雨の日ラジオ
雨が降っていた。
アルバイトの帰り道。安いビニール傘を片手にとぼとぼと歩く。足取りは重い。
また、ダメだった。
ネットの小説賞に応募したものの今回も選ばれることはなかった。大学に通っていた頃から八年間、何度となくこういったものに投稿し続けているが、いつも結果は奮わず。
今回は寸評をもらえるところまでいったが、それも代り映えのしないただ一言。
「キャラクター・セリフが弱い」
何度も言われ続けていることだが、どうすれば改善できるのかがずっとわからずにいる。設定を作りこんだりして、自分では色々と試しているつもりなのだが、結局いつもキャラクターやその心情が描ききれない。
もう、諦めたほうがいいのかもしれない。
そう思い始めていた。
子供の頃から小説を読むのが好きで、形に残すことこそしなかったが、自分でも物語を空想するのが好きだった。強いていえば、国語の授業で作文を書かないといけないときに何度かそういうものを書いたことがある程度だった。思い返すと稚拙極まりない内容だったが、ただ空想することが、まるで自分だけの世界を創造するようで楽しかった。
その空想を形にするようになったのは高校生の頃で、はじめはパソコンのキーボード入力の練習のためだった。どうせ練習するのならなにか意味のある文章を打ってみようと思い立ったのがきっかけだ。
それ以来、妄想を文字に起こすことにハマってしまって、元々友人の少なかった僕はなおさら他人と交流しなくなった。それはいまも続いていて、僕には友人も恋人もいない。
人物を――その心情を上手く描くことができない原因はそういうところにあるのかもしれない。そのようなことを考えたりもしたが、しかし、齢二十八にもなると、いまさら形成された人格を変えることなんてそう簡単にはいかない。
取り留めのないことを考えている間に、いつの間にかアパートに着いていた。
アパートのゴミ捨て場の前を横切るとき、いつもなら目にしないようなものが視界に入った気がして、ふと足を止める。
いつものように堆く積まれたゴミ袋、そこから少し離れた地面の上。
薄いピンク色をした小さなラジオが雨に濡れながらこちらを見上げていた。
テーブルに置いたそれは、見た目の割には重い音を立てた。
色々と触ってみたがなんの音も発しない。乾電池で動くタイプのようで、もちろん電池も替えてみたがダメだった。
――あれだけ濡れてりゃ、なあ。
そもそも壊れたから棄てられていたのだとも考えられる。というかその可能性のほうが高いだろう。だとしたら、僕はわざわざガラクタを拾ってきたことになるが、壊れて音が出なくなった様子のラジオにどこか親近感を覚えてしまい、そのガラクタをもう一度捨てにいく気にはなれなかった。
夜。ふと目が覚めた。
視界が真っ暗なことに違和感を覚えた。手さぐりにスマホを探す。
夜中の二時。
こんな時間に目が覚めるなんて。珍しい。
雨が降っているようで、窓の外から聞こえてくる、ざあざあという音は鳴り止む気配もない。
雨音に紛れてなにか、ノイズのような音がした。
無意識に音のほうを見ると、テーブルの上。壊れているはずのラジオの電源ランプが点灯している。
――ねえ。聞いて。
ノイズが消えると、突然、女性の声がした。
「今日、職場で嫌なことがあってさあ。たしかにちょっとミスはしたんだけどさあ。めっちゃ頭ごなしに怒鳴ってくんの。しかも、仕事に関係ないことまで言ってきてさ。ありえなくない?」
なんだ。なんの番組だろう。
いや、それよりもこのラジオ、壊れていたのではなかったか。
ラジオドラマというやつだろうか。それにしては、この声。演技をしているような感じがまるでしない。
滑舌もけっしてよくはなく、甘いやや舌足らずな感じの声はなんというか、素人っぽい。
話している内容も、日常の、極めて個人的なことのようで、ストーリーとしてみるとなんの展開もなく面白味がない。
誰かの電話の音声が公共の電波に乗ってしまった、と言われたほうがしっくりくるような内容だった。しかし、そんなことがあり得るのか?
それに、聞こえてくるのはこの女性の声だけで、間の取り方からして、誰かと話しているのではないように思う。
けれど、女性は誰かに話しかけるような調子で話を続けている。
なにもかも不可解だったが、壊れていたはずのラジオがなぜか動いていることよりも、夜中に独りでに電源がついたことよりも、ガラクタだと思っていたラジオがただ音を発しているということがなんだかうれしかった。自分ももう少しがんばれるのではないか、という気がしたのかもしれない。
その夜は、若い女性がその日あったことの愚痴を話しているのを妙に楽しい気分で聴きながら、再び眠りについた。
翌朝。
ラジオは再び動かなくなっていた。
どこをどう触っても、うんともすんとも言わない。
あれはすべて夢だったのだろうか。
悲しい気持ちでアルバイトに出かけたが、その日の夜中にラジオはまた声を発した。
夜中の二時。また雨が降っていた。
ラジオから聴こえてくるのは、昨日と同じ女性の声だった。
何日かが経って、ラジオがつく日とつかない日があることに気がついた。
どうやら真夜中二時、雨が降っているときにだけ電源がつくらしい。梅雨時だったこともあってラジオが聴ける日は多かった。
ラジオから聴こえる声はいつも同じ女性の声で、だいたい十分くらい一方的に話して、ラジオの電源は勝手に切れた。
選局できるかどうかも試してみたが、こちらからの操作は一切受け付けず勝手に音を発するのみだった。
女性の独り言は、僕からするととてもキラキラして聴こえた。友達と遊びに出かけた話。片想いしている先輩に声をかけられた話。同僚や上司への愚痴でさえも――。
そのほとんどが僕の経験していないことで、僕の抱いたことのない感情だった。なんとかそこから学べることがないかと、雨の日はラジオからの声を待ち望んだ。
女性は例の先輩と少しずつ親密な関係になってきているようだった。
細かなことで一喜一憂する感じが、聴いていてほほえましかった。ひとを好きになるというのはこんな風に感情が動くものなのか。
「……ねえ、聞いて。先輩ね、私以外にも付き合ってるひといるみたい」
あるとき、女性が言った。その声にいつものような明るさはなかった。
「別の部署のひとだった。私たちのこと職場では内緒にしてるみたいだったのって、もしかしたら私たちのことが周囲にバレるのが面倒ってより、彼女とのことが私にバレないようにだったのかも。他のひとに聞いてみたら、先輩と彼女が付き合ってることは結構知ってるひといたみたい」
日を追うごとに、女性の声は暗く翳りを帯びていく。
「先輩、最近全然職場以外で会ってくれなくてさ。話しかけてもすぐどっか行っちゃうし、なんか避けられてる……?」
それでも、その先輩のことを彼女は諦めきれないらしい。
「この前、あのコにさ、先輩と会うのやめてくれないって言いにいったら、先輩にめちゃくちゃ怒られた。なんで……? だって、先輩は私と付き合ってるんだから、って言ったらすごい否定してくるし。なんなの。ここまできて隠すことないのにね……」
たぶん、彼女のほうが先輩にとって遊びだったのだろうと思うが、感情が邪魔をすると冷静な判断ができなくなるらしい。おもしろい。
「ねえ、聞いて! 先輩のほうからひさしぶりに食事に行こうって。あのコとは別れることにしたからって。よかったあ。なんかね。あのコに何回か会って話したんだけど、だんだん私が悪者みたいにされてきててつらかったんだあ。これでようやく元通りだよね。よかったあ」
なんだか嫌な予感がした。
次の雨の日。二時。
雨と車の音。
先輩が運転している車に乗っているようだった。おそらく助手席だろう。二人でどこかに出かけた帰りだろうか。
「ちょっと停めていい?」
初めて男性の声がした。どこか路肩に停めたようだった。
静かだった。あまり車の通らない道らしい。人通りもあまりないのかもしれない。雨音と近くに川か用水路でもあるのか、水の流れる音だけが聴こえる。
「なあ。もういい加減やめてくれないか。キミとはさ、何回か食事に行っただけだろう。それで勘違いさせたなら申し訳なかったけど、彼女にまで嫌がらせみたいな真似するの、もうやめてくれないか」
「……別れようってこと? いやだ。別れたくない。なんでそんなこと言うの?」
どうにも話が噛み合っていない。
「ねえ。私のこと嫌いになった? 私はこんなに先輩のこと想ってるのに! ねえ! なんで!」
争うような声と物音。なんだ。なにが起きている?
そのうち、女性の声が途切れて苦しそうな息とも唸り声ともつかない音だけになった。なにか言おうとしているのに声を発することができないような。
「……く、くるし……たす、け……」
かろうじて聞き取れたのはそれだけだった。
静かだった。雨音と水の流れる音の他には、聴こえてくるのは男性の荒い息遣いだけ。
しばらくして、車のドアを開け閉めする音がした。少ししてからもう一度ドアの開く音。
なにかある程度の重さのあるものが、水に落ちるような音がした。
ラジオの電源が落ちた。
一体、なんだったのだろう。なにが起きたのかは大体わかった気がした。わかった気はしたが、頭が追い付かない。いや、感情が理解するのを拒んでいる。
愛着すら湧いていたラジオがなにか不吉なもののように感じられて。いますぐにでも捨ててこようと思った。
起き上がってラジオを掴む。持ち上げようとして転びそうになった。
持ち上がらない。ゴミ捨て場から拾ってきたときと明らかに重さが違う。
背筋を冷たいものが走った。
とにかくこの場を離れよう。ラジオから手を離そうとして、手が離れないことに気がついた。
なんで。
見ると、なにか黒い糸状のものが手に絡みついている。
ラジオの電源ランプが再び、点灯した。
そこから発せられた声は、初めてこちらに話しかけてくるような色を帯びていた。
――ねえ。聴いて。
――ねえ。
――聴こえてるんでしょ。