71.第六章八話
世に出ている作品数は決して多いとは言えず、外見や年齢など個人情報が不明の画家ヴィルジール。もちろん絵の技術が認められているからこそ有名ではあるものの、作品が少ないゆえの希少価値もあり、人気が高い画家なのである。
その正体が、まさか亡くなった先代ユベール公爵だったとは。
公爵という立場の多忙さを考慮すると、発表されている作品数があまり多くないのも頷ける。
「お兄様だったのですね」
「貴女が兄の絵に興味を持ってくれたのは、弟として純粋に嬉しかったな」
ベルティーユを見て柔らかく目を細めたリュシアーゼルに、エリクが意外そうに瞠目した。
「リュシアーゼル様がテオフィル様以外にそのような表情をなさるとは、大変驚きました」
「王子から略奪するほど焦がれている相手だからな」
リュシアーゼルがしれっと口にした言葉にまたもや目を丸くしたエリクが、少し間を置いて「ははっ」と笑う。
「そうでした。では邪魔者は隅に控えておりますので、お二人でごゆっくりご覧ください」
「ああ」
エリクが一礼するので、ベルティーユとリュシアーゼルは歩みを進め、展示されている絵を順番に見ていった。
やはり作品は風景画の割合が高く、時折花瓶に生けられた花や籠に入ったフルーツなどの絵がある。
「兄は趣味で昔から絵を描いていた。婚約中の頃からほとんど義姉に贈ってばかりだったな」
「なるほど。それでファン……」
義姉が画家のファンで作品を集めていたと言っていたけれど、むしろ画家本人からプレゼントされていたようだ。義姉に贈る分はどうせ趣味だからと気楽にではなく、かなり真剣に描いていたという。『ヴィルジール』にはない、人が入った構図が多かったのだとか。肖像画などもあったそうだ。
「絵をもらって義姉も嬉しがっていたが、兄の絵のファンだからこそ、世に出ないのはもったいないと歯痒く思っていたらしい。義姉に説得された兄は適当につけた偽名でチャリティーに作品を出したんだが、それが有名な芸術家の目に留まり、高い評価を受けてな。他の作品を熱望されて、趣味がそのまま寄付に繋がるならありがたいと、定期的に出品するようになったんだ」
ベルティーユが読んだ小説の表紙代も寄付に回ったと説明される。
『ヴィルジール』の作品はどれも高値がついたそうだけれど、全額を寄付するとは、私欲に溺れたそこらの貴族とは比べるのも烏滸がましいほどの人格だ。公爵であることを公表せずにやっていたところが、名誉を求めた偽善ではないことの表れだろう。
「この個展は生前、兄がエリクと進めてきたもので、色々あってこの時期まで延びてしまった」
兄オクタヴィアンとその妻が突然亡くなり、リュシアーゼルは急遽、幼いテオフィルに代わって公爵位を継ぐことになった。その後はテオフィルが呪いを受けてしまったこと、マノンが行方不明になってしまったことなどもあり、延期が続いていたのだろう。
そういえば最近、邸から何か荷物が運び出されていくのを窓から見かけたことがあったけれど、この作品たちを運んでいたのかもしれない。
「未完成の、最後の作品も展示している」
画廊の一番奥には、周りの作品とは少し離され、目を引く形で展示されている大きな絵があった。絵の中のその光景は見覚えがある。
「公爵家の庭……ですか?」
「ああ。アレンジされているから、よく知る者ではないと気づかないだろうが」
予想が当たっていたようで、リュシアーゼルが肯定する。
ユベール公爵家の庭をベースに、オクタヴィアンが想像を重ねた描きかけの作品。彼の生涯で最後に着手していたものとなった作品。
「これは展示だけで、売らずに形見として手元に残しておくつもりだ」
絵を見つめるリュシアーゼルの眼差しは、どこか寂しそうに見える。生前の兄の姿を思い出しているのだろうか。絵を描いている姿をきっと見たことがあるはずだ。
ベルティーユも改めて絵を観察する。
未完成の作品でも、『ヴィルジール』らしい繊細さと感性が感じられる素晴らしいもの。二度と完成することのない作品なのは悲しく、しかし絵ができていくまでの過程を目にできることはわくわくさもある。
(――綺麗だわ)
それは偽りのない、素直な感想だ。
馬鹿なことにずっと、家族や婚約者に振り向いてほしくて必死になっていた。個人的な楽しみを優先する余裕のない生活だった。
すべてを諦めて荒んでいた時期も、ほとんど引きこもって読書に時間をあてて、他の何かを試そうとはしなかった。読書くらいしか楽しいことを知らなかった。
限られた時間は好きなことをしてのんびり過ごしたいとラスペード侯爵家を出たけれど、ベルティーユは自身の好きなことをそれほど多く把握できていなかったのだと実感する。
「芸術鑑賞は思っていた以上に好きなようです」
絵を眺めながら、自然とそう零れた。
読書以外の好きなこと。それを教えてくれたのがリュシアーゼルの身内だったという事実は、なんだか嬉しいような落ち着かないような、ベルティーユを言い表すのが難しい気持ちにさせた。
「描くほうはどうだ?」
「……描く、ですか」
「兄のアトリエはそのままにしている。画材なども残っていて……もう使えない物もあるだろうが、眠ったままよりは誰かに使ってもらえるほうがいいだろうな。試してみたら読書よりも楽しいかもしれないぞ」
「ふふ。それはどうでしょうね」
ベルティーユは上品に笑った。
「私は眺めているだけで十分です。使うなら、リュシアーゼル様やテオフィル様がいいと思いますわ」
遺ったものを二人が使ってくれたほうが、オクタヴィアンも嬉しいはずだ。
(絵は、こうして遺ってしまうもの)
それは本意ではないので、ベルティーユが絵に手を出すことはきっとない。