一話
「……おい」
「………」
「口がきけないのか」
頭上から、男の怒ったというよりは呆れたという風の溜息が落とされる。どうせ捨てられるなら早い方がいいと思った。
「……わたしを、捨てて。」
「……何故」
「わたしは…厄災をもたらす悪い狐、です」
平安に住まう者ならば、誰もが知っているであろう話。
一度、目に映してしまえば恋焦がれて死ぬ。或いは、平安の世を脅かす恐ろしい狐と。
「……」
「…もう、疲れました。殺して下さい」
優しい言葉に希望を持ち、裏切られ、今回こそは違うと思っても、また同じことの繰り返し。
「だめだ」
「……生かすことが、情けだと思っているのなら、それは、勘違いです」
死ぬ事で安らぎを得られるというのならば、早く私を殺して欲しい。私が死ねば、この地にも平穏が訪れる。
「…それはできない」
「……何故でしょうか」
やはり、人間は分からない。この先どうなるかわかっていながら、私欲の為に私を生かす。
「あいにく、俺に死にたがりを殺める趣味はない」
………というか───。
「そいつらにお前を殺して恨まれたら面倒だ」
…そいつら?
よく見ると、障子の隙間や縁側から小さな妖達がこちらの様子を伺っていた。
「………古来より、金狐は善狐として知られている。それに、そいつらは力が弱い分、本質を見抜くのが得意だ。つまり、そいつらがお前に寄ってくるという事は、そういうことだ」
そんな理由で私を信じるというのか─。
私は平安の世を脅かす狐。それは紛れもない事実だ。
「わたしは、存在するだけで、人を、惑わせます」
「そうはさせない」
根拠があるのかはわからない。
しかし、有無を言わせない何処か説得力がある様な声に、ふと、この男がどんな表情をしているのか気になった。
そこには、満月の夜にも関わらず月の光を吸い込む、どこまでも黒い濡れ羽色の髪と、そこから僅かに覗く、妖狐である私よりもよほど妖しく燦く藍色の瞳でこちらを見下ろす美しい男の顔があった。
その表情は無でありながら、私を映すその瞳に何か得体の知れない、私達に近しいものを感じた。
「俺の名は千歳。多くの者は晴明と私を呼ぶ」
……晴明──?
聞いたことがある。
若干二十五歳にして歴代でも群を抜いて天才と持て囃されている陰陽師──安倍晴明。
「……生きて、なにになりましょう?」
「……さあな。生きてさえいれば、出会いがあり、別れがある。嬉しいこともあれば、悲しいことも、辛いこともある。そういうものだ。その中でお前が何かを見出したいのなら、それは自分で見つけろ。」
「見つからなかったら?」
「その時は、望み通りお前を殺す───。」
──庭には、今となってはどこだったかも分からない、昔の幸せな記憶が詰まった故郷の山桜を思わせる、大きな一本の枝垂れ桜が月明かりに照らされていた。