97.第八章八話(トリスタン)
執事長とマチルドは、ベルティーユを苦しめるために予算どおりの金銭を使わせたくなかったのだという。侯爵令嬢らしい生活を送らせるつもりはなかったと。
つまり、お金ほしさに企てたことではなく、二人の狙いはあくまでベルティーユだった。
メイドたちはそこに便乗して、もらえるお金をもらっただけということなのだろう。口止め料という面もあったようだ。
ラスペードによく仕えていた二人が、まさかこのような裏切り行為をしていたとは。
「反省の色が見えないけど」
カジミールが鋭い目つきで二人を見据える。
こうして罪が暴かれたというのに、二人には自分たちがしでかしたことに対する後悔や処罰への恐怖が微塵も感じられない。
「お嬢様は、あの娘は、奥様を殺したのですよ? それなのにのうのうと生きているのです。そんなの許せるはずがないではありませんか」
「だからって、横領の教唆をしてもいいってことにはならないでしょ。しかも、死と隣り合わせみたいな環境に置くとか……」
「旦那様や坊っちゃん方も、私たちと同じお気持ちのはずです! ずっとお嬢様を虐げてらしたじゃありませんか! 私たちがお嬢様を罵倒するのも、当然のことだと認識なさっていたでしょう!?」
次第に声を荒らげて叫ぶマチルドの形相は憎悪に満ちている。
「悪魔に身の程をわからせることの何がいけないのですか! 本来ならば死をもって償うべきなのです! ……いいえ、死すらも生温いのですよ!」
マチルドが母に心酔していたことは昔からわかっていたつもりだけれど、ここまでとは理解できていなかった。
カジミールは理解の範疇を超えているとばかりの怪訝そうな表情になっている。父も眉根を寄せている。
トリスタンは息を呑んでいた。
『あの子が死んであの悪魔が生きているのよ? 貴方だっておかしいと思っているでしょう? あれさえ存在しなければあの子はまだ生きていたわ。あれがあの子を殺したの。あれは生きていてはいけないの、悪魔よ。あの子が生き返るために命をかけることが、あれが唯一己の罪を償える方法よ』
取り調べで、マリヴォンヌはそのような内容を繰り返していた。まるで何かに取り憑かれているかのような不気味さすら感じられて、精神に異常があることは一目瞭然だった。
そんなマリヴォンヌにマチルドの姿が重なる。――そして、自分自身とも。
『人が命をかけて赤子を守ることはできても、赤子が自らの意思で人を殺すことはできません』
ベルティーユの言葉が、最近は何度も頭を過る。
(こんなに、醜悪だったのか……?)
呆然と、トリスタンはマチルドを見つめていた。
「――言いたいことはそれで全部か?」
室内にレアンドルの声が響き、トリスタンははっとする。青の双眸が静かに、怒気を含んでマチルドを捉えており、マチルドはビクッと怯えて肩を揺らした。
レアンドルの言葉で、この場がそれまで以上に張り詰めた空気に染まる。緊張感が段違いだ。
「そろそろ警官が来る頃だ。全員突き出す。――抵抗する者は相応の覚悟をしておけ」
レアンドルの言ったとおり、数分後には警官が来てマチルドたちを連行していった。
その対応を終えて廊下にいたレアンドルに使用人が何か封筒を渡すのを、トリスタンとカジミールは見ていた。
「レアンドル様、ユベールからです」
「ああ」
はっきりと耳にして、トリスタンは瞠目した。
「ユベールって、ベルティーユからですか?」
そう問うと、レアンドルの目がこちらに向く。ただ目が合っただけなのに、トリスタンの体にはわずかに緊張が走った。
「そのようだな」
レアンドルは再び封筒に視線を落とし、差出人を確認して答えた。
もうラスペードと関わらないことを望んでいるベルティーユから、なぜ手紙が届いているのか。
「……まさか、ベルティーユと会うのですか?」
「――同席の希望なら許可はしない」
「っ!」
そう言われて自覚する。トリスタンは今、ベルティーユに会いたいと考えていた。
「なぜです?」
訊いたのは、トリスタンではなくカジミールだ。
真剣な眼差しのカジミールは、今何を考えているのだろう。トリスタンと同じく複雑な心境になっているのだろうか。
「逆に訊くが、会ってどうする? 連れ戻すのか? 今までのように罵詈雑言を浴びせるのか? ――それとも、謝罪でもしたくなったか?」
ぎゅっと、トリスタンは拳を握り締めた。
ベルティーユに会って自分が何をしたいのか、まだよくわからない。
「私たちの謝罪など、所詮は自己満足だ。どこまでも勝手だと更にベルティーユからの軽蔑を強めるだけに過ぎない」
「……ならば、兄上は何をしに行かれるのですか」
「それをお前たちに話す必要性は感じられない」
レアンドルはそう言い残して自室へと向かった。
トリスタンとカジミールは、二人でトリスタンの部屋に移動した。長いこと沈黙が続いていた室内で、ソファーに深く腰掛けているカジミールが口を開く。
「ベルティーユと殿下の婚約が決まった時は、複雑だった」
「ああ」
ベルティーユが家から出ていってくれるならそれはありがたいことではあったけれど、嫁ぎ先が王家という事実には不満もあったのが二人の本音だった。王家との縁ができることはラスペード侯爵家には利益となるものの、王子の妃としてベルティーユが幸せになる未来は気に食わなかったのだ。
実際に婚姻が成立したとして、どうやらベルティーユは幸せにはなれなかったであろうことが判明したけれど。
「それならあのまま結婚してくれたほうが不幸な生活だったんだろうなって思った。幸せになるなんて許せないと思ってた」
「ああ」
「――それが、あんなに醜いとはね」
「……そうだな」
カジミールはぼーっと一点を見つめて、呟くように話している。トリスタンも似たようなものだ。
心の奥底に違和感はあって、けれど見ないふりをしてきたこと。楽なほうに逃げてきたことを、マチルドのあの姿で突然自覚させられた。
ベルティーユを妊娠していた当時、母の体調は徐々に悪化していった。出産予定日が近づき、医者には子供の命は諦めたほうがいいとまで言われていたらしい。
しかし母は、ベルティーユを優先するよう医者に願った。それは親として、自身よりもベルティーユのほうが大切だったからだろう。周りが止めたけれど、医者は母の意志を汲んだ。
選択を下したのは母だ。けれど、トリスタンはずっと思っていた。腹の中の子が愛しいだけではなく、――トリスタンが弟妹の誕生をずっと待ち望んでいたことも、母が自分の命よりベルティーユを優先した理由なのではないかと。
母の意思決定に、トリスタンの希望が影響を与えたかもしれない。母を優先しろと医者を説得できていれば、母は助かったかもしれない。
『お母様のことは、どちらかといえば貴方たちが見殺しにした、というのが正しいと思いますわ』
認めたくなくて、――認めるのが怖くて、全部ベルティーユに押しつけた。ベルティーユが悪いと決めつけて、自分の心を守った。
ラスペードのすべての不幸の元凶だと、ベルティーユを悪としてきた。
『あの娘は、奥様を殺したのですよ?』
『あの悪魔があの子を殺したの』
ずっと、ずっとずっと、そう思い込むようにしていた。そのほうが、楽だったから。自分が苦しまなくて済むから。
『母親を殺したお前は一生をかけて償わなきゃいけねぇんだよ』
「どっちがだよ……」
◇◇◇