76.第六章十三話(ウスターシュ)
執務室で、ウスターシュは椅子に腰掛けて息を吐いた。
先日、ユベール公爵の甥テオフィルが呪いを受けた事件をきっかけに、ドルレアク女公爵の夫バスチアンがクーデターを企てていたこと、彼が先王の兄の隠し子であることなどが軍からの報告で発覚したため、その対応で父や兄は忙しそうにしている。
王家のスキャンダル、国民から絶大な人気を誇る公爵家の信じがたい所業。公にしてはならないと結論づけたがゆえの多忙だ。
学生であるウスターシュは学業を優先すべきということで対応から外れているけれど、詳細は共有された。
クーデターもだけれど、他にも衝撃的だったのはドルレアク女公爵マリヴォンヌの計画だった。死者を生き返らせることができる魔道具があると信じているマリヴォンヌは、あろうことか姪のベルティーユを生贄の一人にしようとしていたのだ。
マリヴォンヌは妹を溺愛していたらしく、妹の忘れ形見である甥姪を大層気遣っていたと聞く。それがまさか、姪をそんなにも憎悪していたとは思わなかった。そのような素振りを見せたことが一瞬たりともなかったのだ。
(ベルティーユ嬢は知っていたのか? ラスペード侯爵家は?)
異常なまでのマリヴォンヌの憎悪は、ベルティーユに直接ぶつけられていたのだろうか。それとも、完璧に取り繕われていて誰にも悟られていなかったのだろうか。最近はその疑問が常に頭のどこかにある。
『貴族の子だからと優雅な暮らしが保障されているわけではありません。没落寸前の家や子供を冷遇する家、色々あるのですもの』
まだ婚約がなくなる前。ベルティーユは恋心が冷めたと悠然と口にしたお茶会で、そんなことを言っていた。まるで、彼女自身がよく知っているかのように。
『王家との婚約がだめになってしまった娘を置いているのは外聞が悪いですから、家のことを考えれば早々に追い出すのが賢明でしょうね』
愛する娘をあっさり養子に出したラスペード侯爵家の判断にも違和感はあった。不満や抵抗もなく、当然のようにそれを受け入れていたベルティーユにも。
(まさか)
ベルティーユはラスペード侯爵家で家族から冷遇されていたのだろうかと、そんな考えが過る。伯母だけでなく、父や兄たちからも疎まれていたのではないかと。
しかし、やはりありえないと否定する。長兄はどうもよくわからないところはあるけれど、ラスペード侯爵家の家族仲の良さは有名。亡くなった夫人によく似たベルティーユのことは殊更可愛がっているというのだから、その姿が偽りなわけがない。そのはずだ。
「――ウスターシュ」
突然落とされた声にはっとしたウスターシュは顔を上げた。執務机を挟んですぐ目の前に立っていたのは兄の王太子だ。
「兄上」
「ノックはした。ずいぶん考え込んでいるようだったね」
「気づかず申し訳ありません」
「いや、いい。それより、眉間にしわを寄せて何をそんなに考えていたんだ?」
「それは……」
「愚問か。初恋相手がどこにいるのかだろう」
返答に躊躇ったウスターシュだったけれど、兄は確信を持った様子でそう言った。
「まだ見つかっていないそうだね」
初恋の少女は未だに誰なのか判明していない。ウスターシュは初恋相手捜しに奔走しているので、そのことで頭がいっぱいだと兄が勘違いするのは何も不思議ではなかった。
「伯爵家か侯爵家のご令嬢だという話だが……金髪に水色の目、年齢はおそらく少し下、家族から相当冷遇されるほどよく思われていない、ウスターシュと面識がある。そうなると限られているはずなのに、かなり苦労しているな」
本当に、こんなにも時間がかかるのは想定外だった。
正直なところ、すぐに見つかると思っていたのだ。なんなら、相手から名乗り出てくれるかもしれないと淡い期待さえ抱いていた。傲慢だった。
彼女はペンダントを手放す選択をしたのだから、会っても彼女だと気づかなかったウスターシュに愛想を尽かしていると断定するしかない。
「まあ、娘は政略結婚に使えると考える当主が多いから、今は待遇も良くなっているのだろうね。髪や瞳の色は成長と共に多少変わることもあるし、もう少し広い範囲で捜してみるのもいいのではないかな」
「はい、そうします」
「見つけてきっぱり振られたら、慰めてやるからな」
「ありがとうございます」
権力を使って結婚を迫るつもりはない。振られても簡単に諦めるつもりはないけれど、第二王子のウスターシュの猶予は限られている。振り向かせることができなければ、今度こそウスターシュは政略結婚だ。
「ウスターシュ」
「はい」
兄が真摯な表情になった。
「今日がなんの日か、覚えているか?」
「……ベルティーユ嬢の誕生日ということですか?」
「ああ、そうだ」
元婚約者の誕生日くらい覚えている。少々特殊な誕生日なので尚更だ。
ベルティーユは今日で十五歳。見た目も性格も大人っぽいので忘れそうになるけれど、まだ十五歳である。
「あの子の誕生日を、当日に祝ったことはなかった」
「事情が事情ですし、ラスペードの方針でしたから」
「……そうだな」
兄はそっと目を伏せる。
何を考えているのだろうか。声をかけることがなんとなく憚られてしばらく時間が経つと、兄はゆっくりと口を開いた。
「あの子にもお前にも、悪いことをした」
兄の婚約者は、次期国王と婚姻を結ぶのにギリギリ許容範囲内の家柄の娘だ。あまり力のない伯爵家の娘。互いに惹かれて恋人になったのちの婚約である。
王太子という立場上、兄はあらゆる責務を背負っている。両親はそんな兄を想い、結婚はなるべく自由にさせたいと考えていたようだ。
ゆえに、しわ寄せがウスターシュに来た。バランスを取るために、正真正銘の高位貴族の娘――ラスペード侯爵家の娘との縁談が第二王子のウスターシュに降りかかったのだ。
当時の兄は、さすがにそんなにも早くウスターシュの縁談がまとまるのは予想していなかったらしい。
兄は恋愛結婚。自分は政略結婚。その理不尽への不満が燻り、結婚が許されない身分の相手に恋をしてしまったのでどうしようもない、彼女でなければ相手が誰であろうと同じだと投げやりになり、ベルティーユに対する態度に繋がっていた。
「すべて私の未熟さが招いたことです」
我ながら子供だったと、馬鹿なことをしたと思っている。
王族や貴族に政略結婚は珍しくない。割り切った関係でいいと、ウスターシュは壁を作った。しかし政略結婚だからこそ、お互いを知ろうとし、良好な関係を築く努力をするべきだった。ベルティーユがそうしようとしていたように。
今なら理解できる。けれど、理解するのが遅かった。
ベルティーユはもう、謝罪の機会を与えてはくれないだろう。二度とウスターシュに関わりたくないと思っているはずだ。それほどのことをウスターシュはやってしまった。
理解したのは、気づいたのは、ベルティーユに見限られたからだった。つくづく情けない。
「ベルティーユ嬢を傷付けたのは私であって兄上ではありません。婚約破棄も、私の自業自得です」
「だが、幼いお前たちの選択肢を奪うことになったのは紛うことなく私のせいだ。……本当に、すまなかった」
兄が出て行って、ウスターシュは懐からペンダントを取り出した。
ベルティーユから渡されて以来、このペンダントはずっと持ち歩いている。
少女にプレゼントしたペンダント。雑貨店で購入したものなので決して高級ではないけれど、値段以上の価値がある特別なもの。
『……なぜ、君がこれを持っている?』
『とある方からいただきました』
ペンダントを握りしめて、ベルティーユの台詞を思い出す。
『貴方が気づいてくれないから手放すことにしたのかもしれませんね』
『私がこのペンダントを持っているということが、少女が貴族の血筋であることの証明になると思うのですけれど』
『別に断っていただいても構いませんよ。その場合、私からこれ以上お話しすることはございませんし、ペンダントも手放しません。私がいただいたのですから正真正銘私のものなので、返せなどと仰らないでくださいね』
『こちらはお返ししますね。――私にはもう、殿下は必要ありませんので』
『貴方と結婚しなくて本当によかったと、心の底から思いますわ』
自分でも驚くほど鮮明に覚えている。
そして次に思い出したのは、つい先ほどの兄の言葉だった。
『髪や瞳の色は成長と共に多少変わることもあるし――』
ベルティーユの母方の家系は少しくすんだ水色や青色の目が多い。クーデターの件で捕らえられたドルレアク女公爵も水色の瞳だ。
『初恋の人に気づけるといいですね。――その時を楽しみにしています』
答えはもう、目の前にある気がした。
第六章・終
第七章は書き終わってから更新を始めます。