64.第六章一話
朝食前、ジャンヌに支度を手伝ってもらいながら、ベルティーユは考え込んでいた。
(話しすぎたわ)
反省しているのだ。自身の境遇についてリュシアーゼルに詳しく説明する予定はなかったのに、つい話してしまったことを。
目を伏せて、昨日の自分の心境を冷静に分析する。
ベルティーユを蔑ろにしてきた張本人たちに、時間が戻る前でさえもぶつけることのなかったベルティーユの本心――ベルティーユを生んだ人に対する不満、命が短く一般的な幸せすら願うことができない不満。
まだまだ吐き出したいことが、自覚しているよりもたくさんあったのだろう。リュシアーゼルならきちんと話を聞いてくれるとわかっていたから、ベルティーユは甘えてしまった。
幼い頃は劣悪な環境の別邸で暮らしていたこと、婚約を機に本邸に移ったことまでは漏らさなかったけれど、最早その情報があるかないかはそれほど大差がないと言っていい。
おそらく、リュシアーゼルの中でベルティーユへの同情は更に増したはずだ。面倒見が良く優しい彼の性格からして、これまで以上に気を遣われることになるかもしれない。
(そこまでは望んでいなかったのに)
求めていたのは程よい情、距離感、尊重。過剰である必要はない。
伯母のマリヴォンヌが捕まれば、彼女の望みがなんであるか、リュシアーゼルの耳に入るのは当然のことだと承知していた。伯母は一緒に暮らしていたわけではないし、家族はあれほど酷くなかったと濁すこともできた。
そうするつもりだったのに。
気づけば本音を吐露して、リュシアーゼルにもどかしそうな、複雑な顔をさせてしまった。
「お嬢様? どうかされましたか?」
無意識に険しい表情になっていたのだろう。心配そうなジャンヌに声をかけられて、ベルティーユは微笑んだ。
「なんでもないわ」
失態を悔いても仕方がない。リュシアーゼルに気にしなくていいと伝えて、終わらせるだけだ。
リュシアーゼルにも伝えたとおり、短い期間の付き合いでこの関係は終わる。ベルティーユはここから去る。どうせあと二年程度の繋がりでしかないのだから、面倒見が良くても、ベルティーユに情が移っていても、そのうち忘れてくれるだろう。
(そう。何も支障はないはず)
ジャンヌに髪を梳かれる感覚にゆったりしていると、ノックの音が聞こえてきた。入室の許可を出せば、まずはドアを開けたテオフィルが、続いてリュシアーゼルが姿を現す。
「おはようございます、ベルティーユ様!」
「おはようございます、テオフィル様」
こちらまで歩いてきたテオフィルの目はキラキラしている。
黒幕たちが捕まったので、今日からテオフィルは自由だ。食堂でベルティーユたちと共に食事をとることになっている。
この日を心待ちにしていたテオフィルのはしゃぎように、リュシアーゼルも柔らかい表情だった。しかし、ベルティーユと目が合うととても真剣な眼差しでこちらを射抜くので、ベルティーユはほんの少しばかり息を呑む。
どう接していいのかわからないような気まずさがリュシアーゼルにないことは一目で理解できた。むしろ何かを決意したような力強さが感じられる。
「おはようございます」
「おはよう」
一瞬の動揺を引っ込めたベルティーユがにっこりと笑みを浮かべて挨拶をしても、彼の表情に変化はない。それが視認できたけれど、リュシアーゼルは「テオ」と穏やかな声で甥を呼ぶ。
「先に食堂に行っておいてくれないか?」
「えー? せっかくベルティーユ様のお迎えに……」
不満そうだったテオフィルは何かに気づいたかのように突然はっとすると、「うん、わかった!」と頷いた。それからジャンヌの手を掴む。
「ジャンヌ、連れてって!」
「かしこまりました」
ジャンヌは戸惑いもなくキリッとした顔つきでテオフィルの要望をあっさり受け入れ、手早く、しかし丁寧にベルティーユに髪飾りをつけて一礼する。
「では失礼いたします」
「来るのはゆっくりでいいからね、叔父上!」
あっという間に二人が出て行って、部屋の中はベルティーユとリュシアーゼルだけになる。
先ほどの反応を見る限り、テオフィルはベルティーユと二人きりになりたいというリュシアーゼルの意図を汲み取ったのだろう。ジャンヌも同様に察して、テオフィルと共に部屋を去った。聡いというのも考えものである。
「ベルティーユ」
案の定、重々しい声で名前を呼ばれた。リュシアーゼルが続ける前に、ベルティーユは先手を打つ。
「昨日は面白くもないお話に長々と付き合わせてしまい、申し訳ありませんでした。どうかお気になさらないでくださいね」
鷹揚に告げると、リュシアーゼルの眉間にしわができた。
「面白くないとか、そういう問題じゃないだろう。もう触れてほしくないのは承知している。だから昨日は口を噤んだ。貴女の希望はなるべく受け入れたいという意思に偽りはないが、一晩よく考えて、やはり今回に関しては無理だと開き直ることにした」
(開き……?)
予想していなかった言葉に、ベルティーユは目を瞬かせた。リュシアーゼルはそのまま続ける。
「泰然とした振る舞いをしているからわかりづらいが、貴女は自己肯定感があまり高くないようだ。というよりは、何事にも期待しないほうが楽だと考える癖がついていると表現するべきか……。その原因がこれまで置かれていた環境なのは疑いようもない」
声こそ荒らげていないものの、どうやらリュシアーゼルはかなり怒っているらしい。
「愛を願うことが贅沢で傲慢と言っていたが、それは間違いだと断言できる。今まで貴女の周りにいた者たちがおかしいだけで、貴女にはなんの非もない。貴女が人からの心を望むのは贅沢でもなんでもないことだ。少なくともユベール公爵家は、ラスペードともドルレアクとも、王家とも違う」
その怒りは、リュシアーゼルが口に出した彼らに向けられている。
あの最低な人たちと比べるまでもない。ユベールは温かい場所だ。先代夫妻の死やテオフィルにかけられた呪い、悲しい出来事が襲いかかってきたけれど、皆で支え合って乗り越えている。
だからこそ、温もりに慣れていないベルティーユには眩しすぎた。居心地がいいからこそ、落ち着かない部分がある。
「私は期間限定とはいえ、いずれ貴女の夫となる者だ。テオや使用人たちも貴女を慕っている。それに、貴女には新しい両親や兄姉もいる。――誰かと共に在る幸福を実感してもらえるように、力を尽くそう」
リュシアーゼルは優しく、けれどどこか挑発的に口角を上げて宣告した。
ベルティーユを養子にしたのは、ラスペード侯爵家からの干渉に対する対策だと思っていたけれど、それだけではなかったらしい。彼は最初から、ベルティーユに『家族』というものを教えるつもりだったのだ。
「そこまでは望んでいません」
「契約で禁止されていない」
確かに、このような心配はしていなかったので契約書には記載していない。
「ベルティーユ。私は貴女が思う以上に義理堅い人間だと思うぞ。甥の命の恩人であれば尚更な」
見通しが甘かった。いくら恩人相手とはいえ、彼がこんなにも情に厚いとは。
「……リュシアーゼル様、お忘れですか? 伯父様たちが引き起こした事件に関して、私は情報源を明らかにしていないのですよ? 事件に無関係とはいえ、そんな怪しい相手にいささか甘すぎるのでは――」
「騙されているとしたら、私に人を見る目がなかったというだけの話だ」
余裕そうな紫の双眸は、騙すつもりなどないのだろうと、こちらを見透かしているかのようだった。
「ひとまず、今はお腹を空かせたテオが待っている。貴女も空腹だろう?」
わずかに目を見開いていたベルティーユに大きな手が差し出される。しばし逡巡したベルティーユだったけれど、無言で彼の手をとった。
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