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日曜日の夕方

作者: 松ハル

日曜日の夕方に部屋でビールを飲んでいると見知らぬ男が入ってきた。


男は現場を長年続けてきたベテラン刑事のようなからだに馴染んだ背広を着ていて、シャツもそれなりに年季が入っている。ネクタイは首のところで飾り程度にゆるく結ばれていて、髪の毛は中途半端に薄く長い。見たところ50半ばといったところだろうか。

男は部屋に入ってくると、「やはりここでしたか」と言って、遠慮するふうもなくテーブルを挟んで僕の向いに座ると、「いやあ、あなたは正直者だ。よかった。実によかった。探す手間がはぶけましたよ」と言った。

男はそこで僕が何かを言うと思ったのか、ひと息つくように椅子に深く腰かけて僕の言葉を待っていた。しかし僕は何も言わなかった。男は僕が何も言わないでいるのを見届けると、ひとりで何かを納得したようにテーブルの上で両手を組んで話しはじめた。


「まったく。今日は出るのが少し遅れましてね。ええ、もうそりゃ大変でしたよ。家の者がとつぜん怒りはじめるものだから、わたしもついムキになって言い返すとこのありさまです。まあでも、こういうことは長い結婚生活ではめずらしいことでもないんですね。よくあることです。だってあなた考えてもごらんなさい。たまたま出会ったふたりがある日を境にして、ひとつ屋根の下で暮らしていくわけです。もちろん最初はお互いに共感できることを見出しては喜ぶわけですけど。しかしこんどはこの近さがよくないのですね。これだけ近くにいるとどうしてもお互いの差と言いますか、違いを意識してしまうのですね。これはつらい。結婚生活の要諦はそのふたりの間の差異を楽しむことに尽きます。あ、そうだ。ひとつ確認するのを忘れていました。時計はどこですか?」


僕は男の後ろの壁を指さした。


「なるほど。少し早かったですか。わたしの計算だと5時28分30秒だとふんでいたのですが、出るのが遅かったせいか途中を頑張り過ぎたかもしれませんね。ああ、いけない。年をとるとなかなか思うようにいかないものです。よわりましたね。どうしましょうか。わたしは時間をつぶすというのが生まれつき苦手でして、その、なにかご存じですかね? 時間をつぶす方法とやらを?」そう言って男は僕の目をのぞきこんだ。


僕はドアを指さして「鍵かかっていませんでしたか?」とたずねた。

男は僕の指さしたほうを見て、それから姿勢を正して僕を見た。


「入ろうと思えば入れるものです。気持ちの問題です」と言った。

「それよりもいけませんね、あなた。こうしてお客が目の前にいるというのにひとりでお酒を飲むというのはどうも気が利かない。そう思いませんか?」

「すみません」と言って、僕は男に頭を下げた。

「よろしい。わたしは人の失敗に寛大なのです。人は失敗するものです。失敗をかさねて成長するものです。かくいう私もこれまで散々いろんな方面で失敗をかさねてきたものですが、どういうわけか私の失敗は失敗のままで終ってしまうのですね。なかなか日の目を見ることがない。いや、本当ですよ、あなた。私はこれまでに1度としておいしい思いをしたことがない……ところであなた、ビールはどこにありますか?」

「冷蔵庫に入っていますが…」

「よろしい」男はそう言うと立ち上がって、僕の顔から目を離さずにゆっくりと慎重に冷蔵庫に近づいていった。冷蔵庫の中には2、3本のよく冷えた缶ビールが入っていた。男は缶ビールを2本とハムをスライスしたものを持ってきた。

「準備がいい。よく冷えている」男はそう言って、缶ビールを1本僕に渡して「さあどうぞ。お飲みなさい」と、自分の分のプルタブをあけ、ひといきに飲み干した。

「失礼。今何時ですか?」

「30分くらいです」

「くらいじゃなくて、もっと正確に!」

男はいきなり声を荒げた。これは僕のミスだった。この年代の人は特に時間にきびしいことを忘れていた。

僕は気を取り直して「29分を20秒過ぎたあたりでしょうか。そろそろ30分になります」とこたえた。

「よろしい。あと30秒ですね。ではもうひとつ頂きましょうか」男はそう言うと、席を立って冷蔵庫からもう1本取りだして、その場であけて飲んだ。

「ふう。私はビールが好きなんですね。ビールが無い世の中なんてまるで穴の空いた風船です」

「どういうことですか?」

「つまり、とてもつまらない」

いまいちなたとえだけど、僕はうなづいてビールを飲んだ。

「よろしい。理解は行為を批評できる人間にしか与えられないのです。ところであなたは自分という人間がわかっていますか?」

「さあ。どうでしょう」と僕は言った。

「あまり考えたこともないのですが、実感から言えばよくわかっていないような気がします。ただ―」

「ただ?」

「わかったところでどうにかなるとも思えないのですが」

「その通り。ところで今は何時です?」

「30分になりました。10秒ほど過ぎたでしょうか」

「よろしい。でははじめましょう」男はそう言うと、口もとについた泡を手でふきとった。それから肩をほぐすようにゆっくりと首をひねると姿勢を正してまっすぐに僕を見た。


「私はかつてひとりの女性を愛していました。私にはもったいないくらい賢くてチャーミングな笑顔の似合う女性です。私は彼女に結婚したいと言っいました。彼女も私と結婚したいと言ってくれましてね。そりゃあもう彼女の返事を聞いたときは、今でも忘れることができないくらいびっくりしたのを覚えていますよ。驚きのあまり嘘じゃないですよね? と彼女にたずねてしまったのですが、彼女は笑って、そんな嘘つきませんよと言ってくれましてね。ええ、それはもう幸福でした。彼女が私を受け入れてくれたと思うと、これから先どんなことでも乗り越えていけそうな気がしたものです」

男はここまで話すと自分の言ったことを確認するように静かになった。それから少しして「ここまではよろしいですか?」と言った。

「はい」と僕は言った。「つづけてください」


「しかし数日すると私はこわくなったのです。私のような人間がこれほどの幸せを手にしていいのだろうか? 彼女の幸せを私は約束することができるのだろうか? と。その思いは日を追うごとに強くなってきましてね。彼女は私にとってひとりの愛する女性であるのと同時にひとつの夢でもあったのです。私は自分の幸せがこわくなったのです。つまり、その―」

と言ったところで男は言葉をきった。僕は男がつづきを話すのを待った。


「信じられなくなったのです。彼女や彼女をつつむ世界までもが私には信じられなくなってしまったのです」

「相手の方はお困りになったのでは?」

「ええ。彼女はちゃんとした人でしたから。心配して毎日のように私を家までたずねてきてくれたのですが、私は一度として彼女と会おうとしなかったのです。そればかりか私は彼女がたずねてくると暴力的な衝動を感じるようになってきたのです


「人間はとても弱い生きものです。自分を見失うのにそれほど時間はかかりません。彼女がたずねてくるようになってひと月が過ぎようとしていたある週末に、私は気分を切り替えようとして朝早く公園に出かけたのです。前の晩に降った雨が草木の葉に滴として残っていました。鳥の鳴き声がどこからともなく聴こえてきますし、池では6羽のアヒルがゆっくりと群れをなして泳いでいます。私は自分がずいぶんと長いあいだそういう光景から遠ざかっていたのだと感じました。凍りついていた心がゆっくりとほぐれていくのを感じました。私は池のまわりを歩きながらこのひと月の自分というものを思い出し、言いようのない後悔と救いようのない自分の愚かさにようやく気づくことができたのです。私は家に帰ったらさっそく彼女に連絡を取ろうと思い帰りを急ごうとしたときです。池の縁になにか服のようなものが浮いているなと思い近づいてみると彼女がそこに浮かんでいたのです」

僕は何かを言おうとした。しかし何を言えばいいのかわからなかった。

「わたしが殺したのです」

「え?」

「前の晩にわたしが彼女を殺していたのです」


男の目は雨のように哀しかった。僕は何も言わないでいた。時計は5時31分を15秒ほどまわったところだった。夕焼けが窓から薄く差し込んでいる。かつては2人で見ていた光景だ。


「わたしは今でも彼女を愛しているのです」

誰だか知らない指揮者のオーケストラはとっくに演奏を終えていた。

僕は男にもう1本ビールを進めたが、男は首を振って断った。

「哀しい話ですね」と僕は言った。

「ええ。たいていの人は大切にしている話のひとつやふたつはあるものです」と男は言った。

「そうして時間をかさねればかさねるほど、それらの話はみずからを語ろうとします。しかし傷口はいっこうに塞がろうとしない」


「お構いできずに」

「慣れたものです」

男はそう言うと、小さな笑顔を残して出ていった。

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