89.第七章十三話
ベルティーユはガゼボでゆったりと読書をしていた。ジャンヌは下がらせたし、テオフィルは授業の時間なのでいない。
時折風が吹いて葉擦れの音がする。爽やかで落ち着いたこの空間で、読んでいた本の最後のページをめくり、ぱたりと閉じてテーブルに置く。
読んでいない本を数冊テーブルに置いているけれど、新しい本を読み始める気にはならず、ベルティーユは庭園をただ眺めていた。
(そろそろリュシアーゼル様が帰ってこられる頃かしら)
そんなことを思ったちょうどその時だった。足音が聞こえて、ベルティーユはそちらに視線を向ける。いつの間にか、リュシアーゼルがガゼボのすぐ目の前に立っていた。
紫の双眸と目が合い、ベルティーユはふわりと微笑む。
「お帰りなさいませ」
「……ああ」
返事をしたリュシアーゼルは何か言いたげな顔をしていたけれど、暫しベルティーユをじっと見つめているだけでなかなか口を開かない。
「どうかなさったのですか?」
「……いや、なんでもない」
ガゼボに足を踏み入れると、リュシアーゼルは椅子に座った。
「伝言は伝えた。殿下の反応は貴女の予想どおりだった」
「そうでしょうね。ありがとうございます」
予想どおりだったということは、昔出会っていたことをなぜベルティーユのほうから教えてくれなかったのかと、ウスターシュがそう考えたということだ。自分がその機会を与えなかった事実を忘れて。
言おうと思えば言うことはできた。一緒に過ごす時間はあったのだから、会話を拒否されても強引に話すことは可能だ。
けれど、言えなかった。結局伝えられなかった。
所詮はその程度の縁でしかなかったのだ。
「今後、殿下がどう動くかはわからないが……貴女が煩わされることがないよう、徹底的に取り計らう」
「お願いしますね」
王家相手にも通用するユベール公爵という後ろ盾はなんとも心強い。
「ご帰宅なさったばかりですよね? 仕事量がとんでもないと、文句を溜めたアロイス卿がお待ちかねですよ」
「なら、もうしばらく邸の中には戻らないでいよう」
「まあ。お可哀想に」
「罰のようなものだからな、自業自得だ」
「仲がよろしいですね」
会話はスムーズだけれど、リュシアーゼルの様子がどこかぎこちない。妙にベルティーユを見つめてくる。観察と表現したほうが正しい雰囲気だ。
「朝食も昼食も、きちんと食べたか?」
「はい、いただきました」
「本当か? 量は少なくなかったか? 女性はあまり食べないほうが好ましいという風潮のせいで、食事量を抑える傾向にあると聞く」
「十分でしたし、とても美味しかったです」
「貴女はもう少し肉をつけたほうがいいのではないかと思う。細すぎて折れそうだと心配になるくらいだ」
「いたって健康ですけれど……」
「服は足りているか? 他にも欲しいものや何か気になることがあれば、いつでも遠慮なく言ってくれ」
「承知していますよ」
最後に関しては以前も同じようなことを言われている。またも気遣いが増したリュシアーゼルに、ベルティーユは首を傾げた。
「もしかして、昔の私がどのような姿だったかお聞きになったのですか?」
「……」
饒舌になっていたリュシアーゼルの無言は、肯定と同義だ。
「殿下もデリカシーがありませんね」
ウスターシュから伝わってしまうと予想はできたはずなのに、あまり考えていなかった。
別邸暮らしについてはリュシアーゼルに伝えていなかったし、ウスターシュも実情を知らない。けれど、当時の姿を見聞きすれば、どのような生活だったかは想像に容易いだろう。
「昔のことですわ。リュシアーゼル様がお気になさるようなことではありません」
食事も衣服も部屋も、すべてが十分とは言えなかった暮らし。それはリュシアーゼルには関係のないことなのだから、心を痛めないでほしい。
「……婚約してから変わったのか」
「そうですね、改善されました。見窄らしい娘を王族に差し出すわけにはいきませんもの。その点は婚約に感謝ですね」
周りの人たちの態度は相変わらずだったけれど、別邸での暮らしに比べるとマシではあった。
まともな食事を初めて口にした時は、その美味しさに感激したものだ。肌触りの良い生地のドレスや寝具にも驚愕した。
――『婚約者の王子様』を前にした時も、どれほど驚き、歓喜したか。
「私に優しく接してくれた唯一の人が、昔の殿下でした。食べ物をくれたのです。その頃は彼が王族だなんて思いもしなかったのですけれど……婚約者として対面した時は、運命だと馬鹿な勘違いをしたものですわ。消し去りたい、忌々しい過去です」
「――ここでは、絶対にそのような思いはさせない」
力強い紫の瞳に射抜かれて、ベルティーユは笑みを零した。
「心配していませんわ」
◇◇◇
「急に帰国とはどういうことかね、ラスペード君」
大学のとある教授の研究室で、暗めの茶髪に青色の瞳を持つ青年レアンドル・ラスペードは、急な帰国について教授から説明を求められていた。
「急用が入りましたので」
「しかし、長期休暇はもう終わっているよ」
「卒業に必要な単位はすでに足りています」
「それはそうだが……」
レアンドルは大学四年生で、後期が終われば卒業だ。卒業論文も三年生のうちに発表済みで、卒業単位はすべて足りている。三年生の時点で卒業が可能だったもののそうしなかったのは、教授の研究に協力するためであった。
「今の研究に君はとても重要な人材だ。一時的であっても抜けられると痛いのだが……大学在学中は帰国の予定はないと言っていたのに、何かあったのかね?」
「家庭の事情です。ご理解ください」
淡々と告げたレアンドルは、「ラスペード君!」と呼び止める教授の声を気にもとめず、「失礼します」と研究室を出る。
寮に戻ったレアンドルは、テーブルに広げたままの手紙に視線を落とした。それは二ヶ月ほど前に実家から届いたものだ。
手紙は執事長からの報告である。妹ベルティーユとウスターシュの婚約が破棄となり、ベルティーユがレジェ伯爵家に養子入りし、リュシアーゼルと婚約したこと。そして、ベルティーユの様子がおかしいということが書かれている。
(おかしい、か)
レアンドルの頭には、こちらを冷たく見据える妹の顔が浮かんでいた。
第七章・終