81.第七章五話
飲み物ももらって空腹が改善されたベルティーユは体調も良くなり、なぜか彼と共に近くの公園に移動していた。木で日陰になる芝生の上に座っている。
名乗っていないのでお互いに名前も身分もわからない。彼はベルティーユを貧乏な平民だと思っているだろう。騙しているようで申し訳ないけれど、自分のことを話したいとは思えなかった。
彼も名乗らないということは身分を隠しておきたいのだろうから、探り合わないのは利害の一致と言えた。
「会えてよかった。あれから気になっていたんだ」
柔らかい表情で優しくそう告げる彼は、元々の知り合いですらなかった程度のベルティーユをずっと気にかけてくれていたらしい。
「いい人ですね」
「前に言っただろう、責任だ。今の私にはこれくらいのことしかできない」
どこか遠くを見るような碧眼には、自嘲が込もっているように感じられる。
「……『これくらいのこと』ができない人は、たくさんいると思います」
ベルティーユの言葉に目を丸くした彼は、「そうかもしれないな」と軽く笑って見せた。そして、そっと目を伏せる。
「私には兄がいるんだが……とても素晴らしい方だ。父の仕事の補佐を完璧にこなしていて、みんなから尊敬され、期待されている。忙しい中、私と過ごす時間もきちんと作ってくれる」
(おにいさま……)
兄がいると聞いても親近感は湧かない。
ベルティーユにも兄はいるけれど、理想とはまったく異なる関係性だ。家族なのに敵のように認識されている。
その関係が普通ではないことなのだと、彼の話で改めて実感した。
一緒に過ごすとはどのようなことをするのだろうか。絵本にあったように他愛のないおしゃべりをしたり、お出かけをしたりするのだろうか。
「――みんな、兄上と私を比較する」
ベルティーユは目を瞬かせる。呟くように零した彼の表情が寂しそうで、悔しそうだったから。
誰かと比較されるのはベルティーユにも覚えがある。
亡くなった奥様はと、使用人たちにずっと言われてきた。あの方はすごかった、優しかった、領主の妻として素晴らしいお方だった。それなのにお前はと責められてきた。あの方をみんなから奪ったのだと非難されてきた。
鮮明に思い出されて、ぎゅっと唇を噛み締める。
「そうですか」
なんと返すのが正解かなど考えず、余裕がない状態のベルティーユはただの相槌を返すことになってしまった。すると、彼が意外そうに瞠目する。
「……何を話しているんだろうな、私は」
そして彼は、小さく笑った。
「別に慰めてほしいとは思わないが、そうですかの一言だけ返ってくるとは思わなかった」
「他人の私が口を挟むのは筋違いですから」
血縁者にさえ大切にされない自分が、人の生き方に口を挟むことはできない。責任などとれない。
話を聞く限り、兄弟仲が悪いというわけではなさそうだ。羨ましい。パンを恵んで助けてくれた恩人なのに、気を抜くと妬みが言葉となって出てしまいそうで、自分の心の狭さが嫌になる。
(私と違って、大切にされてるんだろうな)
何も不満がないわけではないと、話を聞いて伝わってきた。彼は悩んで、苦しい思いをしている。
それでも、彼の家族には愛情があるのだろう。ベルティーユが本でしか知らないものが。
「やっぱり君、変な子だ」
「……そうですか?」
変だから、いつまで経っても大切にされないのだろうか。
そこからしばし、沈黙が続いた。
ベルティーユがふと視線を向けた先、遠くにベンチが見える。そこに座っているのは親子のようで、子供が何か――サンドイッチのようなものを食べていた。
その姿を眺めながら、ベルティーユは口を開く。
「……貴方は自分にできることは少ないと思っているようですが、私を救ってくれたのは他の誰でもなく貴方です。それも、二度も」
彼の目がこちらに向けられたのがわかる。
見知らぬ少年たちを追い払ってくれた前回が一度目、空腹で意識が朦朧としていたところでパンをくれたのが二度目。彼が手を差し伸べてくれなかったら、ベルティーユはどうなっていたか。
「私にとっては、物語の王子様みたいな人ですよ」
彼を見て、自然と笑みが零れた。彼のほうは目を見開いて、それから照れくさそうに視線を逸らす。
「……そう、なのか」
「はい」
彼の頬が赤くなっているような気がした。
帰らなければいけない時間となり、ベルティーユは最初に会った場所まで彼に案内してもらっていた。戻らないと帰り道がわからないのだ。
その途中でいくつかの店の前を通り、女性向けの店のショーウィンドウに飾られているドレスやアクセサリーに目を奪われる。
(きれい……あ)
無意識に足を止めていたことに気づいたベルティーユははっとして、少し進んだところで立ち止まってこちらを見ている彼を視界に捉える。ベルティーユがついて来ていないことに気づき、待ってくれていたのだろう。
「ごめんなさい」
「いや……」
ベルティーユは慌てて駆け寄る。追いつく前に、彼はフードの下で店を一瞥したように見えた。
無事に帰ることができたその日の二日後に、交際相手と破局して荒れていたメイドではなく、同僚のメイドたちが思い出したかのようにベルティーユの元へと食事を運んできた。最初は少し慌てた様子だった気がしないでもなかったけれど、ベルティーユを見て「しぶといんですね」と言っていた。
そして、彼女たちのおしゃべりから、荒れていたあのメイドが解雇されたことがわかった。交際中に仕事をサボっていた事実が上の人にバレてしまい、解雇という結果になったそうだ。別れた相手側も解雇されたらしい。結婚を控えているというのに職がなくなって苦労するだろうとメイドたちは言っていた。
あのメイドが解雇されたことで他の使用人の行動パターンが少し変わり、別邸から人がいなくなるタイミングが安定しなくなった。
『またな』
あの日、別れ際に彼にそんな挨拶をされた。そのような『約束』は当然初めてのことで心が躍って、ベルティーユはまた外に行くことを楽しみにしていた。
一度で終わるはずだったのに、何度も繰り返してしまえばいつか見つかってしまうリスクが増えるだけなのに、また彼に会いたいと思ってしまっているのだ。
チャンスが訪れたのはひと月後のことだった。