95.第八章六話
ラスペード侯爵家の自室のベッドの上。ベルティーユはそこにいた。
一人ではない。傍らの椅子に座っている男性が何かを話している。体に力が入らず、ベルティーユはただ彼の話を聞いているのだ。
『――』
淡々と言葉を紡ぐ声の主は――。
◇◇◇
ベルティーユはゆっくり目を開けた。視線を動かし、ここがユベール公爵邸でベルティーユに与えられた部屋だと確認する。
(……夢)
先ほどまでの光景は夢だった。ここはラスペード侯爵家ではない。
最近何度か見ている夢。話している男性が誰なのか、話の内容がなんなのか、今までは思い出せないことだらけだったけれど、今回は少し覚えている。
――あれは、ただの夢ではない。
「っ……」
頭が一瞬痛み、酷い頭痛で気絶したことを思い出す。ピクニックの帰りで穏やかな気分だったのに、みんなには心配をかけてしまった。
傍らに置かれている椅子で、ジャンヌが座りながら眠っているのを視認する。
あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。ジャンヌはずっとついていてくれたのかもしれない。
水を飲もうと体を起こすと、動いた気配に気づいたのか、ジャンヌがぱちりと目を開けて顔を上げる。
「……お嬢様?」
瞬きを繰り返す彼女に、ベルティーユは微笑を見せた。
「おはよう、ジャンヌ。ごめんなさい、馬車の中で――」
「お嬢様!」
ガバッと立ち上がったジャンヌは、ベルティーユに「頭はまだ痛みますか!?」と確認する。
「今は痛くないわ」
「よかった……。あ! お医者様をお呼びします!」
慌ててジャンヌが部屋を出ていき、その後、公爵家の主治医とリュシアーゼル、テオフィル、オルガを連れて戻ってきた。
テオフィルはベルティーユと目が合うと、「意識が戻ってよかったですっ」と、今にも泣き出しそうな顔で安堵していた。目の前で倒れてしまったので怖い思いをさせてしまったのだろう。
オルガもひとまず安心したように息を吐いていたけれど、リュシアーゼルだけは違った。ずっと厳しい顔つきでベルティーユを観察している。
そんな中で主治医の診察が始まり、ベルティーユが気を失ってからほぼ一日が経過していることを知らされた。
「とりあえず体調は問題なさそうですね。ただ、頭痛の原因が……気絶するほどの痛みとなると、何か大きな病の可能性も考えられます」
「……ベルティーユ様、病気なのですか?」
主治医の見解にテオフィルが一気に不安に顔色を染めるので、ベルティーユは「違いますよ」と否定した。すると、主治医が不思議そうに訊ねる。
「何かお心当たりがあるのですか?」
「そうだけれど、特に心配いらないと思うわ。ずっと続くものではないでしょうから」
「しかし」
「一日も眠っていたのだし、もう大丈夫よ。手間をかけてごめんなさいね」
これ以上は答える気がないとベルティーユが態度で表すと、主治医が難しい顔をする。医者としては放っておけないのが正常だ。
「――皆、少し外してくれ」
少々異様な空気感の中、リュシアーゼルがベルティーユを見つめたままそう言った。ベルティーユは彼を見上げる。
視線はまっすぐにこちらを捉えていても、その言葉はベルティーユ以外の者たちに向けられたものだ。
主治医は躊躇う様子を見せたものの「承知いたしました」と折れた。ジャンヌとオルガも、ベルティーユを気にしながらテオフィルを連れて部屋を出る。
「――病を治す魔道具」
二人になった室内で最初に落とされた声に、ベルティーユの呼吸が一瞬止まった。
「貴女はそれを求めているんじゃないか? ……何か、治療法のない病を患っているんじゃないのか? 頭痛はその症状の一つか?」
「……」
「契約期限は二年後の九月までだが、まさかその期限は貴女の――」
「頭痛はそのうちなくなるものだと思います。嘘ではありません」
「ベルティーユ」
答えになっていないと、誤魔化すなと、リュシアーゼルは表情や声で訴えている。
(優しいですね、本当に)
少し前までただの他人だった相手を、ここまで気にかけてくれる。改めてその優しさを実感した。
頭痛に関しては間違っているけれど、彼の推測の他の部分は概ね当たっている。これは彼の前で『病を治す魔道具』を口にして、病を暗示させてしまったベルティーユの失態だ。
「私たちは婚約者ですし、結婚もします。ですが、いずれ離婚し、他人に戻ります。私とリュシアーゼル様はそういう契約を交わしています。契約終了後のことについての詮索は不要ですわ」
のんびりとした平穏な暮らしを求めていた。ある程度希望どおりの生活を送れてはいるけれど、予定になかったことも出てきてしまっている。
余命が迫っていることを、彼に知られる予定はなかった。
(上手くいかないものね)
想定外のことはまだある。
「ベルティーユ、私は――」
「リュシアーゼル様。一つ、新しいお願いがあります」
「……なんだ」
明らかに話題を変えているのに、ちゃんと聞いてくれるところがやはり優しい。
「契約内容について、変更したいことがあります」
「何をだ」
「ラスペード侯爵家からの接触はすべてお断りし、私に彼らを近づかせないでほしいというお願いでしたが、――長兄のレアンドル・ラスペードと話す場を設けたいのです」
最近見る夢、あれは記憶だ。時間が戻る前の、ベルティーユが十七歳の頃の記憶。
傍らの男性は長兄のレアンドルだった。そして――。
『――お前の、病についてだ』
彼は確かに、そう言っていたのだ。
その場面と言葉以外のことはほとんど思い出せていない。レアンドルとあのような会話をした記憶はベルティーユにはなかった。
おそらく、ベルティーユは何かを忘れている。そして、レアンドルはベルティーユの病について何か情報を持っている。
「どういう心境の変化だ? この流れからすると、貴女の長兄が今回の頭痛に何かしら関わりがあるように思えるが」
頭痛は記憶を思い出したことで脳に負荷がかかったための症状だと思われるので、一応間違ってはいない。
「元々、長兄は私に嫌がらせをしたことはありません。ほとんどいないものとして扱っていただけです」
「それも嫌がらせだろう」
「なので、あまり嫌いではないのですよ」
「信じると思うのか?」
「信じていただけなくとも結構ですけれど、そういうことにしておいてください」
ベルティーユがゆったりと微笑むと、リュシアーゼルはため息を吐いて「わかった」と承諾した。
「長兄は隣国の大学に通っているので、ラスペードではなく寮に手紙を出します。返事が来たら」
「レアンドル・ラスペードは先日帰国したそうだ」
リュシアーゼルから告げられ、ベルティーユは目を見開いて驚きを露わにする。
(どういうこと?)
レアンドルは大学在学中、そして卒業後およそ二年――トータルで六年もの間、一度も帰国しないはずだ。時間が戻る前はそうだった。それなのに、まだ卒業していないこのタイミングで帰国なんて、一体なぜなのだろうか。
時間が戻る前と違うのは、ベルティーユとウスターシュの婚約が破棄となり、ベルティーユが家を出て他所に養子に入り、新たにリュシアーゼルと婚約したこと。
ラスペード侯爵家の後継者として、そのような勝手な行動が見過ごせないということだろうか。
「貴女宛の手紙が昨日届いていた」
「……手紙?」
「私が確認したのは今日になってからだ。話をしたいという内容だったから送り返そうと思っていたんだが、あとで持ってこよう」
「ありがとうございます」
お礼を言って、ベルティーユは目を伏せる。
(あのお兄様が、私に手紙?)
他家にいる相手と会うためなら、前もって手紙を出して予定を合わせるのは当然のことだ。しかし、もしかして、とベルティーユは思った。
レアンドルにも、時間が戻る前の記憶があるのかもしれない。
◇◇◇