【起算されたプロローグ】
「―――――ッ」
息を飲む。絶対的なまでの支配感。心を満たすは衝撃か、それとも。夕闇が圧倒的なまでに重量を増す昼と夜の境界線。斜陽煌めく海辺の砂浜。風は止まり、波の音が消え去り、時さえもその動きを停めてしまったかのような空白地帯で。
僕は彼女に出会った。
……いや、その表現は正しくないかも知れない。彼女は本当に実在しているのか。香り立つ空気に当てられて、僕の頭はおかしくなってしまったのか。現世から隔絶された、夕闇の幻視。神の悪戯か妄想の成せる業か、彼女を見つめるこの瞳さえも信用に足るほどの自信はない。それほどまでに、浮世離れした光景を見た。
頼まれた夕飯の買い物を終え、僕はたまたま通り掛かった砂浜で、一人きりで佇み夕日を眺めていた彼女を見つけた。……本当に、彼女がそこに居たのなら、の話だが。
茜色に染められた彼女。濡れているように艷めく黒髪は長く、背中の中程で二束に分けられている。反して肌は透き通るように白く、夕日を受けてその存在感を浮き立たせている。服装は……初詣の神社で見受けられる朱色の袴みたいな長い裾の所謂『巫女服』というヤツだろうか。普段街中ではまずお目にかかれない不思議な格好をしていた。僕の位置からでは横顔しか見えないが、それでも充分に整った美形である事が窺い知れるほど、彼女は美しかった。
奇しくも刻限は『逢魔ヶ刻』。真夜中の『丑三つ刻』と同様、禍を引き寄せ、人ならざるものが跋扈すると言われている、陰と陽が交錯する幻燈めいた夕日が支配する時間帯だ。彼女の佇む光景は、何者かに化かされ知らずに見てしまった夢幻なのかも知れない。……という自問が浮かんでしまうほど、幻想的な光景だった。
「………………」
空気さえ彼女に魅入られたかのような無風の夕凪が去り、風が吹き始める。巫女服の彼女はその長い髪を風に踊らせながら、小さく息を吐いて踵を返す。時が動き出し、比例して僅かに空気が現実味を帯び始めた。
「あ………………」
「…………?」
不意に、僕の喉から声が漏れ、それを聞いた彼女がゆっくりとこちらを振り向く。彼女に声を掛ける気なんてサラサラなかった僕はひたすら狼狽する。斜陽に染められた巫女服を僅かに揺らし、僕に視線を投げかけて来た。
「何か?」
「……え? あ、えっと…………」
夕焼けの所為なのか元々なのかは分からないが、不思議な色をした彼女の瞳に射抜かれる。凛とした声色も、包み込むような不思議な力を感じた。胸の高鳴り。全てが白昼夢のような、あまりにも現実感に乏しい光景。僕は思考回路を動かす事で精いっぱいで、二の句を継ぐ事が出来ずに喘いでいた。
そんな僕を見て、彼女は―――
「……貴方、引き寄せやすそうな体質をしているわね」
唐突に意味の分からない言葉を返して来た。
「……ひ、引き寄せやすそう……って、何……を……?」
「良くないモノを、よ。貴方のような何も知らないのに資質だけある人間はとっくに餌にされているはずなのだけど、その歳まで無事だったなんて奇跡としか言い様がないわ。それとも、誰かに守られて来たのかしら? ……ふむ、そっちの方が公算としては高いわね。『霊力』の中途半端な抑え方と言い、誰かが手を貸したと見た方が自然か」
彼女は顎に手を当て、一向に追い付かない僕の思考を無視して独りでブツブツ何事か呟きながら僕を上から下までジロジロと品定めするように見つめる。……さっぱり意味が通じません。この人もしかしてちょっとアレな人だったりするんでしょうか……? ああ、お母さん。僕はこれからどうなってしまうんでしょうか? や、お母さんはもういないんですけど。
「正式な『陰陽師』はこの地にはウチしかないはずだけど……この半端な処置からして流れの術者か何かが関の山でしょうね。少しは興味あるけど、取り敢えず私達と敵対する事はなさそう、いえ、もしそうなったとしてもこの程度ならば脅威とはなり得ないわね、残念ながら。ウチで保護し直してもいいのだけど、こんな小物までいちいち相手してられないわ。私は特に何もしてあげられないけど、この時間帯と真夜中さえ無防備に出歩かなければよほど運が悪くない限り最悪の事態にはならないと思うわよ。その守ってくれてる誰かに感謝して余生を過ごしなさい、ぼーや。じゃ、私はこの辺で」
「ちょっと待てアンタ」
何言ってるのか相変わらずさっぱりだが、何となくバカにされてるのだけは理解した。不可思議な言葉の羅列は少量の怒りに転化し、流石にカチンと来たので普段あの漫才コンビに突っ込みを入れるくらいの鋭さで巫女ねーちゃんをアンタ呼ばわりしたのだった。そりゃ童顔なんで実年齢よりは結構下に見られますけどね、それでも僕は明日から花の高校生ですよ? ぼーや呼ばわりされるほどぼーやじゃねえですよ? つか見た目アンタもそれほど違わないように見えますけど。多少大人っぽいけど高校生だろうとは思うので。
……しかしそんな僕の心の叫びも空しく、彼女は最早僕に興味を失ったようでスタスタとその場を立ち去る。どんだけマイペースな巫女さんだ。二つに分けた流れる黒髪と朱色袴の揺れる巫女服が相変わらずの現実感のなさを演出しているが、何かもうどうでもよくなって来た。彼女を一目見た時の胸の高鳴りは、哀れ無残に霧散する。
「何だったんだ、一体………? っと、もうこんな時間か。早く帰らないとまたカズにどやされちゃうや。今日はシチューかなぁ」
巫女ねーちゃんの姿が見えなくなり、陽もいよいよその力を失いかけて来た頃。頬を撫でる風の冷たさで我に返る。僕は一つ嘆息して、買い物袋をぶらさげて彼女に倣うように帰路へと着く。
これが……明日に迫った運命の出会い、その呼び水となる僕と彼女の最初の出会いだった―――――