太郎、女に出会う
満月の美しい夜だった。夜道も明るく、太郎はどこまでも進むことができた。
夜通し歩いたおかげで、翌朝には村人たちがめったに通らない遠くまで来ることができた。
太郎自身、こんなところまで来るのは初めてだった。夢中だったので景色や方角を気にしていなかった。しかし明るくなると、急に道中が不安になった。
このまま進んでよいのか? あちこちキョロキョロしながらも、太郎は道なりに進んだ。
海育ちの太郎にとって、山道は人生初だった。太郎の村周辺に山はない。海ばかり見て暮らす太郎にとって、山にあるものはすべてが珍しい。木々や動植物、すべてが何かもわからない。
さて、太郎の持ち物だが、ごく簡単なものだった。いつも使っている釣竿に、魚をさばくための小刀。いつでも使えるようにと、まるで刀のように小刀を帯に差した。もちろん食べ物などは、何も持っていない。
ふと太郎は腹がキュンと鳴った。思えば、昨晩からろくなものを食べていない。太郎の胃はキュンキュン痛み出した。この痛みが致命傷とはならないが、長く続けば死んでしまいそうだ。
太郎は食べられそうなものを探した。山の生き物に詳しくない太郎だが、村にも生えている木の実を見つけた。もいで食べると、あまりの渋さに吐き出してしまった。喉の渇きもひどかったが、木の実のせいで、さらに水が欲しくなった。
山中をさまよっていると、水の流れる音が聞こえた。音のする方へ行くと、小川に出会えた。おかげで、なんとか水を確保できた。釣りをすることで、なんとか食料も得た。見たこともない、ひどく泥臭い魚だったが、太郎にとっては一番食べ馴染みがある食料だった。
太郎は川沿いに進んだ。川沿いに歩けば、少なくとも食料にはありつける。しかし、途中で川が途切れることがある。ガケや滝に行き当たった時は、別の道を探した。その度に、空きっ腹がキリリと痛む。
川を見つけた日は天国だ。しかし川がない日は、空きっ腹を抱え一日中歩くことになった。気休めで食べる木の実の渋さには、いつまで経っても慣れない。
そんな様子で太郎の旅は続いた。山を抜けると、また山がある。都があると思われる方向に向かって歩いてきたが、ちっとも都が見える気配はない。村を出て六日目、ようやく見つけた村で方向の確認はできたが、このまま進んでいいか不安になる。
不安なまま山中を歩いていると、一匹の狐が太郎の前に飛び出した。ただでさえ動物を見慣れない太郎は驚いた。遠目で見たことはあったが、獣が自ら姿を現すのは初めてだったのだ。
そんな太郎の動揺を知ってか知らずか、狐は元来た方へ戻ってしまった。よく見ると、藪の奥に、うっすらと獣道がある。
普段なら見過ごすが、なんだか気になる。このまま進んでいいか迷う太郎にとっては、狐が何か導きに思えた。太郎は狐を追いかけることにした。
藪を抜けると、苔むした大岩に女が座っていた。
女の顔を見た瞬間、太郎の心臓はドキリと跳ねた。女は見たこともない顔をしていた。おそらくこの国の人間ではないだろう。白い肌に、切れ長で涼しげな目元。顔も身体もスラリと細い。見慣れない衣服を着ていたが、かなり上等なのがわかる。おそらく白かったであろう着物はすっかり土気色になっているが、女の優美さは一向に薄れない。
よく見ると、女の足元に、先ほどの狐が寄り添っていた。
「なんだ、ここにいたのか」
太郎がつぶやくと、女がこちらを見た。声を聞き、太郎に気づいたようだ。太郎を見る目は星空を切り取ったようで、見つめられると不思議な感覚に陥った。
「ああ、違う、そこのそいつに言ったのだ」
太郎は狐を指さした。
「ああ、この子のことですか」
女はカラカラと笑った。鈴が鳴ったような、聞いていて心地よい声だった。
「お前は何をしているんだ? ここは女が一人でいるような場所ではない」
太郎が尋ねると、女はか細い声で答えた。
「なに、大した理由はありません。戦火を逃れ、やってきた先が、ここだったというだけです」
「お前はどこから来たんだ? まさか都ではないだろうな」
もし都だったら、行く意味がない。太郎は願うような思いで尋ねた。
「都がどこかは存じませんが、違います。私は大陸より参りました」
太郎は大陸がどこにあるのか知らなかったが、都ではないと知り安心した。
「あなた様は都という所へ行かれるのですか?」
「そうだが、お前はどこへ行くのだ?」
「私はどこにも向かっておりません。ただ自分の運命に従うだけですわ」
「そうか」
「あなた様の行く都とは、どんな場所なのでしょう?」
「俺も行ったことがないから詳しく知らないが、この国で一番の場所だと聞く。少なくとも俺の村よりは栄えているだろうし、代官になったら豊かな暮らしができるだろう」
「面白そうな場所ですね。よろしければ、私もお供してよろしいでしょうか?」
太郎は迷ったが、一人で山中を歩くのも味気ない。道連れがあった方が旅は面白くなると思い、女の同行を承諾した。
「時にお前、名前は何という?」
女は足元でくつろぐ狐を見た。
「キツネと申します」
「ずいぶん面白い名前をしているな」太郎は笑った。
この時の太郎は、狐という名の獣がいること知らなかったのである。
「あなた様のお名前は、なんと仰るのですか?」
「私は太郎だ」
「太郎とは、どういう意味なのでしょうか?」
「長男という意味だな。男児という意味だ」
それを聞き、女は顔を横に振った。
「あなた様にはそぐわない名前ですね」
呼ばれ慣れた名を否定されて、太郎はムッとした。思わず腰に下げた小刀を振りかざすところだった。
「あなた様のように大成する方には、物足りない名前と存じます。都に行く前に、ふさわしいお名前を変えてはいかがでしょうか?」
理由を聞き、もっともだと納得した太郎。
「では。どのような名前がいいんだ?」
「失礼ですが、なぜあなたは釣り竿持ちなのですか?」
「私は村で、毎日魚を釣って暮らしていた。だから都で暮らす時に魚釣りができるようにと持ってきたのだ」
「なるほど。それでは、豊海というお名前にしてはいかがでしょう」
「ホウカイとは、どういう意味だ?」
「豊かな海という意味でございます。地元の海を褒め称えるだけでなく、心の豊かさと懐の深さを示す名前でございます」
「そうか、それは確かにいい名だ。これから私は豊海と名乗ろう」
こうして太郎は豊海と名を変えることになった。




