【始動された第一話】 <壱>
「……………」
ベッドの中。瞼を閉じていて尚、強い朝日が眩しい程に感じられる。カーテンの遮光性の何て無意味な事か。覚醒は少し前から済んでいる。目覚まし時計がそのけたたましい音量を以て僕の覚醒を促すまでの、二度寝とも呼べない微睡みに身を委ねるこの僅かな時間が僕のささやかな幸せの一つ。昔から目覚ましが鳴る前に起きてしまう癖があった為、今ではその時間を肯定的に捉えて楽しむ事にしているのだ。
ジリ……
目覚まし時計が鳴った瞬間、刹那のタイミングで止めに掛かる。長さにして一小節にさえ届かない、コンマ数秒の世界。目覚まし時計の目覚まし時計たる役割を果たさせない若干可哀想な所業。彼は僕に買われた事を呪っていたりはしないだろうか。……や、彼なのか彼女なのかは知らないけど。でも目覚ましを設定しなきゃしないで時間通り起きられないのも不思議な話だ。
「うう~ん……」
時計を掴んだまま上体を起こし、数時間ぶりに四肢を伸ばす。脱力していた身体に活が入るような、清々しいというより瑞々しいと言った感覚。眩しい朝日は新しい門出の日を祝福しているかのよう。カーテンと窓を開けて澱んだ空気を入れ替える。やっぱりまだ朝は肌寒い。つい先週くらいまでは冬と言って差し支えない寒さだった事から考えれば、これでも充分春めいて来たとは言えるけど。
「ふわぁぁぁ………っと、さて」
大欠伸を吐き出して毎朝の儀式を締める僕の名前は『鳴海 迅』。今日から高校生になる、家庭環境以外はごく普通の15歳男子。少し身長の伸び具合が気に掛かるのが目下の悩み。今後の発育に期待しつつ、手にした時計を覗き込みジャスト7:00なのを確認してから元の場所へ。パジャマの上に部屋着のフリースを羽織り、芸術的な寝癖をテキトーに撫で付けて自室を後にする。
ここは『秋吉荘』と呼ばれる、部屋数実にたったの4つしかない築20年にもなる小さなアパートだ。僕の部屋はその201号室で、向かうのはそのすぐ階下の101号室。間取りは全て1DKで風呂トイレ付。僕の部屋と言っても201号室には基本的に寝る時か一人になりたい時にしか帰らない。だから201号室にはベッドや勉強机、洋服箪笥など必要最小限のものしか置いていない。普段の生活拠点は101号室。別に自室が手狭な訳でも嫌いな訳でもないけど、利便性や効率を考えると皆が一箇所に集まっていた方がいいって事。
郵便受けから今日の朝刊を回収しつつ、101号室のドアを開ける。瞬間、ふわりと食欲を増進させる香りが鼻をくすぐると共に、小気味よいリズムで包丁とまな板が奏でる音色が聴こえて来た。
「おはよー、カズ。今日もご苦労さま」
「おう、ジン。おはよ。今日もきっちり時間通りだな」
カズは料理する手を休めて、僕とハイタッチする。パシッ、とこれまた心地よい音が鳴り響き、朝の儀式の一つを完成させた。
僕に『カズ』と呼ばれた、この典型的なイケメンなのに包丁とエプロンが妙に似合う彼の本名は『榎戸 和也』。秋吉荘の食卓を一手に担い、プロ並みの味とレパートリーで僕らの舌に幸せを供給してくれる。年齢は僕と同じ15歳で、今日から同じ高校に通う親友でありこの101号室の住人だ。
……何て言うか、一緒にいてもあまり同い年に見られないのだけど、それは僕が幼すぎるというよりもカズが所帯染みているという点が大きいんではないだろうか、と疑問をひそかに抱いていたり。だってこのあまりに扱い慣れしている包丁捌きや味噌汁の味見をしながら「う~ん、ひと味足んねえなぁ」とかぼやいて味の素をササッと振り掛けている主婦歴ン十年の奥様顔負けの所作は、実年齢15歳を語るには若干無理があると思うんだ。まあ文句や苦言を呈す必要なんて砂粒ほどもないんだけど。むしろ感謝してもしきれない。彼がいなかったら秋吉荘の食卓は何とも味気ないものになっていただろうから。
「もうちょっとで出来るから新聞でも読みながら待ってろよ。今日のほうれん草の煮浸しはいい味出てんぜ~♪ やっべ、我ながらマジ美味そう♪」
「あはは……楽しみに待ってるよ」
……やっぱり15歳じゃないな、コイツ。世間一般の15歳は煮浸しの出来具合でこんな光り輝く笑顔を振り撒いたりしない。多分。この笑顔がクラスメイトの女子曰く、『キュンとしちゃう』んだそうです。
カズの後方を通り過ぎ、冷蔵庫から牛乳を物色。マグカップに注ぎ込んで秋吉荘の住民が食事を囲むテーブルにつく。椅子に腰を下ろし、牛乳を啜りながら新聞を開いた。……うん、僕も充分所帯染みてる気がするぞ。これも朝の日課だから気にしたら負けだと思ってるが。
密かに苦笑しつつ、新聞に目を落とす。最初に飛び込んで来た記事は……
「…………失踪……か……」
僕らが住むこの御守町でたまに起きる失踪事件の一報だった。周期は大体6ヵ月~1年に1人くらい。『消える』のは決まって、この町にある『御守高校』の寮生活をしている生徒。専門家の間では『受験勉強に疲れた挙句の逃避』だとか『閉塞された寮生活でのストレス鬱積による蒸発』だとか、思春期には別段珍しい事ではないとの見解が強い。数年前から続いていて、失踪者はこれで男女合わせて8人目。異常と言える程の数でもない事が事態を大げさにしない要因の一つだろう。つまり、一度に8人も消えるならそれこそ異常だが、めぼしい証拠もない以上、一年に1人か2人程度のスパンであれば前述のような見解が現実味を帯びるのは仕方がないのかも知れないという事。
とは言え、定期的に失踪者が出るという事自体はおかしな話であるのは間違いない。一時マスコミが騒ぎ立てもしたが、結局真相は未だ解明されず。失踪者も誰一人見つかっていない。今までは人ごとのように新聞記事を眺めるだけだったが、これからはそうも言ってられない。僕自身が、その『失踪者』になるかも知れない可能性だってあるんだから。
「ふわああぁぁぁ……。兄ちゃんカズ兄ぃ、おはよう~……」
新聞に見入っていると、気の抜けた挨拶が耳を突いた。記事でシリアス風味だったのに毒気を抜かれ、僕は声の主に軽く説教をする。
「シン……お前もうちょっとシャキッと出来ないの?」
「だって眠いんだもん……あ、カズ兄ぃボクも牛乳貰うね」
「おう、シンおはよ。……ホントに眠そうだな、また昨晩ゲームやりすぎたんじゃね?」
「ん~……なかなか止め時が見つからなくて……」
寝ぼけ眼をこすり、フラフラと冷蔵庫へ向かうこの少年。名前は『鳴海 沁』。僕と同じ苗字のコイツは僕の実の弟。年齢は少し離れた9歳。今日から高校生の僕らと同様に、今日から小学4年生になるハナタレ小僧だ。僕の名前『ジン』と混同されがちなのは名前を考えた人に文句を言いたい所。因みに僕の部屋の隣、202号室に寝室を持っている。
「……今日からお前も学校なんだから、あんまりやりすぎるなって言っただろ。遅刻でもしたら取り上げるぞ」
「あーもー、兄ちゃんは朝からウルサイよ。ゲームはボクの生き甲斐なんだからほっといてよ」
「ハハハッ、授業中寝ないように気をつけろよー」
……年齢一桁からゲームが生き甲斐とか、コイツはどんだけ人生ナメてるんだろうか。一応僕は親代わりでもあるんだから、少しは従順になってくれてもバチは当たるまいに。……そんな僕の思いなど素知らぬ顔で、ショタゲーマーは牛乳を一気飲み。リビングのTVを付けニュース番組の占いコーナーを片っ端から漁り、自分に該当する項目のランキングで一喜一憂している。時々コイツが分からない。結構な貧血でたまに学校で倒れる事もある癖に、身体を大切にしないから兄としては悩みの種だったりもするんだけど。
「お、そろそろ時間だな。んじゃヨロシク、二人共」
「はいよ」「は~い」
7:10。ダイニングで新聞を読む僕、リビングでTVを観ていたシンはそれぞれ腰を上げる。これも朝の儀式の一つ。僕はもう一人の秋吉荘住人を起こしに行き、シンは朝食の準備を手伝う。……でもこの作業だけ、他とは違って少しだけ憂鬱だったりする。
「……はあ、すんなり起きてくれるかな……」
踏み出す足に溜め息が伴う。食事の盛り付けや配膳をしている二人を横目に、僕はサンダルを履いて部屋を後にする。目指すは隣、102号室。……今日からまたこの作業が始まるのか。さて、何分掛かる事やら。早くしないとご飯が食べられない。下手して入学初日から遅刻とか、笑えるとか言うレベルの話じゃない。
僕は部屋の前で気合を入れ、ドアに合鍵を差し込んだ―――