93.第八章四話
ピクニックが翌週に決まり、当日。ベルティーユたちは公爵邸を出て三十分ほど馬車に揺られ、湖に到着した。ベルティーユ、リュシアーゼル、テオフィルの他に、同行者はジャンヌ、オルガ、御者、シメオンを含めた数人の護衛だ。
湖はベルティーユが想像していたよりもずっと大きかった。桟橋があり、ボートが繋がれている。近くには小屋もある。草原に囲まれた湖の水面は、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
(王宮の人工池とは全然違うわ)
綺麗な光景だと、素直に思った。
空気が美味しい。自然をありありと感じる。
早速、木の影になっている場所にジャンヌとオルガが敷物を広げた。テオフィルもそれを手伝い、護衛が持っている食事が入ったバスケットを置き、テオフィルが真っ先に座る。
「ベルティーユ様、おとなりにどうぞ!」
「はい、失礼します」
湖のほうを向いているテオフィルに倣い、促されるままベルティーユも同じようにする。
「叔父上はベルティーユ様の反対側のとなりね」
「前回は私が隣でなければ嫌だと駄々をこねていた気がするが、飽きるのが早いな」
「昔のことだからね」
「……」
「ふふ」
ベルティーユが思わず笑うと、リュシアーゼルが無言でベルティーユの隣に座った。わずかに眉を寄せていたのは拗ねていたからだろう。
ジャンヌとオルガも座り、暫し静かな時間が流れる。なんとなく誰も口を開かずにいると、口火を切ったのはテオフィルだった。
「きれいですよね」
「はい。すごく」
「父上は、ここで絵を描くこともあったんです」
「……そうなのですか」
テオフィルから親の話を聞くのは初めてだ。ベルティーユはどう返していいのかわからず、当たり障りのない返事をしてしまった。
リュシアーゼルやジャンヌたちの視線がテオフィルに向いているのを感じる。
「母上は絵が完成していくのを楽しそうに見ながら父上と話していたんです。僕も父上のまねをして描いてみたんですけど、父上みたいに上手には描けませんでした」
「いつか、同じくらいお上手に描けるようになるかもしれませんね」
「そうなれたらいいです」
じっと、テオフィルは湖を見つめている。
父母のことがとても大好きなのだろう。それほど愛情を受けてこの子は育ったのだ。
ベルティーユとは、何もかもが違う。
「――それと、父上は母上と一緒にボートにも乗っていました。僕も乗りたかったんですけど、危ないからってオルガとお留守番だったんですよ」
思いを馳せているのかと思えば妙にニコニコし始めたテオフィルがこちらを向いたので、ベルティーユは首を傾げた。
桟橋に立っていたベルティーユは、リュシアーゼルの手を借りてボートに乗った。揺れるボートにドキドキしつつ座り、桟橋にいるジャンヌから受け取った日傘をさす。オルガは敷物に座ったまま、護衛たちと共に穏やかな表情でベルティーユたちの様子を眺めていた。
「落ちないように気をつけてくださいね!」
ベルティーユと、正面に座ったリュシアーゼル。ボートの上の二人をジャンヌの隣で見送るテオフィルは、ずっと機嫌がよくて笑顔だ。
ベルティーユも笑顔を返すと、リュシアーゼルがボートを漕ぐ。動き出したボートはゆっくり桟橋から離れた。
テオフィル自身が乗りたいのかと思っていたけれど、なぜかテオフィルの勧めでベルティーユとリュシアーゼルが二人きりで乗ることになったボート。
ベルティーユは水面を興味深く眺めていた。こうして水の上にいるのは初めてで、不思議な感覚だ。
(あ)
オールと水がぶつかる音とは別に、ポチャッと音がした。視界の端で小さな魚が飛んだのが見えた。そちらのほうに視線を凝らしていると、「――ふ」と小さく笑い声が聞こえてきた。
湖の真ん中近くに来たのでオールを止めたリュシアーゼルが、優しく細めた紫の双眸にベルティーユを映している。
「興味津々でよかったよ」
「……ボートは初めてですので」
子供っぽかっただろうかとわずかな気恥ずかしさを覚えていると、リュシアーゼルが「誘って正解だったな」と言う。
「てっきりテオフィル様が乗りたいから桟橋に移動したのかと」
「私が殿下から貴女を略奪した立場だからな。私のほうが貴女に惚れ込んでいるとテオは思っているから、私がもっと貴女の心を掴めるように、あれこれ協力しようとしているらしい」
叔父思いのいい甥っ子である。
「略奪って、邸の者たちは最早リュシアーゼル様をからかうために使っている節がありますよね」
「まったく、度胸があることだ」
「リュシアーゼル様がお優しいからこそでしょう?」
テオフィルの後継者としての座を脅かさないために、リュシアーゼルは自身の評判がある程度落ちることを望んでいる。けれど、領民や使用人たちからの信頼は相当なものだ。それは以前のデートや公爵邸での暮らしで実感している。
領主としての仕事は領民の生活に影響を与えてしまう。そこを犠牲にするほどのことをするつもりはない、ということなのだろう。要は領主としては不可がなく、人間性には多少の問題があり、テオフィルのほうが性格面でも信用できる。そういう評価を望んでいるわけだ。
あまりにも悪すぎる評判はテオフィルにも付き纏ってしまう恐れがある。そこまで配慮してボーダーラインを見極めているのだろう。
「きちんと畏怖してくれてもいいんだがな」
そんなことを言っているけれど、リュシアーゼル的にはそれほど不満はなさそうだ。
リュシアーゼルの視線が、オルガたちの元へと戻ったテオフィルへと向く。何やら意気込んだようにオルガたちと話しているのが伝わってくるので、リュシアーゼルとベルティーユの仲が深まることをかなり期待しているのかもしれない。
「――テオがあのように自分から兄夫婦の話題を出したのは、随分久しぶりだ」
「そうみたいですね」
それはリュシアーゼルたちの空気から察することができた。
「聡い子だから、周りに心配をかけないためか、気丈に振る舞うことを早々に覚えてしまった。それが余計に心配だったんだが……少し、安心した」
紫の目が、またベルティーユを捉える。
「貴女が来てから、いいことばかりだ」
『お嬢様の存在は、ラスペードの災いそのものです』
真逆の言葉が頭に響いた。
「――ただの偶然ですよ」
呪い等、一連の事件の解決はともかく、テオフィルの変化はあくまでテオフィルのもの。ベルティーユのおかげではない。
わざわざ口にせずともリュシアーゼルも承知しているだろうけれど、どうしても否定せずにはいられなかった。