【狙候された第二話】 <壱>
『―――ふふふ………』
世界は闇に覆われている。一寸先も見えない、唯闇。色彩はなく触感もなく、肌寒い。感情、環境、感性の死滅は虚無へと変わり、堕落した思考は涅槃の境地へ。そんな世界で、僕が奏でる羽音だけが不思議に響き、頭の中をリフレインする。
僕は蝶。闇の世界を浮遊し、黒一色の世界に浮かび上がるような白い羽を踊らせる、蝶。サラサラと鱗粉を零し、気の向くままに身体を揺らす小さな蝶だった。目的も指針も意志さえもなく、僕は白濁した意識を引きずりながら中空を漂い続ける。
やがて一点の光が差し込んだ。この塗り潰された世界の中で、弱々しくも暖かい小さな光。それが一つから二つになり、三つになり四つになる。圧倒的な闇の中で心細そうに、でも確かに力強く、それはあたかも夜空に光る儚い三等星のよう。
アレは僕の味方だ。あそこが僕の目指すべき場所だ。何の疑念も持たず、そんな事を思う。差し込んだ光は心の澱を掻き分け、一つの思考をもたらしたのだ。与えられた意志は寄る辺に従い、一心不乱に光を目指す。優雅とは掛け離れた無様な羽ばたき。早く光に追い付きたいのか、それとも早く闇を抜け出したいのか。理由はどちらでもいいし、どちらも正解。思い通りに動かない身体を必死にバタつかせて、とにかく前へ。今の僕はあのか細い光にだけ支えられている。
『―――ふふふ………』
異変に気付いたのは、さてどれ程の距離を飛んだ辺りだったのか。或いは最初の地点から全く進んでいなかったのかも知れない。気が付けば身体が動かなくなっていた。疲労困憊で動けない……と言うならまだ分かる。しかしまだ僕にはあの一向に近付かない光を目指す気力もあるし、羽にだって力は籠る。……だが動かない。動けない。精神と肉体の乖離と説明してしまえばそれまでだが、そんなものではどうにも納得出来ない。
『―――ふふふふふふ………』
次第に大きく鮮明になる嗤い声。初めは羽音に混ざった空耳かとも思ったが、動かせない身体の中で奇妙なほど粘り付くように響き、いつの間にか全身を支配していた。耳障りどころか悪寒しか感じられない。耳を塞ぎたくても身体が動かせないのでは否応なく受け入れるしかない。
代わりに目を塞ぐ。少しでも世界と自分の感覚を遮断するように、闇から逃げるように目を塞いだ。そこには外界と何ら変わらない闇。ただ違うのは、あの幽かな光の粒さえなくなってしまうという事だ。
『――――ふふふ……ふふふ……ふふふ……』
嗤い声は徐々に音量を上げながら断続的に響き、失くした筈の質感さえ持ち得ているかのように絡み付く。息の掛かる距離で囁かれているような熱さえ感じられる。動けない僕を嘲笑っているのか、それともこの声が原因で動けなくなっているのか。僕には理解が出来ない。だがこのままでは何も好転しない事だけは分かる。動けないまま、嗤い声に取り込まれてしまいそう。意を決し、恐る恐る再び目を開ける。
『―――――ッ』
瞬間、全てを理解した。蝶である僕が動けないのは当然の事だった。闇しかなかった筈の世界に、突如出現した無限の牢獄。獲物の自由を奪い、されど自身だけは自在に移動が出来る悪魔の要塞。……そう、僕は―――
巨大な『蜘蛛の巣』に捕らわれていたのだった―――
『―――ふふふっ………』
嘲笑は歓喜へ。ようやく状況を理解した哀れな獲物を前に、姿を現した要塞の主は己が食欲を満たせる至福に酔いしれているかのように声を弾ませた。禍つ音色は脳髄を溶かす消化液のそれだ。慈悲もなく猶予もなく、『彼女』は食事を開始する。
『―――――――――ア』
羽を毟られ手足を千切られ触覚をもがれ、生物としての尊厳が根こそぎ蹂躙される。八本足の悪魔はその醜悪な巨躯を愉しげに揺らして僕を喰う。痛みはない。でもそれは救いではない。痛みがあれば、即座に脳死してこの恐怖から逃れられただろう。しかし痛みがない。それでは死ねない。生きながらにして身体を喰われる恐怖と不快感、そして絶望で意識が塗り潰される。頭と体以外を失くした芋虫のような僕は、未だ輝く四星を瞳に映した。
『ア――――ア――――』
バリバリ、と僕自身が咀嚼される音を聴く。消えそうな意識の中で、涙が視界をぼやかせる。星がよく見えない、それだけが悲しかった。アレに見放されたら、僕は何の価値もない只の餌に成り下がる。それは思考も記憶も存在意義も、僕が僕である為の全てのものが消滅してしまうという事。『人』として人生を全う出来ず、誰にも悲しまれずに消えて行く。それでは……あまりに残酷だ。
『――――――――』
最後に残った安っぽいガラス玉のような瞳だけで星を見ている。『彼女』は瞳以外を全て食べ尽くしたようだ。
『ふふふ………』
腹が満たせて満足なのか、『彼女』は嬉しそうに嗤いを零す。僕が見続け救いを求め続けていた星はやがてその光を弱め、いつしか消え去って世界は原初の闇に立ち戻る。……ああ、これで全てが終幕だ。餌は餌らしく、砂のように儚く消えてしまえと、あらゆるものに見放された。擦り切れた精神では不快感もない。絶望さえも通り越して、声の出せない喉を震わせる。
『ふふふ……これで終いじゃ。妾の贄と成れた事を悦ぶが良いぞ』
最後に残った瞳を掴み、『彼女』は愛でるように一頻り撫で、舐め回す。食後のデザートのつもりなのか。恍惚とした表情で弄んだ後、ぽっかりと空いた周囲の闇よりも暗い口の中へと落―――――
「うわあああああああぁぁぁぁぁぁっ!!!」
「うを!? だ、大丈夫かジン!?」
勢いよく掛け布団を蹴散らして跳ね起きた。
「………って、あれ?」
見慣れない部屋。白を基調とした清潔感のある内装と僅かな薬の匂い。僕はベッドに寝かされていたようだ。傍らには僕が突然大声を上げた所為で若干引き気味のカズがいる。……えーっと……あれはもしかして……夢……?
「あっ……ご、ゴメン!! ちょっと変な夢見てて……」
一気に赤面する。幾ら悪夢を見たからって、あんな叫び声上げちゃうなんて……。しかもカズとは言え、人に聞かれたのが恥ずかしさ倍増。……ああ、もうヤダ……。穴があったら入りたい。でも穴はないし掛け布団もぶっ飛んでしまったので、せめて立膝で顔を隠す。
「ハハハ、それだけ元気なら大丈夫そーだな。ちょっと安心したよ」
僕の失態をカズが笑う。でもそれは蔑みじゃなくて心からの安堵。声から感じられる慈しみは、あの夢の中の絶望と孤独感をキレイに洗い流してくれる。僕はほっと安心からの溜め息を吐き、冷静に状況をカズに訊ねる。
「えっと……ここは何処? 僕、どうなったの?」
「ここは学校の保健室。時間はもうすぐ昼休みだ。お前はな、入学式の途中でぶっ倒れてそのまま気絶したんだよ。シンならともかく、ジンが倒れるとかホント、何事かと思ったぜ……。あんまりにも突然だったからな。で、オレと担任でこの保険室に運び込んだ。保険医が年度始め恒例の身体測定の為に保健室を空けるから、オレはお前が目覚めるまで付き添ってた……って訳だ」
「……そう、僕、倒れたんだ……」
僕が気を失う直前、挨拶を終えた生徒会長と目が合った気がした。言い表せない程の悪寒と恐怖を感じて、僕は失神してしまったのだ。……あれは一体何だったんだろうか……。気の所為……とは思い難い。でもハッキリした説明なんて付けられないし理解出来ない。体調不良か何かだと思うしかないのか……。
因みに僕の弟・シンは昔から貧血気味で、僕なんかとは比べ物にならない頻度で体調不良を起こす。酷い時には僕らが小学校へ迎えに行って早退する事もあるくらいだ。そんな体質を補う為に貧血に効くとされるほうれん草やレバーをよく食べる事から、トマトが嫌いなのにほうれん草やレバーが大好きという奇妙な偏食ぶりが身に付いてしまった訳だけど。
「とにかく、ありがとねカズ、付き添ってくれて。それと、心配掛けてゴメン。もう大丈夫だから」
気分的にはまだ優れないけど、友達の優しさに対して笑顔を返す。カズがいてくれた事で多少復調したのは間違いないのだから。
「……おう、気にすんな。それより、タマと八乙女にもお礼言っとけよ。二人共すげー心配してたからな」
「タマはともかく……八乙女さんも?」
「そりゃそーさ、目の前で人が失神すりゃ心配もするだろ。さて、そろそろ昼休みだ。教室に戻ろーぜ。弁当持って来てるから。あ、オレらの身体測定は後日個別にやるみたいだぜ?」
言ってカズはベッドサイドに腰掛けていた椅子から立ち上がる。それに倣って僕もベッドの下から上履きを探り出し、ベッドから降りる。架かっていたハンガーからブレザーを取り外し、腕に抱えた所で『キーンコーンカーンコーン』とお決まりのチャイムが鳴り響いた。どうやらこのチャイムを以て昼休みらしい。……入学初日から色々と問題山積だ。しかもあれだけ目立っちゃったんだから、クラスではかなりの有名人だろうな……。果たしてこれから上手くやって行けるんだろうか?
不安と気恥かしさをブレザーと共に抱えつつ、僕らは保健室を後にした―――