 どうも。と受け取った優であるが、受付の彼女は頬を紅潮させており、少し涙目になってプルプルしていた。興奮状態にあるようだった。

 これは、クラウディア達も見せた反応だ。なんでも、こういった、彼女達にとっての異世界物品は教養として目にこそはするが、触れる事など殆どないらしい。大変に知的好奇心が刺激されるそうだった。


「あの。大丈夫ですか?」

「ご、ごめんなさい! すぐに契約書を、用意しますねっ!」


 上擦った声音で叫んだ受付嬢は収納の術式を使って契約書を用意する。内容を、よくご確認くださいと。

 その内容に特別なものはない。細かくもなかった。要約すれば、自由を保障し、自己責任を負うものだ。これまでの功罪とは無関係に、冒険者と組合は対等なビジネスパートナーとなる契約だった。

 その為の情報提供や守るべき規律なども織り込まれているが、単純で穏当なものである。対価として、組合により基本的人権が保障される。これらに同意、即ち護ろうと誓う言葉により、契約は成立する。


「姓は鳴海。名を優。私は己が足で立ち、世界の中の一人としての自覚と責任を以って生きる、冒険者となる事を誓わん」


 そして、優による宣誓。


「ようこそ。世界を拓き、未知を踏破する勇ましき、新たなる冒険者のお方。我々と世界は、貴女の未来を寿ぎましょう。自由な冒険を。そうあれかし」


 応える受付が、登録を寿ぐ言葉を結べは、契約は締結される。世界のどこかで契約の福音として、御使達による荘厳な音楽が響き渡るらしいが、この場でそれを認識する者はない。


「はい。ユウ=ナルミさん。こちらが当座の冒険者証になります。大切になさってくださいね」


 複製された契約書を渡される。文面は消えており、ただ「所有者であるこの者を、冒険者として認める」その文言だけが残されていた。


「なんか、結構あっけないですね。もっと、何かあるのかと思いました」

「そうですね。この契約に関しては、冒険者が負うべき義務などはあまりありません。寧ろ、それを負うのは社会となります。必要でなければ、態々冒険者とならなくても良いですし、他に生計を立てられる見込みがあるのなら、依頼を熟す必要もありません。ただ組合は、社会は。一人の冒険者の自由な選択を尊重する。それだけです。ですから何をしても良いですし、別に何もしなくても構いません。ただし、貴女の行いは、必ず貴女自身へと返ってきます。努努お忘れなきよう」

「因果応報って事ね」


 感覚として、劇的に変わったモノはない。だが、元の世界から切り離されて、この世界においての異物でしかなかった優は、このたった一枚の紙の冒険者証を得る事によって、人として受け入れられたのだと心で理解した。

 クラウディアや看護師達、ポンメルの様に、個として、友として優を受け入れてくれたのではなく、社会が、世界が、それを構成するシステムが。一個の人として、自分を受け入れてくれたのだと、本能的に理解している。それは新たなる生誕の喜びであった。


「ユウ=ナルミ様。こちら、簡単なものですが、冒険者達への手引書となります。交信を習得されているならば、読めるものです。新米冒険者へお配りしている物なので、ご遠慮なく、どうぞ」


 一冊の書物を手渡される。文庫本一冊程度の厚さであった。題名にはそのまんま、『冒険者への手引書』と書かれている。


「簡単な要約であれば、口頭でもお伝え出来ますが、望まれますか?」

「あー。いえ、悪いですし、またの機会にでもお願いします。これには目を通しておきますね」


 せっかくの提案であるが、後ろへ振り向いたユウは、遠慮する事にする。彼女の後には続々と人々が並び続けており、列が出来ているからだ。あまり長居をして、彼等から不興を買うのは得策でないとの判断である。小市民である優に、そういった重圧に耐える図太さなど、あまりなかった。


「かしこまりました。でしたら、ロビー内にある休憩所などをお使い下さい。貴女の自由は、全てが認めておりますよ。新しき同胞よ。将来のご活躍をお祈りします。そうあれかし」


 美人さんな受付嬢に見送られ、休憩所を目指す。

 不安はない。かなり広く立派な建物である冒険者組合であるが、地図も置かれていて案内図には交信が適用される。その為、例え文字を知らなくとも読み間違えもなかった。

 すぐにでも仕事が欲しいユウであるが、依頼票が掲示されている区画は、まだ混み合っている。割の良い仕事は有限で、早い者勝ちな面もあるのだろう。

 だが、焦りはない。今の自分に何が出来て、何が出来ないかも判らないからだ。割が悪い不人気な仕事でも、安全であるならば、選り好みせぬつもりであった。

 当然収入は必要であるが、それ以上に、挑戦してみよう。試してみようという気持ちが強かった。


 焦って選んだ依頼より、じっくりと吟味しておきたかった事もある。

 素寒貧である筈なのに、ユウ=ナルミの心は、日本で鳴海優であった頃よりも、余裕が出来ている。


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