80.第七章四話
初めて外の世界を見て、二週間ほど経った頃。
「信っじらんない! ほんと最悪よ!」
ベルティーユが自室の床を拭いている後ろで、メイドはベッドに腰掛けて怒りを爆発させていた。両隣には同僚も座っている。
ベルティーユのベッドなのに相変わらず我が物顔なのは、もはや違和感のない光景だ。
「あの泥棒猫、この邸で働き始めてまだ三ヶ月よ!? しかも妊娠って、どれだけ私のこと馬鹿にしてんのよ!」
ずっと機嫌が良かった理由である、ラブラブだったはずの彼と破局したらしい。別れ方が最悪だったようで、酷い形相である。
彼が新人の若いメイドと浮気をしており、更に浮気相手が妊娠していて、結婚するから別れてくれと話を持ちかけられたそうだ。そのせいでメイドはこんなにも荒れ狂っているわけである。恋に浮かれていた影は微塵もない。
「最低よね。あんな男もう忘れなさいよ。浮気する奴なんて碌でもないんだから、どうせ結婚したって上手くいかないわ」
「そうそう。男なんてたくさんいるんだし、あんなのはもう放っておけばいいのよ」
同僚たちに慰められて宥められても、メイドの機嫌は良くならなかった。
「わかってるけど、永遠にこの怒りは消えないわ。絶対に後悔させてやるんだから!」
急に立ち上がったメイドは「お嬢様!」とベルティーユを怒鳴りつける。
「ピカピカに磨いてくださいよ! それくらいしか役に立たないんですから、私の仕事を増やさないでくださいね!」
明らかな八つ当たりを終えると、メイドは乱暴にドアを開けて部屋から出ていく。同僚のメイドたちも部屋の出入り口へと向かった。
「彼女、まだ知らないみたいだけど、新人の子と彼はかなり前から付き合ってたらしいの。侯爵家で働き始める前からよ」
「え、そうなの? それなら……」
「彼女のほうが浮気相手で、最初から本命じゃなかったってこと」
「うわぁ、かわいそ。でもちょっといい気味かも。ずっと彼とのラブラブ自慢で正直ちょっとムカついてたのよね」
「ほんとよね。急に自分はモテる、美人だって自信満々に勘違いしちゃって、マウントばっかりだったもの」
「高いプレゼントもらったってはしゃいでたことあったけど、あれ、もしかしたら相当な安物だったんじゃない?」
「ありえるわねぇ」
先ほどまでの寄り添う姿勢はなんだったのか。楽しそうに嘲笑しながら、メイドたちが去っていく。
ベルティーユはなんとなく、嫌な予感がした。
その嫌な予感は的中し、ベルティーユの食事が運ばれてこなくなった。あのメイドだけでなく、他の使用人も別邸に来ていないのだ。
一昨日から何も食べていない。水だけで空腹を凌ぐことは難しい。
食事が抜かれることは何度もあったけれど、二日以上何も与えられないということはなかった。最近はきちんと食事が届けられていたので、急に何も食べられなくなると尚更つらい。
本邸に食べ物を探しにいくことはできるものの、本邸はここと違って人が多いのですぐに見つかるだろう。食べ物を手に入れる前に別邸に戻され、また折檻されることは目に見えている。
(どうしよう……)
ふらふらして、頭もまともに回らない。
(お庭の草……食べられるかも)
ベルティーユは力が入らない体に鞭を打ち、ゆっくり窓際に移動する。ゲートのほうを見下ろすと――ちょうど、トリスタンが出かけていくのが見えた。
以前のようにケープを着て邸を抜け出したベルティーユは、やはり覚束ない足取りで道を進んでいた。
外に出るのは一度だけだと決めていたのに、衝動的に、縋るような気持ちで敷地から出た。行き先も決めず、ただ足を動かしている。
朦朧としてきて、視界がぼやける。これはまずいと思うけれど、どうしようもないのが現状だ。
(何をしてるんだろう)
ベルティーユにお金はない。食べ物なんて買えない。
わかっていることなのに、体力を無駄に消費してしまう行動を起こしている。庭の草を食べれば済んだのに、どうして外に何かを求めているのか。
もし倒れたりしたらどうなるのだろう。家に連絡が行って、ベルティーユは連れ戻されて、結局は罰を与えられるのだろうか。それとも、そうなる前に――。
意識が遠のいて、体が前に傾く。しかし倒れる前に、温かいものがベルティーユの体を支えた。
「どうした!?」
頭上から届いた焦った声に、ベルティーユの意識がはっきりとしていく。顔を上げると、見覚えのある碧眼が視界に映った。
(なんで……)
二回だ。たった二回しかベルティーユは外に出ていない。時間も少ない。
それなのに、どうして同じ人物に会うのだろう。碧眼を持つ、この優しい少年に。
「貴方、あの時の……」
「体調が悪いのか? 熱か? 病院に」
「ちがい、ます」
ベルティーユの返事を聞くと、少年はひとまずベルティーユを壁が背もたれになる形で座らせた。そして傍らで、片膝をついてこちらと目線を合わせる。
「食べれてないのか? それとも、……誰かに叩かれたりとか……」
「食事が、できてない、だけです」
「……そうか」
なぜか彼は悲痛な顔をする。そして、ポケットから紙で包まれているものを出した。
「手をつけていないパンだ。少しでも食べろ」
ベルティーユにあげる、ということらしい。いらないと言おうと口を開いたけれど、声を発する前にお腹が鳴る。
「ほら、お腹が空いてるんだろ。そんなにフラフラして……」
「でも」
「いいから食べろ」
強く言われて、ベルティーユはぐっと唇を噛む。
「……何を、返せばいいんですか。私は何も持ってないです。そうじくらい、なら……」
「見返りを求めているように見えるか?」
真摯な眼差しだ。その問いにはいいえという答えしかない。
本当は今すぐそのパンを食べたい。この空腹にもう耐えられない。けれど、ベルティーユがもらっていいものではないという考えが頭から離れないのだ。
答えもしない、動くこともしない。そんなベルティーユに、彼は優しい声を紡ぐ。
「軽食として持っていたが、私はまだまだ腹がいっぱいだ。帰れば夕食が待っているから、これはきっと捨てることになってしまう。それなら君に食べてもらうほうが断然いいと思わないか?」
窺うように視線を上げると、少年は目を細めてパンから紙を取り外し、ベルティーユの手のひらにパンを置いた。
いつもベルティーユが食べているものと感触が違う。
もう一度少年を見て、それからおずおずとパンを一口サイズに千切る。また少年を見れば「早く食べろ」と促されたので、千切ったものを意を決して口に入れた。
「……美味しい」
「そうだろ」
いつもかたくてカビが生えたパンばかりだった。こんなにも柔らかくて、美味しくて、そしてあたたかいパンは食べたことがない。
「ありがとう、ございます」
目頭が熱くなったのは、気のせいではなかった。