78.第七章二話
機会はすぐに訪れた。
トリスタンが出かけていって、メイドが別邸からいなくなる。それをしっかり確認して、ボロボロの服の上からケープを着て、フードを被る。
周りに人がいないか気にしながら、そっと別邸を出た。
外に出るのは二回目だ。不思議な解放感と、不安と、期待と。色んな感情を抱えながら、ベルティーユはゲートへと向かう。
ゲートの前について茂みの下を確認し、鍵を見つけた。外、見えるところにも人がいないか気にしつつ、震える手で南京錠を開ける。ガチャリという音に心臓が大きく脈打つのを感じながら、トリスタンの真似をして鍵を茂みに隠し、ゲートを開け――外に一歩、足を踏み出した。
(すごい……)
しっかり南京錠をかけたあと、ベルティーユは道を忘れないように集中しながら歩みを進め、人が多い通りに出た。建物が建ち並び、見知らぬ人々や馬車が行き交っている。
外に出るのは初めてで、何も知らない。怖いはずのこの状況で、肥大する不安よりも興味が上回る。
迷わないようにその通りをひたすら進んでいくと、開けた場所にたくさんの布が張られた屋根があり、その下に台や箱が並べられていた。台や箱には色鮮やかなものが積まれていて、人で賑わっている。
「私、この市場に来るの初めてなのよ」
「ここは品揃え豊富よ」
そこに向かっていく人の会話が聞こえてきた。
(いちば……)
本で読んだことがある気がする。
ベルティーユは恐る恐る市場を歩き、目に入るものを観察していく。
(あ、じゃがいも。あれは『にんじん』……? こっちの葉っぱは……)
本で得た知識の答え合わせのようでわくわくする。
(これは、みかん?)
ベルティーユはとある台の前で立ち止まった。台に積まれている丸いものは本で見た覚えがある。
確か、『甘い』ものだ。果物。ベルティーユは食べたことがない。
じっと見つめていると、台の向こうに立っている男性が怪訝そうに話しかけてきた。
「嬢ちゃん、金は持ってんのか?」
「かね……?」
問われたベルティーユの不思議そうな声に、店主が眉間のしわを濃くする。
「金がないなら何もやれねえよ。どっか行きな」
そうだった。最近読んだ本にあったけれど、何かをもらうにはお金というものが必要なのだ。お金とものを交換する。それを『買う』というらしい。
いつだったか、メイドの一人が「彼氏が買ってくれたのよ」と他のメイドにネックレスを自慢していた。
ベルティーユの服がボロボロになり、サイズもさすがに合わなくなって新調するとなると、メイドには「新しいものを買ってあげてるんですから感謝してくださいよ」と言われるのだ。
ベルティーユにはお金などない。見たこともない、触ったこともない。食事や寝具、服、十分に与えられていないことは本から得た知識で知っているけれど、ひとまず現物を支給されてはいるのだ。買うという行為は、ベルティーユ本人にはこれまで必要のないことだったし、そもそもできないことだった。
(勝手にもらうのは『ぬすみ』で、悪いことなのよね)
だから、目の前にたくさん食べ物があるのに、何も食べられない。食べたら怒られるのだ。商品を売っている人――この男性に追いかけ回されて、ボコボコにされるのだ。本にはそう書いてあった。
ぐぅぅ、とベルティーユのお腹が鳴る。それを聞いた男性がこちらを睨みながら「さっさとどっか行け。商売の邪魔だ」と厳しい声で言葉を重ねるので、ベルティーユはビクッと肩を揺らし、逃げるように市場を離れた。
道を進んで、疲れて歩みを止めて息を吐く。
(『世の中は甘くない』)
文字を勉強するために読んだ本に書かれていた言葉を思い出した。
顔を上げれば、道行く人の姿が視界に映る。
ベルティーユが見えていないかのように素通りしていく人、ベルティーユを見て顔をしかめて通り過ぎていく人。さっきまで気づかなかったけれど、好意的ではない視線が突き刺さる。
「汚い格好ね」
そんな言葉が耳に届いた。
ベルティーユは自身の格好を見下ろす。
ケープでは隠れていないスカートは着古されたもので、洗っても落ちない汚れやほつれがある。それが周りの人たちは気に入らないらしい。
不愉快そうな目をする人たちはみんな、綺麗な格好をしている。
「――おい」
視線を落としていたベルティーユは、その声に視線を向けた。ベルティーユよりいくつか年上に見える少年が三人、ニヤニヤしながらそこに立っていた。
「お前、着てる服はボロボロのくせに、その上のやつだけ妙に綺麗だな」
上のやつというのはケープを指しているようだ。
確かに、ケープは新品ではないけれど、ベルティーユが着ている服と比べるとかなり綺麗ではある。
「それ、盗んだんじゃねぇのか?」
「え……」
予想もしていなかったことを言われてベルティーユが目を丸くしていると、少年の一人がぐっと距離を詰めてベルティーユの手首を掴んだ。
「どこのを盗んだんだ?」
「ちが」
「俺たちが一緒に謝ってやるから返しに行くぞ」
「はな、して」
「往生際が悪いな。大人しくしろ」
手を振り解こうとしてもびくともせず、ベルティーユは助けを求めようと周りを見るけれど、誰もこちらに近づこうとしない。助けようとしてくれない。
(あ……)
怪訝そうな顔、面倒そうな顔。トラブルに関わりたくないと、そう語っている顔ばかり。
抵抗も虚しく、そのままベルティーユは路地に引っ張られていく。
きっと誰も助けてくれない。思い描いていた世界とやはり違った。優しい人は本の中だけにいて、現実には存在しない――そう思った。
「その子を離せ」
後ろからかかった声に、ベルティーユも少年たちも足を止めて振り返る。
路地の入り口に一人、ローブを着た者が立っていた。ベルティーユのようにフードを被っていて顔は見えにくいけれど、こちらを――ベルティーユを連れて行こうとする少年たちを睨んでいる。
体格的に少年たちよりも年齢は下に見える。しかしどことなく、独特な雰囲気を持っているように感じた。
「なんだよお前、関係ねぇ奴は引っ込んでろよ」
「その女の子と見るからに無関係なのに、勝手に難癖をつけて強引に連れて行こうとしている者が何を言っている」
そう言いながら歩いてきて、ローブの彼はベルティーユの手首を掴んでいる少年の手を握りしめた。その力が強いのか、少年の力が緩んでベルティーユはさっと手を引く。すると、ローブの彼はすぐにベルティーユを引っ張り、庇うようにベルティーユを後ろに隠した。
「手慣れているようだが、狙いは本当にケープか? さっき連れに警官を連れてくるよう頼んだが、突き出せば余罪がちらほら発覚しそうだな」
「っ――」
ローブの彼の言葉に少年たちは不愉快そうに表情を歪めるも、「行くぞ」と走り去った。
「大丈夫か?」
振り返った彼と目が合う。
その瞳は、綺麗な碧眼だった。