星に願いを
「へえ、お前、あのやんちゃ坊主の犬だったのか」
その人間はベンチから腰を上げると、俺の背中にそっと手を伸ばしてきた。最初の一撫では、ためらいがちだったが、その指先は意外にもあたたかく、そして柔らかかった。
やんちゃ坊主……?
何だそれは。俺の主の名前はひろしくんだ。立派な名前だ。人間のあいだで『やんちゃ坊主』と呼ばれているのかもしれないが、俺からすれば、あの子は誰よりも真っ直ぐで、ちょっとばかり走るのが好きな、賢い子だ。俺は誇りに思っている。あの子の犬であることを。
ここ数日、俺は『お爺さん』に連れられて、いつもの散歩コースから少し外れた公園に来ていた。公園のすぐ隣には、白くて四角い、人間の建物がそびえている。
病院、というやつだ。あまり好きな匂いではない。消毒液と、苦しみと、時々涙の匂いがする。
けれどその三階の窓から、今日もひろしくんが手を振ってくれていた。目が合うと笑って、小さな手を何度も動かす。その姿を見るたびに、俺の尻尾が勝手に大きく揺れてしまう。
会いたい。顔を舐めたい。体を寄せて、胸の音を聞きたい。
けれど、『お母さん』が言っていた。もう少しだけ我慢すれば、また一緒にいられるようになるって。
だから俺は吠えるのを我慢して、じっと窓の向こうのひろしくんを見つめ続ける。会いたい。でも、我慢だ。
「病室に入れてやりたいんだけどなぁ……、病院内、ペット禁止なんだ。ほんと、ごめんな」
男が俺の背中を撫でながら、ぽつりとつぶやいた。その声には、申し訳なさと、少しのあたたかさが混じっていて、まっすぐ俺に届いた。
年のころは、『お兄さん』というよりも『大人』という方がしっくりくる。けれど、まだ若く、彼の手は『お爺さん』や『お父さん』のようにごつごつしておらず、どちらかというと繊細でとても綺麗だった。
サラサラの頭の毛並みと大きな澄んだ瞳も印象的で、笑うと口の端に小さな牙が見えるのもまた良い。それが俺には、妙に親しみを感じさせた。
そう、牙は大事だ。俺たちにとって、牙は誇り。力であり仲間を守るためのもの。小さくても、その形がちゃんとしているなら、それは信頼できる証だ。
ただし――、白くて薬品臭い服だけは気に食わない。この匂いは苦手だ。鼻を刺す。けれど、その服を着ているということは、こいつは医者――、つまり、ひろしくんの病を治してくれる人間なのだろう。俺は賢いからそのぐらいのことは簡単に理解できる。
「でもな、坊主の盲腸の手術は俺がちゃんとしたから。もうすぐ退院できるぞ」
そう言って、男は俺の目をじっと見た。
その視線には嘘がなかった。俺は鼻先で男の足元をくんくんと嗅ぎ、静かに頷いた。そうか。お前が、ひろしくんを助けてくれたのか。ならば――、ありがとう。心から、そう思う。
「となると、ここ何日か見かけてたお前さんとも、会えなくなるんだなぁ……。寂しいなあ」
その言葉に、俺は耳をぴくりと動かした。
――何だ人間? お前、俺に会えなくなるのが寂しいのか?
意外だった。だが、悪くない。いや、ちょっと嬉しい。……かなり嬉しい。
「昔、俺も大きな犬と暮らしてたんだ。一緒に育って、何でも話せる……、そういうやつだった。でも、今は仕事に追われる毎日でな。時間がない。散歩にも連れていけないのに、犬を飼う資格はないからな」
男の声は穏やかだったが、その奥に小さな痛みが混ざっていた。俺にはそれがわかる。犬というのは、人間の声の奥にある心の揺れを嗅ぎ取ることができる。言葉を持たない代わりに、そういう力を授かっているのだ。
男の手が、俺の頭に触れた。そっと遠慮がちに。まるで、過去を思い出しているかのように。
だから俺は、嬉しくなって、体ごと男の足にこすりつけてやった。ぐりぐりと。そうだ、もっと撫でろ。お前の手は、なかなか心地いい。
なあ、そんなに寂しいなら、散歩のついでにまた来てやってもいいんだぜ。ひろしくんが退院したあとも、ここに来る理由ができるなら、それは悪くない。
――もし、それがちゃんと人の言葉で伝えられたら。
俺は男を見上げた。その綺麗な手と、あたたかい瞳を見つめながら、胸の奥が、少しきゅっとなった。
たった一晩でもいい。「ありがとう」と伝えられたら……。
でも、それはきっと叶わない願い。
だから俺は、その代わりに、もう一度、男の足に体を擦り寄せた。
願わくば、
――せめて、星の出ている夜にだけでも、人の姿になれたらいいのに。
<終>
以前、書いたものを手直ししてアップしております。犬はドーベルマンをイメージしましたが、バーニーズ・マウンテン・ドッグも捨てがたい。