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パンの耳

作者: John

自動車産業などの工業化が盛況を見せていくデトロイト。パン屋の主バーナードは腕によりをかけたパンで町の住民の舌を唸らせていた。通りに面した壁はガラス張りにしてトレイに盛られた焼きたてのパンが陳列され町民の購買意識をそそり店は繁盛していた。とある日から身なりのみすぼらしい少年がパンの耳だけを買いに毎日やって来るようになった。襟は薄茶け擦り切れており、ズボンもあちこち繕った跡が見られかなりはきふるしていると思われた。少年は言った。「豚の餌にするんです」それが何ヶ月も続いた。バーナードはある日少年に聞いた。「君の家はペットで豚を飼っているのかい?」少年は言った。「いいえ、養豚場を父さんが営んでいるんです」バーナードは不自然に思った。この少年が買う耳の量は豚一頭分くらいだ。もしくはそれにも満たないかもしれない。そんなに飼育している頭数が少ない養豚場も無かろう。次の日も少年がやって来た。少年がパンの耳だけを買い帰路に向かう。バーナードは妻に店番を頼み少年の後を追う。少年は舗装されていないでこぼこの路をとぼとぼと、そして黙々と歩いて行く。野に咲く花や空を飛ぶ虫みも目もくれずに。途中、足を止めて同年代の少年達が空き地でゴムボールで遊んでいるのを羨ましそうに眺めていたのが印象的だった。。25分くらいすると少年はある一軒の貧家に入っていった。家は地震でもあれば即座に倒壊でもしそうな老朽化ぶりであった。斜めに傾き窓枠は歪み割れたガラス窓はダンボールで応急処置が施されていた。猫の額ほどの広さの手入れの行き届いていない荒れ果てた庭があった。豚を飼っているような気配は一向に感じられなかった。バーナードは近所の家を一軒一軒と訪ねて少年の家の身の上を尋ねた。その訪ねた家先の人々が皆口を揃えて言う。父親が不治の病で寝込んでいて母親が僅かばかりの内職で食い扶持を繋いでいるようであると皆は言う。近所の人々も助け合い色々と手を施してはいるようであるが少年の母親が気丈な人だそうで僅かな施しを謙虚に有り難く受け取るもののそれ以上は決して受け取るような事は無かったそうである。バーナードは母親にも人としての尊厳があるのであろうと悟った。だから25分もかかる自分のパン屋まで少年をお使いに出し少年に豚を飼っていると言わせているのかもしれないと思った。次の日も少年がやって来た。「やあ、我が親愛なるお得意さん」とバーナードは少年に微笑んだ。少年もちょっとはにかんだように笑った。少年はいつものようにパンの耳だけを注文する。バーナードは「これ、昨日の売れ残りのバターロールなんだけどおじさんの家だけでは食べきれないから君と君のご家族で食べてくれないかな」と言ってバターロールを少年に持たせた。だが、そのバターロールは前日の売れ残りではなくその日の朝に焼かれたパンだった。少年は嬉しそうに「ありがとう、おじさん」と言って帰路に着く。次の日も少年はパンの耳を買いにやって来た。バーナードは「昨日はコーンブレッドが残っちゃってね。また食べてもらえるとおじさん有り難いんだけど」と少年にコーンブレッドを持たせた。そのコーンブレッドも少年や彼の父親や母親の事を思って丹念にその日の朝に焼かれたパンであった。次の日も、またあくる日もバーナードは少年にパンを持たせた。少年は健気に「ありがとう、おじさん」と微笑んで帰路に着く。バーナードは嬉しかった。貧困にもくじけずにいつも賢明に立ち向かっている少年の笑顔が見られる事を。そんな日々が7年あるいは8年だろうか。バーナードと少年の交流は続いた。だが、バーナードは決して少年に込み入った話は聞こうとしなかった。ただ「昨日の残りのパンだから」とだけ言って少年にパンを持たせるだけだった。とある日を境に少年は店に姿を見せなくなった。バーナードは思った。少年も今や少年ではなくなり青年となった。彼も進学か就職で新天地へ身を移したのだろう。彼が幸せでいてくれたらと願い余計な詮索はせずに身の上を案じた。それからほどなくしてである。ある問題がバーナードの住む地域にも深刻な問題として浮上して来た。工業排水が大地を汚し始めたのである。土壌汚染や地下水汚染で土地を出て行く人も現れ始めた。バーナードの店も売り上げが落ち始めていたがそれよりも皆が口にするパンを汚染された地下水で作らなければならないという苦悩に板挟みになった。葛藤の末に店をたたむ決意をした。店を作る際にこしらえた借金がまだ残っていたがこんな環境で人が口にするパンを作る事はバーナードには出来なかった。土地も汚染されているので出て行く事も考えた。だが、行くあてもなく借金もあるので残って日雇いの労働者として再起を図る事を決意する。2年程経過し少年の家の前を通る事があった。見ればすぐに廃屋と解った。人の気配も無く屋根は落ち虚しくその家は佇んでいた。バーナードは思う。少年は元気で頑張っているだろうか?父親と母親と3人の実を案じていた。それから5年10年と身を粉にして踏ん張っていたがバーナードと妻は土壌汚染に侵食され身体を蝕まれていった。バーナードは働くこともままならず徐々に貯蓄も底を突いていった。生活保護を受給し慎ましい暮らしを余儀なくされる。土壌汚染を引き起こした企業とも集団民事訴訟を起こして係争中だが企業は大金を払って大弁護団を結成しているのに対し住民側はその費用からも雇える弁護士はたかが知れておりその資金力と力の差は歴然だった。バーナードは日に日に痩せ衰えて行き過去の溌剌としていた頃の容姿は鳴りを潜めていた。バーナードはそんな自分を悲観していなかった。自己憐憫に浸る事も無かった。確かに企業への怒りはある。自分はそれほど出来た人間ではないだろうが困っている人には自分の出来る範囲内で尽くしたという自負もある。だが善い行いをしても報われない人々は自分以外にも沢山いる。神は万人に平等ではない事も自分なりに理解している。あの少年だってそうじゃないか。好き好んで貧しい生活を送っていた訳じゃ無い。バーナードはこれも宿命として受け止める事にしていた。日に日に倦怠感から調理や掃除も億劫になり二人の笑顔も少なくなっていった。その日もバーナードと妻は身を寄せ合うように休んでいた。玄関の呼び鈴が鳴った。今日は福祉課の職員が訪問の日ではないはずだ。近所の人が心配して様子を見に来てくれたのだろうと思った。玄関を開くとダークグレーの三つボタンのスーツを着た身なりの小ざっぱりした30代と思わしき男性が花束とスーパーの買い物袋を手にして立っていた。青年の表情は温かみのある感じだったがどことなく落ち着きがないように立っていた。「ご無沙汰しております。僕の事覚えていただいているでしょうか?」と尋ねて来た。バーナードはその顔を見間違えるはずがなかった。あどけない少年の表情から精悍な大人の男性の顔つきに変貌していたが。「もちろん覚えているよ。おじさんは君に名前を聞いた事は一度も無かったね。良かったら名前を聞かせてもらえるかい?」とバーナードは嬉しそうに言った。「はい、ロバート ベックと申します」と彼は言った。「そうか、君はロバートって名前だったんだね。ロバート、もし時間が許すなら少しお茶でも飲んでいかないかい?」とバーナードはロバートを招いた。「もし、お邪魔じゃないようでしたら」とロバートは控え目に言った。バーナードは家内にロバートを招き入れると寝室から妻が誰か来たのだろうと起き上がって来た。彼女もロバートの事を覚えていて嬉しそうだった。「これ、もしよろしければ」と照れ臭そうにロバートは言って花束とスーパーの買い物袋をバーナード舘に手渡す。スーパーの袋の中は卵やミルク。ミネラルウォーターやパスタやコーンビーフ。そしてロバートの住んでいる街の評判のパン屋のコーンブレッドやピザトーストなど調理にもあまり手間がかからないような物ばかりだった。ロバートはバーナード夫妻が身体を患っている事を事前に知っていた。その事からの配慮だった。花束はピンクのガーベラとかすみそうがアレンジされた花束だった。それは花言葉で感謝と言う意味だった。「気を使わせて済まない。ありがとう、ロバート。」と言ってバーナード達は感恩しそれらの品を受け取った。妻が備蓄している汚染されていない水をケトルに移しレンジにかける。バーナードがリヴィングのソファーにロバートを誘導し腰を掛ける。湯が沸きコーヒーを妻が入れ彼女もバーナードの横に腰を掛けた。ロバートが言った。今日、こちらにお邪魔させていただいたのもニュースでこちらの土壌汚染の係争中の裁判を知りました。「子供の頃にアンダーソンさんのパン屋でいつもパンを頂いていた事を忘れた事はありません。私の思い出の味です。とても美味しかった。それでニュースを見てアンダーソンご夫妻の事が気になって先日こちらに来てパン屋さんに出向いたのですが店は閉ざされていました。近所の方にお話しをお尋ねしたところアンダーソンご夫妻が体調を崩されているとの事をお聞きしました。それで一目だけでもお会いしたいと今日こちらにお邪魔させて頂いたのです」バーナードと妻は報われた。昔、自分が人助けと思ってした行為にたいして恩義を感じて自分達の境遇を機にかけてくれている少年がこうやって会いに来てくれた事を。それから45分くらいだろうか。バーナードと妻とロバートは最近のバーナード達の体調や裁判の事を話した。バーナードはロバートの身の上の事も気になったが本人から語られるまでは自分の方から詮索するのも気が咎めたので何も聞こうとはしなかった。ロバートも何も自分からは語ろうとはしなかった。そしてロバートはバーナードと彼女の体調を気遣い「長居しました。そろそろ御暇させていただきます」と言った。バーナードと妻はまだもう少しロバートと語りたかったが引き留めるのも何なので「今日はありがとう、ロバート。とても嬉しかったよ」と言って握手した。そしてロバートを見送りに皆で玄関に向かった。外に出て車の運転席のドアの所でロバートが言った。「また絶対に会いに来ます。その日までお身体を労ってお力をお出しください」そう言ってロバートはバーナードと彼女とハグし車に乗り込んで走り去って行った。バーナードと妻は車が見えなくなるまで見送った。夕刻に郵便配達人が来た気配がした。妻がポストに郵便物を取りに行った。寝室に戻りバーナードと目を通す。一通は葉書でバーナードと訴訟を起こしている友人からの物であった。バーナード達の体調を気遣う文面で妻と後で返事を書こうと申し合わせた。もう一通は封筒に入っていた。表書きには「親愛なるアンダーソンご夫妻へ」と記してあった。裏書は何も記されてなく送り主は解らなかった。封を開き中身を取り出す。便箋と共にもう一つ封筒が入っていた。妻が声に出して便箋を読んだ。「このような形でこれを受け取りご気分を害されたならば私の失礼をお許しください。私は少年時代に家柄の貧しさを恥入りアンダーソンさんに嘘をつきました。でもアンダーソンさんは私の嘘を見破り毎日美味しいパンを私に善意で持たせてくれました。母は私に言っていました。『このパンは残り物ではなくパンの耳しか買えない我が家の事を不憫に思って持たせてくれてるんだよ。気を使わせまいと残り物だと言ってくださっているんだよ。ロバート、もし大きくなったらアンダーソンさんや私達家族に良くしていただいた方達に恩返しが出来る人間になるんだよ』母は私にそう言い聞かせてくれました。私の母の思い出の味はパンの耳で作ってくれたフレンチトーストやラスクです。それらも元はアンダーソンさんが焼いてくれていたパンですし、バターロールやコーンブレッド、クロワッサン、アンダーソンさんが私に持たせてくれた数えきれないくらいの美味しかったパンも私の思い出の味です。父が14の時に病気で他界しました。翌年、後を追うように母が卒中で急逝してしまい私はクリーヴランドの遠縁の家に引き取られました。私なりに努力し貿易会社で身を起こしそれも軌道に乗り蓄えも出来ました。今、亡くなった父や母の分まで改めて謝意を伝えさせてください。その節はアンダーソンさんご夫妻の善意に甘えさせていただきありがとうございました。今、母の言いつけに従うべき頂いた御恩を幾ばくかでもお返しさせてください。直接お渡しすると受け取っていただけないかもしれないと思いこのような方法での御恩返し。重ね重ねお許しください。これをアンダーソンさんにお役立ていただけたら私もこれまで頑張って来た甲斐があったと思います。また絶対に会いに来ますのでその時までお元気でいてください。ロバート ベック」バーナードと妻は万感胸に迫る。中に入っていた封筒を開くと額面10万ドルの小切手が入っていた。

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