【始動された第一話】 <弐>
「すう……すう……」
「…………………」
秋吉荘102号室。中学時代のクラスメイトの談なのだが、そこは人によっては不可侵の『天上界』と同義なのだと言う。確かに、室内には甘くそれでいて果実のような爽やかさを乗せた香りが仄かに漂い、目の前のベッドで眠る少女の顔は正に天女かと見紛う程の神々しさを放っている。……だが幼い頃から見慣れている僕からすれば、この惰眠を貪り続ける平和そうな寝顔も小憎たらしい。部屋もろくに整理されていなくて服や物が散乱している。間違っても『天上界』なんていう言葉は出て来ない。そんなものはボキャブラリーの破滅だと思うんだ。
僕は必要以上に勢い良く、暗幕並みの遮光性を持つカーテンを開けて真っ暗だった室内に朝日を呼び込む。
「お早う、タマ。ほら、そろそろ起きないとメシ食う時間が無くなるよ?」
「………みゅ………」
……反応微弱。幸せそう……というより若干苦しそうな表情を浮かべ、それでもまだ掛け布団を離そうとしない。むしろ覚醒それ自体を拒んでいるっぽい。
この眠り姫は『秋吉 珠葉』。僕やカズと同い年の女の子で、これまた今日から同じ高校に通うもう一人の親友。白に近い金髪は生まれつきの体質なのだそう。名前から察せられたかも知れないが、この『秋吉荘』の大家だったりもする。……と言っても、秋吉荘は元々タマのお祖母さんの持ち物件だったらしく、そのお祖母さんが亡くなった際に遺産として名義を引き継いだ。そこに僕らが住まわせて貰っているという格好だ。
今日が晴れの高校入学式だという事情を自覚しているのかいないのかは分からないが、どうにも起きようという気配すら感じられないタマを見下ろし、嘆息。悠長な手段を取っているとそれこそ『入学式遅刻』という不名誉がいよいよ現実味を帯びて来る強迫感に掻き立てられつつ、抱きしめている掛け布団をかなり強引に引き剥がしに掛かる。8:00に家を出れば式には間に合うので時間的に言えば結構余裕はあるのだけど、タマの寝起きの悪さを舐めてはいけない。
「ほら起きろよタマっ、起きないとホントに遅刻しちゃうから!」
「うみゅ~………」
布団を引っ張るとそれにがっしり抱きついているタマが一緒に付いて来る。つーか最早同化していると言っても過言ではない。このまま貼り付かれたのでは起こすに起こせないので、腕を引っ張ったり頭をぐりぐりしたり髪の毛をくるくるしたりして少しずつ剥離する。
「やだぁ………取らないでぇ………」
「……………」
寝ぼけ娘は意識的になのか無意識なのか、必要以上に甘ったるい声で不満を訴えている。見れば寝乱れたパジャマや白金髪、その下からちらちら覗く白すぎる程に透き通った肌、苦悶に彩られた表情、そして……本当につい先日まで中学生だったのかと思うほどに発育の良い身体のラインが妙に色っぽい。昨日の『あの人』を見た時とは違う感覚で現実離れした光景にも見える。あれが風景画だとしたらこっちは彫刻像。芸術作品という括りでは同じだが、感性や趣は別ベクトル上にある。……って、何だこのオヤジ臭い論評は……。まあ書いてる人が僕の年齢の約2ば……いや何でもない。
「こけー……こけー……」
「………………」
もう色っぽいとか可愛らしいとかそういう次元を超越している寝息を立てて、タマは眠る。絶賛爆睡中。自主的に起きようという気配は皆無。そもそもそんなものは目覚ましなり何なりを準備していない時点で皆無。ここまで行くと意地なんじゃないかとも思えて来る。そんな訳で、起こす僕も意地を発揮。
「起ーきーろーターマー!!」
「あにゅう………グラグラしないでグラグラしないでぇ………」
肩を掴んで揺さ振る。
「お早うございます、お嬢様。清々しい朝ですよ」
「んにゃぁ………引っ張らないで引っ張らないでぇ………」
頬をむにむにする。
「ほら、早く起きてその眩しい笑顔を僕に見せてくれないか。可愛いタマ♪」
「うな~……口説かないで口説かないでぇ……」
鼻を抓む。……そろそろ僕自身のキャラ設定が危ういので自重しておく。つーか後半誰だこれ……。それでも目を開けないタマ。いい加減一発くらいぶん殴っても文句は言われまい。流石にそんな事はしないけど。
「……じゃあどうしたら起きてくれるの?」
「……ジンが添い寝してくれたらぁ……。アタシとお昼寝しよっ?」
「起きてるだろ、お前……。今は昼じゃないし、それじゃ本末転倒だから。今日から学校だって事、分かってる?」
「分かってるよぉ……分かってるけど……目が開かない……。あと5……」
「5分も待ってられないよ。早くメシ食べないとホントに初日から遅刻……」
「5時間………」
「ダラダラしてないでとっとと起きろおおおおォォォ!!!」
「キャアぁぁぁぁぁぁ!!?」
裂帛の気合。いい加減堪忍袋の緒が限界だった僕はベッドからタマを転がして床に落とす。相手は人なのに『タマを転がす』とはコレ如何に。人を起こすには些か手荒すぎるが、放っておいたら本気で5時間寝かねない訳であるからして、僕の手法は何ら非難されるものではない。実際、休みの日は本気で一日中寝ているんだから、コイツ。
「いったーい……。女の子はもっと優しく扱わないとモテないよ? ふわぁぁぁぁ……」
でも当の被害者のタマからは当然非難される。タマは寝ぼけ眼をこすりつつ、大欠伸を吐き出す。……余計なお世話だ。男の目の前で隠しもせずそんな大口を開ける女の子に言われたくない。
「でもちゃんと目が覚めたでしょ。はい、朝なんだからシャキッとする。それじゃ、メシだから早く行くよ。二度寝なんかさせないからな?」
「分かったよぉ……それはそうとジン、さっきさぁ」
「何?」
「どさくさに紛れてちょっとおっぱい触った? や~らしい♪」
「ぶっ………!?」
予期せぬ単語に赤面する。……こ、コイツ……強硬手段に出た事を根に持ってるのか……!?
「んな事するかっ!! いいからさっさと来いっ!!」
「ふふふ……相変わらずウブなんだから。ジンだったら遠慮せずに触っていいんだよ~? うりうり♪」
「アホな事言ってないでメシ食うぞ!! 遅刻したらタマの所為だからなっ!!」
まともにタマの顔が見れなくなり、タマを呼びに来た筈なのに一人で先に部屋を出る。逃げたとでも何とでも言うがいいさ。背後から「……ちっ」とか舌打ちが聞こえるが、気にしない。必要以上の力でドアを叩きつけるように閉めつつ、101号室に帰還する。……全く、朝っぱらから先が思い遣られるような展開を……。
『いただきまーーーす』
7:30。舞台は再び秋吉荘101号室。秋吉荘住人全員が無事(?)揃った所で、朝食開始。これも勿論、朝の儀式の一つ。
「ジンー、お醤油取ってー」
「くぉらタマ! せっかく塩分控えめに味付けしてやったのに、んなドボドボ醤油掛けたら意味ねえだろーが!」
「うえー、ボクトマト嫌ーい。兄ちゃんにプレゼント。おりゃ。兄想いのボクってやさしー」
「おりゃじゃない。自分で食べろ。そんな事じゃ同じクラスのエリナちゃんに嫌われるぞ?」
4人で食卓を囲む。僕の隣にシン、向かいにタマ、その隣にカズ。それぞれがそれぞれのスタンスで、和気藹々とカズの作った美味しい朝食に箸を進める。
……そう、秋吉荘の住人はこの4人だけ。言い換えれば、僕達4人は『家族』なのだ。8年前、僕とシンの両親が事故でこの世を去った時から続いている、4人だけの共同生活。
あの日、両親が突然目の前からいなくなった。親戚にもろくに相手にされず、当時1歳だったシンを抱えて呆然としていた僕の前に現れたのは、僕と同い年のタマとカズだった。2人は何も出来ない僕達をこのアパートに住まわせてくれて、料理を作ってくれて、一緒に笑い合ってくれた。2人の生い立ちは知らない。両親がいるのかどうかも知らない。訊いても頑なに教えてくれなかったから。でも2人のお陰でこの8年間、殆ど心配も悩みもせずに過ごして来れた。本当なら施設なりに入れられていた筈の僕とシンを、何の躊躇もなく受け入れ暖め、いつだって隣に居てくれた。だから4人の共同生活というよりも、僕とシンの生活はタマとカズに支えられて成り立っている、というのが本当の所なのだろう。そんな風に言うと2人は怒るんだけど。家族であり兄姉であり親友、それが僕とシンにとっての秋吉珠葉と榎戸和也なのだった。
両親の遺産やら保険金やらが結構莫大にあったらしく、相続税やら何やら小難しい話が終わった後も僕ら兄弟が大学まで行っても差し支えないくらいのお金が手元に残った。年齢一桁の子供がそんなやり繰り出来る訳はないので、全て人任せだったのだけど。しかしこの秋吉荘で生活するに当たって家賃は殆ど取られていない。それは大家のタマの意向であるのだけど、最初は大金目当ての親戚に押しかけられたりと大変だった。でも諦めたのか何なのかすぐにパッタリと来なくなったのだが、その事を尋ねてもタマはいつも笑ってはぐらかす。こんな事があっても、人間不信にならずに済んだのは間違いなく2人のお陰。ただ守られているだけの僕とはとても同い年に思えないくらい、しっかりしていて尊敬出来て、そしてとても大切な存在だった。
「トマトの赤い色に含まれてるのはリコピンと言ってだな、こいつを摂取するとガンにならねえと言われて……」
「リコピンだかデコピンだか知らないけど、嫌いなものは嫌いなの。はい兄ちゃんにプレゼント~。代わりに兄ちゃんの煮浸しとトレード!!」
「……トマト嫌いなのにほうれん草が好きっていうのも変な話だけど、トマトもちゃんと食べろって」
「そんなにイヤならアタシが口移しで食べさせてあげよっか? あ、初ちゅーはエリナちゃんの為に残しとかなきゃかぁ~♪」
平和……とは言い難いが、笑い声に溢れた賑やかな食卓。『家族』との一時。これが僕の原風景。当たり前のようにここにあって、それでいていつまでも続いて欲しいと願わずにはいられない、ささやかな幸福。
掛け替えの無い、僕の心安らげる居場所だった―――