96.第八章七話(トリスタン)
仕事が休みのトリスタンは、朝から日課の鍛練を終えて湯浴みを済ませた。
兄が帰国して、ラスペード侯爵邸の空気がいつも以上に引き締まっている。それが落ち着かないので、今日は外出しようかと考えているところだ。
元々、家で大人しくしているより外で遊び回るほうが好きな質である。双子なのにインドア派なカジミールとは真逆で、何時間でも本を読んでいられるなんて自分なら耐えられない。
廊下を歩いていると、ふと窓の外に視線を留める。
離れたところに見える建物は、もう誰も使っていない別邸だ。
ベルティーユが十歳の頃まで暮らしていた別邸。小さいとはいえ邸一つがベルティーユ一人のものだったのと同義なのだから、さぞかし悠々自適に暮らしていたのだろう。
もちろん、使用人たちも昔からベルティーユのことを嫌っているので、積極的に世話を焼くことはなかったはずだ。しかし、トリスタンやカジミールが勉強なりマナーレッスンなりで忙しい間も、ベルティーユは放っておかれて自由に遊び呆けていたに違いない。厳しく言いつけられていたはずなのに別邸を勝手に抜け出して本邸に侵入したことや、王子との婚約を機に本邸に移った時点でマナーも何も身につけていなかったことがその証拠である。
(あー。うぜぇ)
ベルティーユはもうこの家にはいない。なのに、気づけば思考はベルティーユのことばかりだ。
ずっとベルティーユを恨み、憎んで生きてきた。その感情が頭の中を支配している時間が長く、当たり前に、癖のようになっている。本人が突然いなくなったからと即座に思考の切り替えができるわけではない。
それが酷く、鬱陶しい。
後頭部をガシガシ掻いていると、「トリスタン」と呼ぶ声が聞こえた。廊下の正面からカジミールがこちらに歩いてきている。表情が何やら険しい。
「どうかしたのか?」
「ちょっと」
くい、と軽く顎をしゃくるカジミールについて行くと、父アルベリクの執務室前に到着した。
「――すべて事実ということで間違いないようだな」
中からアルベリクの低い声がする。これは怒っている時のものだ。
そのあとには女性の声が続いた。
「旦那様、確かに私たちは間違いを犯しました! しかし、それは亡き奥様を想うあまりにしてしまったことです! どうかお慈悲を……!」
(なんだ……?)
母が話に出てきて、トリスタンは眉を顰める。メイドだろうか、父に許しを請うているようだ。
「使用人が何人か集められてる。以前、別邸を担当していた者たちだよ」
カジミールがそう教えてくれたので、先ほどの声は別邸を担当していたメイドのものなのだろう。
「お前たちの行いは所詮、我欲を満たすためのものだろう。そうでなければ……レアンドル?」
父の声が戸惑いに変わったかと思うと、執務室の扉がガチャリと音を立てて開かれた。トリスタンとカジミールは驚いて瞠目する。
「兄上……」
昔と変わらず普段どおり無表情なレアンドルが二人を見ていた。ここで盗み聞きをしていたことに気づいていたらしい。
暫し沈黙していたけれど、レアンドルは短く「入れ」と二人に告げた。カジミールと一度顔を見合わせ、それから執務室に入る。
執務室にはレアンドルとアルベリク、執事長、マチルド、他にも使用人が六人ほどいた。使用人たちはどこか怯えた様子で立っている。
「カジミールとトリスタンか。なぜここに?」
「別邸担当だった使用人たちが呼ばれているのを見かけたので気になって」
アルベリクの問いにカジミールが答える。
「それで、これはどのような状況なのです?」
「……レアンドルが疑問があるというので調べたら、メイドたちが別邸に当てた予算を横領していたことがわかった」
「は……?」
返ってきた言葉にカジミールは目を見開き、トリスタンは思わず声を漏らした。
「ベルティーユが別邸で暮らしていた間、別邸の管理、ベルティーユの食事や服、教育、その他諸々のための予算を、彼女らが横領していたのだ」
頭が痛いとばかりにアルベリクは額を手で押さえた。
アルベリクはベルティーユを避けていた。近づくことを拒絶していた。それはベルティーユの姿がどうしても愛しい妻を思い出させるからだ。
アルベリクにとって、ベルティーユは妻の命を奪った娘。しかしベルティーユが娘であることは事実なので、アルベリクはベルティーユに十分な予算を割り当てていたはずだった。それはトリスタンもカジミールも承知している。
「別邸はまともな管理がされていないために傷みが激しい。掃除はベルティーユにさせて、使用人たちは別邸にいる間は仕事をサボり、談笑やベルティーユいびりに夢中だったようだ」
使用人たちは最低限のことはしているだろうと思っていた。ベルティーユは呑気に、侯爵令嬢として最低限まともな暮らしを送っていたのだろうと思っていた。そんな暮らしはベルティーユには分不相応だと、思っていた。
その前提が、すべて崩れていく。
「本邸に移るまでのベルティーユの生活は、服はボロボロになりサイズが合わなくなるまで新調されることはなく、食事は残飯が日に一食ということが多かったらしい。教育のために家庭教師の予算も組んでいたが、一度も雇った形跡がない。そうして浮いた予算を、別邸担当の使用人たちが山分けしていた」
「なんだよ、それ……」
思わず零れたのは、独り言に近かった。
そういえば、ベルティーユが初めてこの本邸に足を踏み入れた日、最初に汚い少女だと思った気がする。その少女がベルティーユだと気づいて嫌悪感が湧き上がったことで、あの格好のことなどすぐに忘れてしまっていた。
ベルティーユが本邸に居を移した時はどうだったか。
カジミールも似た疑問を抱いたようで、父に問いかける。
「本邸に移ってきた時、教養が身についていなかったのはベルティーユ自身が勉強を嫌がって放棄していたからだと聞いていましたが、そもそも学ばせていなかったと? テーブルマナーがなっていないからと食事が別だったのは、満足に食事がとれておらず痩せていた身体を我々の目に触れさせないためだったということですか?」
「そのようだ。誤魔化すために嘘の報告をしたと自白した」
眉間にしわを寄せて、父は肯定した。メイドたちは縮こまっている。
「なんでそれに気づかなかったんです? 執事長やマチルドなら別邸やベルティーユの様子を定期的に確認してたはずだし……気づけなかったから二人もここに呼ばれているのですか?」
「横領はその二人が主導して行っていた」
「!」
「と言っても、二人は横領した金銭を懐には入れていないらしいがな」
アルベリクの視線が執事長とマチルドに向く。
二人はメイドたちとは異なり、背筋を伸ばしてその場に立っている。罪を犯した人間の態度ではなく、むしろ堂々としていた。