48.第四章九話(トスチヴァン)
トスチヴァン伯爵がニフィ木について耳にしたのは偶然だった。東方の国で高額で取引されているというその木の真価はこの国ではまだ知られておらず、トスチヴァン伯爵はいち早くニフィ木を国内で探し始めたのである。
ニフィ木が群生しているヴォリュス山を見つけ、オークションに出品されることも耳にした時は、サルドゥ子爵の情報の疎さに思わず高笑いしたものだ。
確実に手に入れられると思っていた。どれほどの利益が出るのか、利益でどんな物を買おうか想像して、とにかく高揚していた。
まさか、あんな小娘に奪われてしまうとは思ってもみなかった。
第二王子有責ではあれど、婚約破棄という不名誉な経歴を持つベルティーユ・ラスペード。レジェ伯爵家に養子入りしたことで現在は伯爵令嬢であり、トスチヴァン伯爵が娘の嫁入り先として狙っていたリュシアーゼルの婚約者の座にまんまと収まった小娘。
まだせいぜい十四、五歳の世間知らずだろうと侮ったのが失敗だった。第二王子の心を掴み損ねたとはいえ、王子妃教育を受けてきた元侯爵令嬢だ。人生経験は浅くとも上流階級の出である以上、教育をきっちり受けている。
あの独特の空気感は、トスチヴァン伯爵にはないものだ。相手を威圧する圧倒的な雰囲気に、トスチヴァン伯爵も娘も気圧されてしまった。
(クソッ!)
ユベール公爵邸からの帰り道で馬車に揺られながら、トスチヴァン伯爵は己の失態を恥じていた。
自分の娘よりも年下の少女に気圧されるなんて屈辱を味わうことなどそうはない。先ほどは突然のことで怯んでしまったけれど、時間が経つにつれてベルティーユへの怒りがふつふつと湧いてきていた。
(小娘が、公爵家の後ろ盾があるからといい気になりおって……ッ!)
しかし、トスチヴァン伯爵からすると手を出しにくい立場にあることは事実である。普段の穏やかな雰囲気とは裏腹によろしくない性格をしているようだし、頭も回りそうだ。簡単にこちらの思いどおりに動いてくれないのは明白だった。
「お父様、どうするのですか」
娘もまた、ベルティーユの豹変への衝撃がようやく抜け、憤りを覚えているらしく、悔しそうにドレスを握りしめている。
「このままではあの女が本当にリュシアーゼル様と結婚してしまいます! それにニフィ木も……!」
「落ち着け」
娘はリュシアーゼルとの婚姻に拘っている。恋愛感情と呼ぶには過激すぎて執着に近い気もするけれど、それもまた恋心なのだろう。トスチヴァン伯爵としてもユベール公爵家との縁は繋いでおきたいので、色んな意味でベルティーユは邪魔な存在だ。
「あの小娘、一週間後にユベール商会の者による視察があると言っていた。商会による管理が始まるともう手出しは難しい」
「諦めるのですか!?」
「そんなわけがないだろう。あれは元々私のものになるはずだった山だ。小娘ごときに奪われたままでいられるものか」
ヴォリュス山が生む金は莫大であり、それを逃すつもりは毛頭ない。
「一週間は猶予がある。その間に価値のない山に見せかければ、ユベール商会も利益が見込めないと手を引くはずだ。小娘も早々に山を売り払うだろう」
「どうするのですか?」
「最近手に入れた植物用の腐食剤があってな。特殊なもので、植物が一定期間腐食するが、徐々に効果が弱くなり元に戻るらしい」
使い道はまだ考えていなかったものの、最近開発されたばかりで貴重なものだという言葉に惹かれ、何かの役にたつかもしれないと手に入れていた腐食剤だ。購入に踏み切った判断は間違っていなかった。天はこちらに味方している。
「なんて画期的な腐食剤なのでしょう! これであの山のニフィ木をボロボロにするということですね!」
「ああ。木が元の状態に回復するまで金にならないのは痛いが、小娘に奪われたままよりはマシだ。いずれは大金が手に入ることだしな」
確実に利益が出る山なのだから、手に入ればいくらでも巻き返すことは可能だろう。
何より、あの生意気な小娘からヴォリュス山を奪い返さなければ。山だけではなく婿候補もだ。
「安心しなさい。お前とユベール公爵の縁談も、私が必ず成立させてやろう」
「絶対ですよ? リュシアーゼル様の婚約者がわたくしではない今の状況さえ不快なのに、よりによってあんな女だなんて許せませんわ! 自分を特別な人間だと勘違いして偉そうにわたくしを貶して……!」
「お前の怒りはもっともだ。どうせ小娘には一時的な贅沢でしかない。その時が来たら思う存分に報復し、正しい立場をわからせてやればいい」
己の勝利を確信して、トスチヴァン伯爵は笑った。
それから数日後のことだ。ご機嫌なトスチヴァン伯爵は、領地のお気に入りのレストランで食事をしていた。
昨日のうちに腐食剤の散布の依頼を済ませており、今日が実行日である。この素晴らしい日を祝うためにレストランに来たのだ。
ステーキを切り分けていたところで近くに誰かが立ち止まり、テーブルに影がさす。店員かと顔を上げて確認すると、その者が警察官の格好をしていたので、トスチヴァン伯爵はぎょっと目を剥いた。
「トスチヴァン伯爵ですね?」
警察官から確認されて、怪訝にしながらも肯定する。
「そうだが、警察がなんの用だ」
「本日、レジェ伯爵令嬢が所有しているヴォリュス山に侵入した者がおりまして。たまたま見回りに来ていたユベール家の者に捕らえられ、通報を受けた我々が逮捕しました。侵入者は山に腐食剤を散布しようと企んでいたようです」
トスチヴァン伯爵はごくりと唾を飲み込んだ。緊張で声が震えそうになるのをなんとか堪える。
「……それが、私に何か関係が?」
「侵入者は貴方に依頼されたと証言しているのですよ」
顔を隠して依頼したのに、正体が見破られていたようだ。依頼したあとにつけられでもしたのだろうかと後悔するが、今更遅い。
この場ではただ、とにかく無関係だと主張するだけである。
「そんなことを依頼して、私に何のメリットがある? 罪を軽くしようとその侵入者がデタラメを言っているだけだろう! 馬鹿げた言い逃れを鵜呑みにするのか?」
「侵入者は四日後に視察が入るからそれまでに散布を完了させろと依頼主に言われたと。レジェ伯爵令嬢の話だと、視察の日程は関係者以外知らないそうですよ」
「だが私は――」
「関係者以外だと、貴方たち親子にしか話していないとのことです」
トスチヴァン伯爵は瞠目した。視察の日程をベルティーユがあっさり漏らしてくれたので、隠していることではないと思い込んでいた。
(あの小娘……ッ!)
ベルティーユはわざと、その情報をトスチヴァン伯爵と娘に伝えたのだ。あのまま諦めずに悪足掻きをすると見越して。
「そんなの証拠でもなんでもない! ユベール商会から情報が漏れたのではないか!?」
「もちろんそちらも捜査しますよ」
淡々と警察官がそう告げる一方で、トスチヴァン伯爵の焦りは大きくなっていく。何か打開する方法はと思考を巡らせていると、警察官は更に続けた。
「それと、貴方には脱税、会社の職員への暴行や脅迫など、他の嫌疑もかかっています」
「なっ……そ、それこそデタラメではないか!」
「これからまた詳しく調べます。捜査にご協力ください」
◇◇◇