ライフハック
段ボール箱を被って生きていこう。そんな酔狂なことを考えたのは、昭和の文豪だったか。難しくて高校生の私には理解できなかったけれど、そんな小説を読んだ記憶だけは残っている。今ならAmazonの段ボール箱で全身を覆うぐらいの人間が現れても不思議ではないと思う。だけど、そんな話しは一向に聞かない。私がパイオニアになってもいいのだけれど、段ボール箱で匿名性を担保するのと利便性を秤にかけると、利便性に軍配が上がる。匿名性を求めなくても、私のことなど誰も見ていない。小細工せずとも私は路傍の石だ。段ボール箱を被った方が悪目立ちするのは間違いない。石ころ人間には段ボール箱は過ぎ足るものなんだろう。とにかく私は石ころで、この街では必要とされなかったと言う事実が私の心を酷く傷つけた。
京都駅に着いたときには、もう二十時をまわっていた。四月の京都はまだ肌寒い。でも街は、まだまだこれからと言わんばかりに明るく活気がある。駅前のオフィスビルからも光が漏れている。夜空に星は見えない。京都タワーは蝋燭の灯火のように赤くうっすら光っている。ひっきりなしに歩き回る人々は懐かしい言葉で喋っている。しかし、活気があるといっても、東京と比べると二枚も三枚も落ちる。しょせんは地方都市だ。
私はこの街で、新しい生活を始めることにした。東京を離れることにしたのだ。東京では楽しいこともたくさんあったはずなのに思い出せない。不思議なことに辛い記憶だけは容易にアクセスできるように整理されている。あの街での出来事は忘れてしまいたいのに、不意にやって来ては、私の心をかきみだして、ふらっと帰っていく。自分の頭のことなのにままならない。もう脳が壊れているのかもしれない。そんな破滅的なことを考えたりもするけれど、普段の生活には問題がない。ただ、楽しかったことが思い出せないだけだ。辛いことばかり思い出すことが、生存にどういうメリットがあるのだろうか。なにか意味があって欲しいと言うのは我が儘なのだろうか。
そんなことはさておき、新しい生活を始めるに当たって、常に包丁を持ち歩くことにした。いつでも殺せるようにだ。敵はどこからやって来るか分からない。誰がいつ敵になるかも分からない。みんな敵だと言ってもいいだろう。だけども、相手をいつでも殺せると思えば、心に余裕ができる。Twitterか何かで見たライフハックだ。新幹線に乗る前に、ダイエーで刃渡り十五センチほどの果物ナイフを買った。信頼のヘンケルスブランドだ。殺すには若干心許ないけれど、刺した後に手首を捻ることで飛躍的に殺しやすくなるらしいと何かで読んだ。なんにせよ死ぬまで刺し続ければ問題ない。
改めてバッグの中の包丁を見る。黒のグリップがプラスチックで安物臭い。実際、安い。しかし、機能は十分なので良い買い物だったと思う。それにしても鞘に収まっていてもやはり自己主張が強い。財布やスマートフォンと一緒に並んでいるのは場違いな感じがする。この子が、大人しくできるのはキッチンぐらいだろう。
在来線や私鉄を乗り継いで、新しい家の最寄り駅ついた。駅前にはコンビニの明かりと数店の赤提灯しかない。京都駅と比べると寂れている。よく言えば閑静なのかもしれない。京都タワーもここからでは見えない。これから、この街でこの子との新しい生活が始まると思うと少しワクワクした。こんな気持ちはいつ以来だろう。
新しい家は、祖父母の残した5LDKの築五十年の一軒家だ。独り暮らしには少し広すぎる。だけど、そのうち同居人が増えるかもしれない。当てはないが、そんなことがないとも限らない。最初から可能性を排除するのは敗北主義者だ。私はヘンケルスによって優位な地位にいる。同居人を増やそうと思えば増やせるはずだ。一人が好きなので増やす気はないけれど。
家のなかは埃っぽくてカビ臭かった。床はところどころふにゃふにゃになっている。祖父母の生前、遊びに来たときは、もっと綺麗で上品な家だと感じていた。だけど今は廃墟に片足を突っ込んでいる。床の下から死体が見つかっても驚かない。いや勘弁して欲しい。想像すると夜も眠れない。はたして幽霊にステンレスのナイフは効くのだろうか。私の大好きなテレビゲームでは効かなかった。新しい武器の購入も検討したほうが言いかもしれない。
そんなくだらない事を考えていても眠気には勝てない。カビ臭い布団に包まれているうちに眠ってしまった。