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正常な人

 結局、包丁を振るうことなく私はパートを辞めてしまった。人生における何度目の挫折かわからない。


 私が物語の登場人物であれば、山本さんを刺し殺すついでに、お婆さんで試し切りのひとつでもするところだろう。だけど、私の理性が強く歯止めをかけてくる。私はどこまで行っても、どうしようもなく一般人で常識人だ。お守りの包丁も、ちょっと人とは違う自分に酔っていただけだ。バカバカしい。


 本当にこの世はバカばかりだ。もしくは私がバカなのか。どちらにせよ結論は変わらない。私が社会に馴染めないと言うことだ。東京でも京都でも生きづらかった。たった二例で一般化するなんてバカのすることだろう。やっぱり私はバカだ。包丁をお守りにして社会に忍びこもうとしたけれど、失敗した。バカなりに知恵を絞ったつもりだった。なにがライフハックだ。殺す気概もないくせに、いつでも殺せるなんて本当にバカだった。


 八月の真夏日、太陽がアスファルトを焦がしている。私はと言えば、久しぶりに桂川の河川敷にやってきた。以前と変わらず、橋がでんでんとリズムよく鳴っている。橋の下には、野良お婆さんが座っていた。日に焼けたのか垢なのか、以前よりも黒さが増している。熱中症になりそうな暑さのなか、胡乱な目ひとつで私を威嚇している。


 この誰も彼もを警戒し、敵だと見なしているような、お婆さんにこそ、この包丁は相応しい。

「おばさん、これあげる」

「なんやー!あっちいかんかー!」

 お婆さんは気だるげに手を振り払った。相変わらずの塩対応だ。それでこそ、このお守りを託す価値がある。バッグの中の黒いグリップを持ってお婆さんに向けて放り投げた。

 包丁は地面に転がって金属音を響かせた。切っ先がお婆さんの方を向いて、包丁は大人しくなった。

「な、なんやー!」

 お婆さんは包丁を見て少し怯んだように見えた。それを見て少し満足した私は踵を返した。




 あれから三週間後、河川敷で住所不定の女性が血を流して死んでいるのが見つかったと報じられていた。お婆さんのことだと思った。お婆さんが自分で死んだのか、不良少年にでも刺されたのかはわからない。テレビでは見覚えのある中年の女性が発見者としてインタビューを受けていた。犬の散歩中に見つけたらしい。お前が死ねば良かったのにと思った。世の中はままならない。


 正直なところ、どうでも良かった。私は新しいお守りを手にいれて、新しい社会に紛れ込んでいたからだ。あれからお守りなしの生活を始めたが上手くいかなかった。お守りなしでは生活できなくなってしまった。


 今日も明日も明後日も毎日、私は誰かを心の中で殺し続けるだろう。私には本当に殺すなんてことはできない。本当に私はどこまでも正常で普通の人間だ。


結局なにも変わらなかった

殺すなんて私にはできない

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