豊海、五感を磨く
キツネとの旅路は安全だった。それまでの豊海は、何度も危険な目に遭った。時には大きな獣に出会い、時には切り立った崖に苦しめられた。ある時は人の声が聞こえたと喜んだ。しかしそれは山賊の声で、村を襲う計画を聞いて肝を冷やしたものだ。
多い時は日に三度も危険に遭遇する。そんな日々だったのに、キツネと連れ立ってからは一度も危険な目に遭っていない。三日経った今も、困難など何一つなかった。
「まるでお前は危険を察知できるようだな」
ある時、豊海は思いついたままに言ってみた。するとキツネはカラカラ笑った。
「私は不運の音が聞こえるのですよ。その声を聞いていると、危険が迫っていることを知ることができるのです」
これを聞いて、豊海は目を丸くした。
「どうしたら不運の音は聞けるのだ?」
「じっと耳を澄ませることです。耳だけでなく、心も澄ませましょう。心も澄ませることで、不運の音を聞くことができますよ」
それから豊海は、毎日じっと耳を澄ませた。最初は何も聞こえなかった。しかし心も澄ませるようになってからは、少しずつ不運の音が聞けるようになった。
不運の音が聞こえるようになってからは、豊海が道先を決めた。女は豊海がどこに向かっても文句一つ言わず、黙ってついてきた。
時折大きな獣に遭遇することもあったが、狩りの腕が上がった豊海は、逆に獲物として狩ることができた。こうして無事に旅を続けることができた。
さて、キツネは狩りも上手だが、水を見つけるのも上手だった。歩いていると、突然「水を飲みませんか?」と豊海を誘う。しかし水音も匂いも一切感じられない。いつも耳を澄ませてみるが、あまりの静けさに葉の擦れる音しか聞こえないほどだ。
最初は半信半疑で従った豊海だが、キツネが行く先には必ず水がある。豊海にはそれが不思議でならなかった。
「俺は海辺で育ったので、水の匂いはわかるつもりだ。しかしなぜお前はそんなに早く水を見つけることができるのだ?」
ある時、豊海は思いついたままに言ってみた。するとキツネはカラカラ笑った。
「私は生命の匂いを嗅ぎ取ることができるのですよ。その匂いを嗅いでいると、どこに水や薬草があるかを知ることができるのです」
これを聞いて、豊海は目を丸くした。
「どうしたら生命の匂いを嗅ぎ取れるのだ?」
「じっと鼻を澄ませることです。鼻だけでなく、心も澄ませましょう。心も澄ませることで、生命の匂いを嗅ぐことができますよ」
それから豊海は、毎日じっと鼻を澄ませた。最初は何も嗅げなかった。しかし心も澄ませるようになってからは、少しずつ生命の匂いが嗅げるようになった。
生命の匂いが嗅ぎ取れるようになってからは、豊海が休憩時間を決めた。それまでは水場があったら休憩と定め、キツネの采配に任せていた。キツネは豊海がいつ休んでも何を文句を言わず、黙って休んだ。
時折水場に出会えないこともあったが、木の汁を飲んで喉を潤した。木の汁は栄養豊富で、飲むほどに力が湧く。汁の出る木を探す時にも、鼻が大いに役立った。こうして無事に旅を続けることができた。
そんな旅が一か月ほど経った頃。食事中に、キツネが焦点の定まらない目で告げた。
「そろそろ都が近いですね。身なりを整えねばなりません。山を下りてすぐの村で、身支度を整えましょう」
周囲を見まわしてみたが、豊海の目には都どころか村すら見えない。しかしキツネの口ぶりは、全てを知るかのようである。
豊海は不思議に思ったが、翌日の昼前には山を抜け、ふもとの村へとやってきた。そこでキツネが必要としたものはすべて揃い、豊海は身なりを整えることができた。キツネが多少の金を持っていたので、豊海も立派に着飾ることができた。身なりを整えた豊海は、都にふさわしい人物に見えた。
「お前はあの村に来たことがあるのか?」
山沿いの村を出てから、豊海が尋ねた。
「いいえ。あなたに会ったあの山からこちらの方には、一切来ていませんよ」
「ではなぜあの村の存在を知っていた? まるで見知った村のように語っていたではないか。そこに住んでいたかのごとく、店の配置まで熟知していたではないか」
キツネはカラカラと笑った。
「私は見えぬものを見ることができるのですよ。そのおかげで、遠くの景色やまだ見ぬ未来が見えてくるのです」
これを聞いて、豊海は目を丸くした。
「どうしたら見えぬものが見られるのだ?」
「じっと目を澄ませることです。目だけでなく、心も澄ませましょう。心も澄ませることで、本来見えぬものも見えてきますよ」
それから豊海は、毎日じっと目を澄ませた。最初は何も見えなかった。しかし心も澄ませるようになってからは、少しずつ何かが見えるようになった。だが見えたものはほとんど役に立たなかった。一瞬でも見えればいい方。ほとんどが形を失い、色だけがぼんやりと視界に重なるようだった。豊海は何度も試したが、目だけは思うように操ることができない。キツネに相談しても「いつかできるでしょう」とカラカラ笑うばかり。
そうこうしているうちに、二人は都へ到着した。都に着くと、豊海は目が使う必要性がなくなった。




