82.第七章六話
ベルティーユが侯爵家を抜け出すタイミングと彼が街中にいるタイミングは、必ず合うとは限らない。そのはずなのだけれど、ひと月が経過してようやく外出できたこの日、前回出会した場所で無事に彼と会うことができた。
というより、彼がここでベルティーユが来るのを待っていたように見える。
「久しぶりだな」
「はい。お久しぶりです」
「ちゃんと食べてるのか?」
「たぶん……?」
彼の基準に達しているとは思えないので疑問符がついてしまった。すると、彼はまた紙に包まれたパンらしきものをベルティーユに渡す。
「今日はお腹は空いてな――」
言い終わる前にぐぅぅとお腹が鳴ってしまった。確実に彼の耳に届いているようで、彼は腕を組む。
「なんだって?」
「……」
今日邸で与えられた食事はいつもの半分の量のパンだけだったので、正直なところ空腹だ。しかし、前回に続いてもらうだけなのが引っかかっていると、彼のほうから提案があった。
「少し手伝ってほしいことがあるんだが」
「……?」
「知り合いが飼っている子犬が逃げ出したらしくて、捜しているところなんだ」
「子犬ですか」
きょとりと、ベルティーユは目を丸くする。
「このパンは前払いのお礼ということで、一緒に捜してくれないか?」
彼には恩があるので、役に立てることがあるならもちろん協力はしたい。ただ、これではあまりにもベルティーユのほうに都合がよすぎる申し出だ。
「前のパンや、その前に助けてもらったことに対して何もできていないので、そちらのお礼ということで――」
「なら、今までの分とこのパンのお礼を、子犬捜索にしよう」
異論は認めないと言わんばかりの態度だ。
「頑固ですね」
「君に言われたくないな」
なんだか挑発的な笑みを浮かべている彼に、ベルティーユは降参した。
「わかりました。ただ、私はあと一時間ほどしたら家に戻らないといけなくて……」
「それまでで構わない」
「はい。頑張ります」
「助かる」
そうして子犬を捜すことになったのだけれど、手分けして捜索したほうが効率がいいと主張するベルティーユに対し、彼は一人だと危ないから共に行動するべきだと主張した。それでは一緒に捜す効果が薄いのではと思ったけれど、視野が一人分増えるだけで十分だということで、ベルティーユは結局受け入れることになった。
三十分ほどかけて、子犬がいそうな場所に心当たりがあるという彼と数カ所を回り、子犬はあっさり見つかった。
「ワン!」
元気よく鳴いて、子犬は彼の周りをぐるぐる駆けている。彼がしゃがむと、撫でるのを強請るように子犬は彼の手に頭をすりすりした。
(私必要だった……?)
ベルティーユがそんな疑問を抱いていたところで、彼がこちらを見上げる。
「助かった。ありが――」
彼の言葉を遮るように、突然ぶわりと強い風が吹いた。驚いたベルティーユは目を瞑り、風のせいでフードが後ろに落ちて髪がなびく。
ゆっくり目を開けると、じっとこちらを見ている彼と視線が交わった。
彼もフードがとれて顔が露わになっている。綺麗な金髪が風に揺れ、碧眼がまっすぐにベルティーユを映していた。
(きれいな顔……)
キラキラしている。それこそまさに王子様そのもので――呑気に見惚れていると、ベルティーユは自分の顔が完全に出てしまっていることに気づき、即座にフードを被り直した。
(絶対目の色見られた)
バクバクと心臓が鳴る。深くフードを引っ張っていると、彼が立ち上がった気配がした。
「もう戻るか」
特に変わりのない声をかけられて、ベルティーユは恐る恐る彼を窺う。彼もすでにフードを被っていて、俯き気味のせいで表情は視認できなかった。
その日も、『またな』という挨拶で別れた。
そして、二週間後。
それは、朝から覚悟がいる日だった。
「本日は食事はありません」
ベルティーユの自室でこちらを見下ろしながら冷たく告げたのは、マチルドという使用人だった。憎悪が濃縮された眼差しにベルティーユは肩を竦める。
一日中食事が与えられない日は時折ある。それなのにわざわざ宣言をするのは、宣言自体に意味があるからだ。
「理由はわかりますね」
「……はい」
ベルティーユはぎゅっとスカートを掴む。
今日はベルティーユが生まれた日。――母が亡くなった日だ。
「奥様の命を奪い、領地に災厄を招いたお嬢様は、本来生きていることすら許されません。お嬢様のような犯罪者は罰を受けるのが当然なのです。旦那様はお優しいため別邸で暮らすことを許可なさっておりますが、北方の修道院なり牢獄なりがお嬢様には相応しい」
「……」
「だというのに、以前は本邸に立ち入るという大罪を犯しました。まったく反省などしていない証拠です。それどころか、ご自身の罪への自覚が足りないように見受けられます。なんとも愚かしく、無責任極まりない。お嬢様の存在そのものが罪深いのです。そのことを決して忘れてはなりません。お嬢様がいなければ――」
マチルドの話を聞きながら、ベルティーユはそっと目を伏せる。
頭に浮かんだのは、金髪碧眼の彼の顔だった。
次にベルティーユが侯爵家を抜け出したのは一週間後のことだった。あの邸にいることがまた耐えられなくて、逃げるように外に出たのだけれど――その日は、今では待ち合わせ場所のようになっているそこに、彼の姿がなかった。
二度目に出会った場所。前回も彼はベルティーユより先にここにいたので、てっきり会えると思っていた。日時を正確に決めて約束しているわけでもないのだから、本当なら会えないのが普通のはずだ。それなのに、当たり前のように彼がいると思っていた。期待していた。
この落胆は、とても大きかった。
『お嬢様は、本来生きていることすら許されません』
(……)
『ご自身の罪への自覚が足りないように見受けられます』
(……ごめんなさい)
『お嬢様の存在そのものが罪深いのです』
(ごめんなさい、ごめんなさい)
一週間、頭の中を埋め尽くしている非難の羅列。
耳を塞いで、目を瞑って、その場にうずくまる。
「ごめんなさい――……」
「――どうしたんだ!?」
聞こえてきた声に瞠目して、ベルティーユは顔を上げる。
焦った様子で彼がこちらに走ってきている。その姿に安堵して、涙が溢れた。