あの子を好きな旦那様
読んでいただけたら嬉しいです。
R15は念のためです。
誤字修正しました!誤字報告ありがとうございます!
2019.8.14に、日間ランキング2位に入ってましたー!
ありがとうございます!!
アルファポリス様に掲載しました。
※こちらは素人が趣味で書いているものになります。また、素人ゆえ、悪役でさえも登場人物すべてが可愛いのです。そのため、苦情や批判は受け付けておりません。それをご了承の上、ご覧ください。
「クレアが好きなんだ」
目の前の男がそう言うのをただ、黙って聞いていた。目の奥に、熱い何かがあるようで、真剣な想いであることはすぐにわかった。きっと、嬉しかったはずだ。その名前が、自分の名前だったら。そう思いながらローラ・グレイは小さく頷く。
「ええ。知っております」
ローラの言葉にライル・ウィンザーは黒い大きな目を丸くした。きっと自分の恋心を知っている人物がいることなど考えもしなかったのだろう。
ローラとライルは同じ全寮制の学校に通っていた。両親や家族と離れ、寮生活において学業だけではなく、自立心、礼儀、コミュニケーション能力などを養成することを目的に、10歳から15歳までの貴族の子供が通う学校である。しかし、貴族の学校であるため従者やメイドを2名伴っていいことになっていた。
ローラがクレアを見たのは学校でライルとすれ違った時だった。ライルの一歩後ろを歩くクレアはライルの侍女だ。茶色い長い髪を低い位置で一つにまとめ、ウィンザー家の侍女が身にまとう白と黒を基調とした服を着ていた。顔は小さく、目は大きい。白い肌は透き通るように綺麗で、女性であるローラの目から見ても美しい人物であった。
ローラがライルの婚約者になったのは学校を卒業した1年後の16歳の時だ。ローラは伯爵家の次女であり、ライルは公爵家の長男であった。年齢、身分ともにふさわしいということで、父親同士の話し合いの結果、婚約者となったのである。グレイ家は公爵家との繋がりを、そしてウィンザー家はグレイ家が持つ貿易力を求めた政略的結婚だった。
それが2年前のこと。そこからローラはライルに歩み寄るよう努力した。礼儀作法を学び、この国の歴史を学んだ。難しい経済の講座も必死で受講した。
ウィンザー家は代々、王家に仕える宰相を務めている。将来、ライルも同じ道を歩くだろうと思ったからだ。そして、予想どおり、今ではライルはユリアス第一王子の右腕と言われ、政治的にも強い権力を持っている。このままいけば、宰相になるのも時間の問題だった。
政略結婚だとしてもこれから一緒に長い月日を過ごしていくのなら、愛し、愛される関係になりたかった。けれど、愛することはあっても、愛されることなどないのだとローラは今日、改めて思った。初めて会った13歳の時から、ライルの目にはクレアしか映っていない。
「それで?婚約を破棄する、とでもおっしゃるおつもりですか?」
「いや、家同士の結婚に私情をはさむつもりはないよ。それに、グレイ家の所有する貿易会社は異国との強いパイプを持っている。それをみすみす逃すつもりもない」
「それではどうしてクレアが好き、などと言うのでしょうか。それも、一応婚約者である私に」
「君と結婚することにしたからさ」
笑顔も照れも怒りの表情さえなく、明日の予定を話すようにライルは言った。マダムたちがこの場にいれば、政略結婚なんてそんなものよ、と言ってくれたかもしれない。けれどあいにく、ここにいるのはローラとライルだけであった。
「君といい夫婦関係を築けるよう努力するよ。けれど、きっとこれからも心はクレアのものだ」
「…」
「だって、フェアではないだろう?俺の気持ちを伝えずに君と結婚するのは」
ルーチェ国では、法律で一夫一婦制が厳格に決められている。結婚したあとの離婚は法律違反とはならないが、慣習として悪だとされていた。近年、庶民の間では離婚は珍しいものではなくなってきているが、貴族の間での離婚は信用問題にもなり、敬遠されている。愛人を作る人もいるが、「一途」が美徳とされているルーチェ国では、離婚以上に浮気や愛人は悪だとされており、一度結婚してしまえば、結婚相手以外に恋をすることは難しい。
その状況下でのライルの言葉だった。誠実なのだと思った。それがいいことかどうかは別として。
「わかりました。教えていただきありがとうございます。私にも好きな人がおります。…お名前はお伝え出来かねますが」
「そうか、君もか」
「ええ」
「結婚してしまえば、その好きな人と結ばれることはないが大丈夫かい?」
「…私を好きになってくれない人なので」
「そうか。俺たちは似ているな。…それなら話は早い。明日、準備をしてご両親にご挨拶に来よう。それでは、今日は帰ることにするよ」
「承知しました」
ライルは婚約者の務めとして週に一度、ローラの家に訪れた。会いたいわけではなく、ただの義務としての繰り返し。毎週決まった曜日に決まった時間に訪れるライルをローラは迎え入れた。
弾む会話をするのではなく、最近の市井の情報交換をした。政治の話もした。他国の脅威に、国内の不安事。ルーチェ国のこれからを語るライルの口調は熱く、それだけ国を、そしてこれから王となるユリアス王子の想いを大切にしていることがわかる。話が途切れることはあまりなかった。けれどそれは、婚約者としての会話ではなかった。学友や同志としての会話。けれど、それでも、ローラにとっては、大切な時間だった。
「それでは、明日、また来るよ」
「ええ。お待ちしております」
にこりと効果音がつく笑みを浮かべる。けれどその笑顔を見ずに、ライルは背を向けた。
「お嬢様、よろしいのですか?」
ライルの短い黒髪が見えなくなったころ、そう問いかけたのはローラの執事のエドだった。2歳年上の彼は、5年前から執事兼護衛としてローラに仕えている。全寮制の学校で伴っていた1人であり、ライルの気持ちをローラと同様知っている人物だ。そしてローラの気持ちを知っている唯一の人でもある。普段表情を動かさない彼が、自分の事のように皺を寄せ、見せる苦い顔に、ローラは小さく笑い、しかししっかり頷いた。
「ええ、最善の結果よ」
「…俺は、あなたに幸せになってもらいたい。他の誰かが傷ついたとしても」
正直すぎる言葉にローラは嬉しそうに笑った。
「エド、ありがとう。でもね、私は幸せよ。だってライル様と結婚できるのだから。…この家に生まれてずっと息苦しくて仕方なかった。でも今日初めてこの家に生まれてよかったと思えたわ」
「貴族の娘として生まれたからには」それが両親の口癖だった。家庭教師を何人もつけられ、学業もマナーも刺繍も貴族社会において必要とされるものを覚えてきた。大きく口を開けて笑うことも許されず、お手本のような笑みを浮かべる。欲しいものを欲しいということすら許されないそんな家だった。
愛されてはいたのだと思う。必要以上のものを与えてくれた。そのことに感謝もしていた。けれど、本音を言えず、貼り付けたような笑みばかり浮かべることも、両親のそんな顔も、ずっと苦しかった。自分で考えて、自分で行動したかった。楽しい時には笑い、悲しい時には泣く。そんな当たり前のことを願っていた。
けれど、この家に生まれたから、ライルと釣り合う身分だったから結婚ができる。そう思えば今までの苦労も、これからの苦労も乗り越えられる気がした。
「どうしてそこまであの方の事を想うのですか?」
「…ライル様の目が優しかったから、かな」
あれは、ライルの誕生会に招かれたときだ。その時はまだ婚約者ではなかったが、学友の1人として招かれていた。正確に言えば、ライルと仲の良かった友人とローラと仲の良かった友人が恋仲だったため、ついでのように呼ばれたのだ。
ライルの傍にクレアがいることは知っていた。クレアの美しさは人を惹きつけるものがあったから。けれど、その時初めて見た。ライルがクレアを見るその表情を。目が優しくて、小さな笑みを浮かべていた。幸せそう、遠くからでもそう思えるその表情にローラは惹かれた。自分もそんな目で見てほしいと思った。だから、ローラは好きになった。クレアを好きなライルを好きになったのだ。
「一生愛することを誓いますか?」
「はい、誓います」
もともと婚約者であったため、結婚は1か月を要することなく進められた。両家の両親によってドレスや指輪はすでに準備されており、どんなにあがいたとしても婚約破棄などできない状況にあったのだ、とローラは小さく息を吐く。
「それでは誓いのキスを」
牧師の言葉にライルがローラのベールを外す。角度を変え近づいてくる端正な顔にローラはそっと目を閉じた。5秒間のキス。短すぎない最低ラインのそれに義務感がにじみ出る。視線が合っても笑みを浮かべることはなかった。
形式どおりの結婚式は無事に終わりを迎えた。そのまま馬車に乗り、踏み入れた新居はグレイ家が用意したものであった。白い大理石の玄関に、豪華なシャンデリア。有名デザイナーが作ったソファーが広間の真ん中に置かれている。この「結婚」が祝福されたものだとわかる力の入れようだった。自分の家の財力をローラは改めて実感する。
「素敵な家だね」
「父と母が用意してくれたようです。気に入っていただけたならよかったですわ」
上手く笑えているのか心配になった。けれど、隣の男はそんなことどうでもいいのだと思うと笑えて来る。
「奥様、このお荷物はどちらに置かれますか?」
新婚だからといって2人きりで過ごすことはない。侍女はウィンザー家から用意された。ローラが連れてきたのは執事兼護衛のエドのみ。
一つでくくった茶色い長い髪が視線に入る。クレアだった。隣を見れば、ライルの視線はクレアに注がれている。気を遣う、なんて考えもしないのだろうと思うと苦しくなった。けれど苦しくなることが間違いなのだと思い返す。だってそういう約束だ。それを受け入れたのは自分だった。
「クレア様、そのお嬢様の荷物はあまり使わないものなので、向こうの倉庫に入れていただけますか?…よろしいですよね、お嬢様」
「…ええ、それでいいわ。エドの言うとおりしてくれるかしら?」
「かしこまりました」
茶色い髪が見えなくなり、一つ息を吐く。空気の濃度が濃くなった気がした。
沈黙が世界を支配する。時折聞こえる息遣いはどちらのものともわからないくらい小さなものだった。声を出すことを禁じられているような錯覚に陥る。初めて2人で迎えた夜は、子供を授かるためだけの儀式だった。
朝日とともに目が覚める。隣に温度はなく、シーツには破瓜の跡。身体に残る違和感。
「奥様、朝食の準備が整いました」
ノックの音とともに耳に入る侍女の声にローラは一瞬迷い、声を出した。
「ありがとう。でも、…身体がだるくて、起き上がれそうもないの。だから、せっかくだけど今日は朝食は遠慮するわ。せっかく用意してくれたのに、ごめんなさいね」
「あ、い、いえ!あの、しょ、承知しました!」
昨日が初夜であることは誰もが知っている。その翌日に身体がだるいと言えば何が原因かなんて想像に難くない。侍女の初心な反応になぜか少しだけほっとする。まだ名前も覚えていないあの侍女はこの破瓜の跡を見て、また同じように動揺するのだろうか。
しばらくしてベテランの侍女が2人部屋に来た。身体を綺麗にするのを手伝ってくれ、シーツを新しいものに替えてくれた。
「ありがとう」
「いえ、よろしゅうございました」
頭を下げて出て行く2人に何がよかったのだと問いたい気持ちを必死で堪える。1人の部屋でもう一度ベッドに腰かけた。身体を動かすたびに痛みが走るのは、身体か、心か。
「…うふふ」
笑った。けれど、ローラの意志とは反対に、視界が歪む。ダメなのに、そう思う前に雫は頬を伝っていた。涙を流したのはいつ振りだろうか。
「泣けるなら、まだ大丈夫だわ」
改めて部屋を見渡してみる。夫であるライルの部屋と鍵のない扉で繋がっているこの部屋は淡い黄色を基調とした壁だった。ネイビー色のカーテンがついている窓が2つ。ガラスのテーブルに白のソファー。
落ち着いた雰囲気の部屋だった。これからずっとここで暮らすことになるのだ。嘆いてなどいられないとローラは自分を叱咤する。自分は愛されずとも、2人の間に生まれた子どもは愛してもらえるように。だからこそ、いい妻でいなくてはならなかった。
ふいにノックの音が耳に入る。それは、鍵のかからない扉からだった。動揺を悟られないように一つ息を吐く。
「はい」
「入ってもいいかな」
「どうぞ」
声をかければ、ライルが顔を見せた。短い黒髪が小さく揺れる。
「…具合が悪いと聞いたけれど」
「朝食の席につけず、申し訳ありません。少し身体が重くて」
「無理を…させたかな?」
伺うような視線にローラはゆっくりと首を横に振る。
「とても、優しくしていただきました」
習ったどおりの閨だった。初めてだから、他の人との違いなどわからないが、きっと優しくされたのだろうと思う。
「それならいいが」
「ええ。心配をおかけしてすみません」
「クレアが君の様子を見に行けとうるさくてね」
「………そうですか」
「でも、大したことなくてよかったよ」
「大丈夫ですわ。丈夫にできておりますの。でも、…まだ少しだけ身体が重くて、失礼で申し訳ないのですが、あと少しだけ休ませていただいてもよろしいでしょうか」
「そうだね。気が回らなくて申し訳ない。…何か、必要なものはあるかい?」
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですわ」
にこりと笑みを浮かべる。その笑みにライルは頷き、部屋を出て行った。バタンと扉が閉まる音がする。
ローラはベッドに横になった。眠ってしまいたかった。けれど、ノックをする音が耳に入る。ローラは一瞬考え、「どうぞ」と入室を促した。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「エド…」
知った声に泣きそうになり、必死で堪えた。顔を見られないようにと横に向ける。けれど、エドはベッドに近づき、跪くようにしてローラと視線を合わせた。
「大丈夫ですか?」
二度目のその言葉に自分の心情を気づかれている気がしてローラは苦笑いを浮かべる。
「エドには何もかもお見通しなのかしら」
「あなたの執事兼護衛ですから」
「…クレアさんが様子を見て来いと言ったから、来たそうよ」
「控えめに言ってクソですね」
歯に着せぬ言い方にローラは小さく笑う。
「ええ。私もそう思うわ」
「そしてそんな男を好きなあなたはバカだ」
「……ええ。そうね」
ベッドの上から窓が見えた。窓の外は薄い青をした空。白い雲が風で動いている。
「確かにバカだわ。だって、私、それでも、あの人と結婚できてよかったと思ってる」
自分の言葉に泣きそうになった。どうしてここまで好きなのか、そう聞かれても答えられない。好きになるのに理由なんてないのだ。優しくされたこともない。義務のように会っていただけ。それでも、言葉を交わせば、返してくれた。どうにか話を繋げようと考えてくれた。それだけで嬉しかった。
「…わかりました。あなたの気持ちを尊重します。…これからどうしますか?」
「そうね。貴族の妻としてできる限りのことをしたいわ」
「承知しました。それではまずお勉強ですね」
「勉強?」
「貴族の妻として今まで以上にこの国の歴史や文化を知る必要があります。ウィンザー家は異国との関係を強固にしようとしていますので異国の言葉や文化も学ぶ必要があります」
「その辺りの事はエドにお任せした方がよさそうね」
「ええ。お任せください」
頭を下げ、立ち上がる。背を向けたエドの名前をローラは呼んだ。ローラの声にエドが振り返る。
「ライル様に手を出したらダメだからね」
「……顔に出てましたか?」
「2、3発殴りそうな顔してたわ」
小さく笑うローラにエドは満面の笑みを浮かべる。
「2、3発で済めばいいですけど」
「……ダメだからね」
「お嬢様のご命令なら仕方ないですね」
つまらなそうに言うエドにローラは苦笑いを浮かべる。ローラに深く頭を下げ、エドが部屋を出て行った。
大切にされている。それだけで頑張れる気がした。ベッドから身体を起こし、両頬を持ち上げた。
『幸せだから笑うんじゃない、笑うから幸せになれるそうだ』
そう言ったのはライルだった。前後の文脈は覚えていないが、その言葉だけはローラの頭の中に残っている。だからローラは笑った。幸せになりたいから。
太陽が地上を照らす。心地よい温かさに目が覚めた。窓を開ける。そよぐ風が髪を揺らした。昨日サボってしまった妻としての務めを今日から始める。そんな自分を応援してくれるような天気に胸を張り、部屋の外に出る。すぐに視界に入ったのは短い黒髪。
「…おはようございます、ライル様」
「おはよう、ローラ。体調は大丈夫かい?」
「ええ。ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫ですわ」
「それはよかった。…じゃあ、今日の夜会に招待されているのだけれど、出られるかい?」
「ええ。もちろん」
「ドレスはクレアに用意するよう言ってある」
「…承知しました」
一歩遅れた反応にダメだなと思った。この状況を受け入れたのは自分なのだと叱咤するように笑みを浮かべる。
「体調が万全でないのに申し訳ない。ただ、今日はスタッカー公爵の招待だから君に出てもらわないといけないんだ」
「本当にもう大丈夫ですわ。昨日も申しましたが、私、丈夫にできておりますの」
「ありがとう」
「スタッカー公爵は大量の武器を手に入れている、と父に聞いたことがあります」
ローラの言葉にライルは頷く。その表情は硬い。
「スタッカー公爵は武器マニアで有名なんだ。国のためではなく自分のためだけに強力な武器を集めている。今は集めることだけが目的だが、使うことが目的になる日が来るかもしれない。彼の武器の行方は国にとって脅威になる。だから、公爵との繋がりを強めておく必要があるんだ」
「はい。私はついていくことしかできませんが、少しでもライル様のお役に立てるよう頑張ります」
「夕方には出発する。それまでは好きにしてくれてかまわない。それに今後も俺の許可なく使える資金を渡そう。ドレスでも宝石でも好きに使ってくれ。ここで退屈しないように」
「ありがとうございます。早速ですが、家庭教師をつけたいと思っています」
「家庭教師?」
予想外の言葉だったのか、ライルは小さく首を傾げた。ローラは小さく頷く。
「この国の歴史や文化、それから他国についても学びたいと考えています」
「それはいいことだね。誰を家庭教師としてつけるつもりだい?」
「エドが選んでくれます。この件に関してはエドに一任しておりますので」
「エドは君の執事だったね。君の執事が優秀というのは、聞いているよ」
「ええ。私にはもったいないくらい優秀ですわ」
「家庭教師でも何でも君の好きにしたらいい。いちいち許可を取る必要もない」
彼なりの優しさなのかもしれない。それでも、小さな会話の機会すら奪う言葉に胸が苦しくならないと言ったら嘘になる。けれどローラは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「今から朝食だろう?一緒に行こうか」
「ええ、もちろん」
2人並んで歩く。廊下の窓からは太陽の光が差し込んでいた。傍から見れば素敵な夫婦なのだろうなとローラは心の中で思った。
輝くシャンデリアの下、華やかな飾りに豪華な食事。その先にはケースの中で厳重に管理されたナイフやライフルなど武器が並ぶ異色の夜会であった。音楽が流れ男女がダンスを踊る中、武器の前で小さな人だかりができていた。視線を向ければ中心にいるのは初老の男性。白髪が交ざった髪に年相応の落ち着いたグレーのスーツを身にまとう男性が本日の主催であるスタッカー公爵であることは容易に想像できる。
ライルがその人だかりを見ながらため息をつく。
「お得意の武器自慢をしているようだ」
「周りの方たちも武器に興味があるのでしょうか?」
「いや、興味があるのはどうしたら公爵に気に入られるか、ということだけさ」
「そう言えば、父からスタッカー公爵は気難しい人だと聞きました。奥様にしか心を開いていないようだとか」
ローラの言葉にライルは小さく頷く。
「武器なんて集めなければ、素敵な愛妻家と名が通るのに」
「奥様を愛しておられるのですね」
「ああ。でも夫の奇行に何もしない妻にも問題があると俺は思うけどね」
「…そうかもしれませんね」
「しょうがない。挨拶だけでもしてくるよ」
離れていく後ろ姿を見送るとローラは壁際で待機することにした。給仕が持ってきたワインを片手に壁の花となる。結婚したばかりであるため、夫以外と仲睦まじく話している姿を見られれば、どんな噂が飛び交うのかは想像に難くない。相手が女性であっても、夫に放置されている妻というレッテルを貼られかねないため、慎ましく夫を待つ妻としてじっとしているのが得策だ。
壁の花になっていると人間模様が読み取れる。スタッカー公爵の周りにできている人だかりを冷ややかな目で見つめる人もいれば、熱心に公爵に武器を売りつけようとしている人もいた。パートナーの女性たちもどこか不安そうな表情を浮かべている人たちが多い。確かにライルの言うとおり危険人物なのかもしれないと思った。武器を前に子供のような笑みを浮かべるスタッカー公爵はきっと純粋に武器が好きなだけだ。けれど、悪事に巻き込まれないとは言い切れない。だからこそライルも心配するのだろうとわかる。
「あら?」
1人の女性がローラの目に留まった。髪に白いものが混じる初老の女性だ。身に付けているドレスは上品で、質も一級品であることがわかる。笑顔で話をしているが、軽く胸を押さえるその姿に違和感を覚える。よく見ればどこか顔色が悪いように見えた。ローラはグラスを給仕に渡すと彼女のところへ行った。
「もしよろしければ、あちらへ座って一緒にお話をしてくれませんか?」
「…え?」
驚いた様子の彼女にローラは笑みを浮かべることで答える。初対面であり、かつ親子ほど年の離れたローラが急に話しかけたので、驚くのも当然だった。
「私はローラ=ウィンザーと申します。夫が挨拶に行ってしまいまして、先日結婚したばかりでこのような夜会に参加するのは初めてなので、1人では心細いのです。立っているのも億劫になったので、あちらで一緒に座ってお話をしてくれる人を探しているのです。どうかお願いはできないでしょうか?」
「…ええ、いいわ。行きましょう」
会場の隅には小さな机が2つと椅子がいくつか置かれていた。立食パーティーではあるが、休憩できるように作られたスペースなのだろう。ローラは席に着く前に近くにいた給仕に水を2つもらった。
「お気遣い、ありがとう。本当は座りたくてしかたがなかったの。貴方が声をかけてくれて助かったわ」
穏やかな笑みを浮かべた。そんな彼女にローラは小さく首を横に振る。
「夫に置いていかれたのは本当です。1人で心細かったのも。だから、お礼を言うのは私の方です」
「あなたは、優しいのね。私は、ダリア=スタッカーよ」
「スタッカー公爵の奥様だったのですね。ご挨拶もせず、申し訳ありませんでした」
ローラは立ち上がり、ダリアの正面に立つ。
「私はローラ=ウィンザー。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「いいわ、そんなに丁寧にしてくれなくても。座って頂戴。…あの人が、自慢したくて皆さんを呼んだだけですもの。付き合わせてしまってごめんなさいね」
ダリアの言葉にローラは素直に従い腰を降ろした。そして小さく首を横に振る。
「貴重なお話を聞ける場を作ってくださってありがたいです。それに、この夜会がなければ私が奥様と会うこともなかったのですから」
「そうね。貴方とこうしてお話しできるのは、あの人のおかげね」
くすりと笑いながらダリアが人だかりの方を見る。つられてローラも視線をそちらに向けた。ちょうどライルが公爵と話しているところだった。熱心に語る公爵に笑みを浮かべながら相槌を打っている。
「貴方の旦那様は、確か、第一王子の側近、だったかしら」
「ええ。ユリアス王子の右腕として王宮に勤めています」
「それでは、きっとあの人の行動に頭を悩まされていらっしゃるでしょうね」
「それは…」
「…私が原因なの。彼が武器を集めるようになったのは」
「え?」
驚いたローラに内緒話をするようにダリアが言葉を続けた。
「私、あの人と結婚する前に、近衛隊長に懸想していたことがあったのよ。それで、私が今でも強い人が好きだって思ってるの」
公爵を見るダリアの顔はどこか恥ずかしそうで、けれどどこか嬉しそうだった。愛しているのだな、とローラは思った。心から想っているそんな表情だった。
「バカだと思わない?10代の頃に憧れていただけなのよ。それなのに、まだ気にしてるの。若い頃は剣術とか必死に習ってたんだけど、あの人、才能がまったくなくてね。それで、やっと諦めたかと思えば、今度は武器なんか集め始めたのよ。私が好きな『強い人』になりたいみたい」
「…素敵なお話ですね。愛されていて、羨ましいです」
思わず本音が出た。自分が愛されていないことを暴露するそんな言葉。けれど、ダリアは気にすることなく話を続ける。
「こんな歳でおかしいと思うでしょうけれど、それでもあの人のそんな行動が、嬉しくて、可愛くて、止めなさいってなかなか言えないの」
照れたように、けれど嬉しさを隠さない表情でダリアがそう言うのをローラはただ見ていた。
「けれど、やっぱり危ないわね。あの人は武器なんて使う度胸もないけれど、あの人を利用しようとする人はいっぱいいるだろうから」
「ええ、そうですね」
「武器を捨てるか、国に寄付するように説得してみるわ」
「よろしいのですか?」
だって、あの武器たちは、公爵の『愛している』の結晶だ。心配そうなローラを見てダリアが小さく微笑む。
「ええ、いいのよ。こんな歳だけど、言葉で言ってもらうことにするわ。その方が私は嬉しいって。…大丈夫、私が言えば聞いてくれるわ。だって、あの人にとって、私に嫌われるのがこの世界で一番怖いことだから」
どこか茶目っ気を含めて笑うダリアの顔は、幸せそのものだ。その笑みがローラにはまぶしかった。
「あ、ほら、そろそろあなたの旦那様、解放されるみたいよ。私の事は気にしなくていいから旦那様のところへ行ってきなさい。新婚なのだから、寄り添うようにしていないと」
「…はい」
「貴方が伯爵家の令嬢として参加されていた夜会より公爵家として参加する夜会は厄介だと思いなさい。弱みは見せないに限るわ。誰よりも幸せそうに笑うの。…でも、もし泣きたくなったらうちに来なさいな」
「…え?」
「私達、子供ができなかったの。だから、貴方が来てくれたら嬉しいわ。きっとあの人も喜ぶ。…武器を手放す代わりに、貴方が話し相手になってあげて」
「はい。私でよければぜひ、伺わせてください」
「本当よ。社交辞令じゃ嫌だからね」
「もちろんです」
「それじゃあ、今度お茶会を開く予定だから、招待状を出すわ」
「ありがとうございます。楽しみにしています」
立ち上がり、ダリアに頭を下げると、ライルのところへ向かった。ローラを探しているようで頭を右に左に動かしている。
「ライル様」
「ローラ、いないからどこに行ったのかと思ったよ」
「申し訳ありませんでした。椅子に座って休んでおりまして」
ローラの言葉にライルは視線を動かす。その先にダリアの姿を見つけ、目を丸くした。
「公爵の奥様と一緒にいたのかい?」
「はい。体調が悪そうだったので、一緒に座っていました」
「そうか。気遣いができる妻で助かるよ」
「そう言っていただけて嬉しいですわ」
ライルの言葉にローラは笑みを浮かべて応える。この世界で一番幸せだというような満面の笑みで。
空を見れば、白い雲が風で流されていた。髪を撫でる風は優しいのに、空を動く雲の動きは早い。一点を見つめていれば次から次へと形の変わった雲が通り過ぎて行った。ライルと結婚して2か月が経とうとしている。
エドの選んできた家庭教師は有能だった。どんな質問をしてもすぐに的確にわかりやすく答えてくれる。こんなことなら学生の時から彼に習っていればよかったとローラは少し後悔する。学ぶことが面白いと思えたのは初めてかもしれない。国の歴史も視点を変えるだけでずいぶんとらえ方が変わる。それが新鮮だった。特別な予定がなければ、ローラの時間は勉強に充てられたため、ずいぶん国内外の情勢に詳しくなった。
公爵家の妻として夜会に招待されることも多かった。時にはほぼ毎日と言っていいほど夜会が開催される。ユリアス王子の側近であるライルの妻という存在は目に付きやすく、呼吸をするように嫌味を言われた。
貴族の妻たちが集まるお茶会やサロンにも頻繁に招待された。スタッカー公爵家にも月に2回ほど顔を出すようにしている。公爵もダリアもローラを本当の娘のように可愛がってくれた。気難しいスタッカー公爵に好かれているということで社交界ではローラの存在は一目置かれている。そして、そんなローラを妻に持つライルの株も同じように上がった。
「…ローラ、ちょうどよかった。今日は一緒に夕飯を食べられそうもない。悪いが料理長に伝えておいてくれないか?」
廊下を歩いていたローラを見つけてライルが声をかけた。ここ数日忙しくしているライルと言葉を交わしたのは、2日ぶりだっただろうか。
「ライル様、今日は、ではなく今日もですわ。…食事を疎かにされると身体を壊します」
「しょうがないだろう。明日までに完成させなくてはならない書類があるんだから。君は言われたとおりに動けばいいんだ」
「…かしこまりました」
頭を下げたローラにライルは一瞬、間を置く。気まずそうな表情を浮かべた。
「……言い方が悪かった。心配してくれてありがとう。…でも、本当に時間がないんだ」
「ええ。わかっております。余計なことを申し上げてすみませんでした。料理長には伝えておきます」
「よろしく頼むよ」
ライルは軽く手をあげ、小走りに自室に入っていく。最近は寝る間も惜しんで仕事をしているようだった。疲れた顔色に心配するが余計なことだと首を横に振る。そんなローラの後ろからは小さな舌打ちが聞こえた。
「あら、あなたが感情を表に出すなんて、珍しいわ」
「お嬢様の代わりにしただけです」
「優しいのね、エドは」
「…最近のあなたは、貴族の妻のお手本のようだ」
「褒め言葉?」
「貴族の妻としては。けれど、お嬢様の執事兼護衛からしたら皮肉です」
「ずいぶんはっきり言うのね」
「心配なんです。…あなたの心が壊れてしまわないか」
苦しそうにそう言うエドにローラは苦笑を浮かべる。
「…いい妻にでもならないと耐えられないからよ」
「…」
「本当は好きになってもらいたい。クレアさんに向ける笑顔の1%でもいいから、私に向けて欲しい。でも、そう思ったらそれこそ、心が壊れてしまうから。だから私は、妻としての役割を果たそうって決めたの。ライル様の役に立つことだけを目標にしようって。好きにはなってもらえないけど、それなら私にもできるから」
「……いい妻の執事兼護衛が夫を殴ったら問題ですかね」
「問題ね」
「ですよね」
「…ねぇ、エド。気分転換に一緒に料理をしない?」
「料理、ですか?」
「そう。いい妻としては、書類を見ながらでも簡単に食べられる栄養満点のスープなんかを夫に出したりするものじゃないかしら?」
「お嬢様が作るのですか?」
「ええ。料理長に作ってもらってもいいけど、ライル様は優しいから、私が作ったと言えば、無理にでも食べると思わない?」
「…それで、それをクレアとかいう侍女に持って行かせるおつもりですか?」
「何でもお見通しね」
皮肉たっぷりに言うエドにローラは自嘲的な笑みを浮かべた。
「お嬢様、前にも言いましたが、もう一度言ってもいいですか?」
「なあに?」
「あなたはバカですね」
「私もそう思うわ」
そう言ってローラはにこりと笑った。
扉を叩く音にライルは意識を書類から引き戻した。外を見れば空は知らぬ間に暗くなっている。時間の経過とともに若干の疲労を感じた。
「ライル様、よろしいですか?」
「クレアか」
「はい」
「どうぞ」
承諾する声にクレアは扉を開けた。同時にいい匂いがかすかに香る。
「お忙しいところ申し訳ありません。奥様に頼まれてスープをお持ちしました」
「…スープ?」
「はい。忙しくても簡単に食べられて、栄養が取れるようにと。奥様ご自身がお作りになったそうです」
「ローラが作ったのか?」
声が一瞬大きくなる。その反応にクレアは小さく笑った。
「はい。そう聞いています。エド様と一緒に作られたそうですよ」
「執事と?」
「ええ。お召し上がりになりますか?」
「…」
「奥様の手作りですよ。とってもおいしそうな匂いです」
「…もらおう」
ライルの言葉にクレアは嬉しそうに笑みを浮かべ、小さな鍋に入ったスープを器へと注ぐ。いい匂いにつられるようにライルはお腹の減りを感じた。
「ライル様の身体を考え、栄養価の高い野菜スープだそうです」
「そうか」
「あ、それから、奥様からご伝言です。『今、貴族の殿方の間では鷹狩が流行っているそうです』とのことでした」
「鷹狩?」
「ええ。この前、お茶会に参加してきたときに、鷹狩が貴族のたしなみだと盛り上がっていたとか。ライル様も交友関係を深めるためにも始めたらいかがですか、と奥様が。…ライル様、器が熱いのでお気を付けください」
クレアから器を受け取ると、ライルはスープを口に運んだ。優しい味が身体に染み込んでいく。気づけば手が勝手に動いていた。飲み干した器をクレアに返しながら呟くように言った。
「おいしかった」
「それはよかったです。奥様にお伝えしておきます」
「よろしく頼むよ」
「それでは私は下がります」
「ああ。ありがとう」
「はい」
「あ、クレア」
「何でしょう?」
背を向けたクレアをライルが呼び止めた。首を傾げるクレアにライルは少しだけ考えてから言葉を発した。
「ローラにありがとうと伝えておいてほしい」
「もちろんです。…でも、ライル様の口からも伝えてあげてくださいね。その方が喜ばれます」
「…善処するよ」
濁すようなその物言いにクレアは小さく口角を上げる。
「無理をし過ぎないでくださいね。奥様も心配されています」
「ああ。わかっている。今日が終われば落ち着くさ」
「それはよかったです。それでは失礼いたします」
1人になった部屋にはまだスープのいい香りが残っていた。身体が温かくなり、頭もすっきりした気がしてくる。先ほど感じた疲れも取れた気がした。
「…」
持ち上げた書類を机の上に置いた。鍵のかからない扉で繋がっている部屋の方を見る。いつも笑顔でいるローラの顔が頭の中に浮かんだ。気難しいことで有名なスタッカー公爵は今では自慢の武器を国に寄付し、ローラを娘のように可愛がっている。夫であるライルのことも気にかけてくれており、必要ならいつでも融資をするとまで言ってくれた。お茶会に出たローラがもたらす情報は最新で、貴族間の交流を優位に運ぶことができた。
「これが終わったら、オペラにでも誘ってみるか」
いい夫婦関係が築けるように努力する、そう言いながら自分が何もしていないことに気づいた。婚約していた頃は月1回、デートをしていたが、結婚してからはまだ夜会以外で出かけていない。オペラに行ったその足で、ジュエリーを買いに行ってもいいかもしれない。ローラに似合うものを自分が選ぼう。そう思い、ライルは再び書類に視線を走らせた。
穏やかな風が髪を揺らした。心地よいその風にローラは目を細める。空には太陽が輝いており、心地の良い天気だった。勉強も一段落し、気分転換に散歩でもしようと庭に出た時だった。
「ローラ。昨日はスープをありがとう」
声に反応し、反射的に後ろを向いた。そこにいた人物に少しだけ驚く。ローラの後ろについていた若い侍女が二歩後ろに下がった。
「いえ、どういたしまして。…あの、ライル様、お仕事はよろしいのですか?」
「いや、今から行ってくるよ」
「そうなんですね。いってらっしゃいませ」
「でも、この書類を王子に提出さえすれば今日の仕事はお終いなんだ」
「…?」
ライルの言葉の意味がわからず、ローラは首を傾げる。そんな様子にライルは照れたような笑みを浮かべた。
「俺はこれをユリアス王子に出してくる。…そうしたら、その、……久しぶりにオペラにでも行かないか?」
「オペラ、ですか?」
「そう、オペラだ。俺はこれを出してくる。君は、準備をする。そうだな…今から1時間半後に集まるというのはどうだろう?」
「待ち合わせ…?」
「ああ。もしかしたら少し待たせるかもしれないが、開演時間には間に合うようにするよ。…君と君の執事と2人で劇場の前にいればどんな噂がたつかわからないから…そうだな、クレアを連れてくればいい。クレアには君のドレスの準備をするよう話してあるから」
どこか楽しそうに話すライル。その口から出た「クレア」という名前に、ローラは口角を持ち上げた。
「ありがとうございます。楽しみにしています」
「ああ。俺もだよ。それじゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃませ」
空を見れば、いつの間にか雲が太陽を覆い隠していた。ローラは離れていくライルの後ろ姿に深呼吸を一つする。
「クレアさんはどこかしら?」
後ろの侍女に聞いた。
「旦那様のお話ではドレスの準備をしているということですから、奥様のお部屋ではないでしょうか?」
「そうね。…そう言えば、クレアさんって、身長はどのくらいだったかわかる?」
「身長、ですか?…奥様と同じくらいだったと思いますが」
「そう。ありがとう」
「…奥様?」
「何?」
「どうかされましたか?」
「…いいえ。いつもと同じよ」
笑みを浮かべローラは散歩を諦め自分の部屋に向かった。空を見上げた。雲は出ているが雨は降りそうもなかった。雨が降ればいいのに、そう思いながらローラは足を進めた。
「奥様、お帰りなさいませ」
部屋の扉を開けるとクレアがドレスを広げて待っていた。手に持っているのは薄ピンクの優しい色のドレス。ライルがローラに贈ったドレスのうちの一つだ。ふわりと丸みを帯びたスカートがかわいらしさを演出する。
「旦那様に言われて、ドレスを用意しておきました」
「ありがとう。クレアさん」
「湯浴みはされますか?」
「いいえ、いらないわ」
「それでは、お着替えをお手伝いいたします」
一歩近づいたクレアにローラは小さく首を横に振った。その動作にクレアは歩みを止める。
「奥様?」
「ごめんなさい、クレアさん。…私、頭が痛くて」
頭に手を当てて目を閉じた。クレアが心配そうに声をあげる。
「え?大丈夫ですか?まずはお座りください。お水を持ってまいります」
クレアに肩を支えられ、ローラは茶色いソファーに腰かける。すぐに水の入ったグラスを持ってきた。それをローラに渡すと、クレアはローラの額に手を当て、熱を測る。
「…熱はないようですが、すぐにお医者様をお呼びします」
「待って、クレアさん。その必要はないわ」
「奥様?」
「熱がないのだもの。たいしたことないはずよ。少し太陽に当たり過ぎただけだわ。だから、お医者様を呼ばなくていい。少し休めば元に戻るもの」
「それでも…」
「いいの。呼ばないで。言っていなかったかもしれないけれど、私、お医者様が苦手なの。ゆっくり休んでいるから呼んではダメよ」
「…かしこまりました」
しぶしぶという表情で頷くクレアの耳にローラのため息が聞こえる。
「奥様、どうされました?」
「…オペラには行けなくなっちゃったと思ってね」
「仕方がないことです。私が旦那様にきちんとご説明いたします」
「あ、そうだ、クレアさん。一つお願いできないかしら?」
「お願い、ですか?」
「ええ」
笑みを浮かべながらローラは伝えた。自分の代わりにライルと一緒にオペラを見てきてほしいと。ドレスコードがあるから、自分のドレスを代わりに着てほしいと。首を横に振るクレアに、夫の優しさを無駄にしたくないのだと訴えれば、クレアは最後には小さく了承の意を示す。すぐに別の侍女を呼び、クレアをドレスアップさせた。自分が着るはずだった薄ピンクのドレスはクレアによく似合っている。
「クレアさん、ありがとう。私に構わずゆっくりしてきてね」
「奥様、やっぱり私は…」
「ダメよ。そこまで準備したのだもの。私のためだと思って行ってきてちょうだい。せっかくのライル様の優しさを無駄にしたくないの」
「…わかりました。だから、奥様はきちんと休んでいてくださいね」
「ええ。大丈夫。ここには他の侍女もエドだっているんだから。おとなしくベッドに寝ているわ」
「……行ってまいります」
「いってらっしゃい」
しぶしぶといった様子のクレアをローラは送り出す。そのままソファーに座っていたら別の侍女にベッドに押し込められた。眠くもないのにベッドの上でローラは目を閉じる。
「エドにまたバカだって言われちゃうわね」
小さなその声は近くにいた侍女には聞こえなかった。
「……クレア?」
いつもの服装とは違う目の前の人を見て、ライルは目を丸くした。優しい色のドレスはクレアによく似合っている。けれど、それよりここにいない人物が気になった。
「ローラはどうした?」
「頭痛がするとのことで休まれております」
「頭痛?大丈夫なのか?医者は呼んだのか?」
乗り出すように問うライル。
「お医者様がお嫌いだとのことなので、呼んでいませんが、熱もなかったので、ちょっと疲れが出ただけだと思います」
「…そうか」
「他の侍女もエド様も奥様のお傍についておりますので、大丈夫だと思います」
「エドも…ね」
「旦那様?」
「いや、なんでもない。それより事情はわかったが、クレアがそのドレスを着ている意味は何だい?」
クレアは自分が着ているドレスを見て、頬を赤く染めた。
「あ、あの、これは…私が望んだわけではなくて…あの…ローラ様が…」
「…ローラが?」
「はい。その、ローラ様が、旦那様の優しさを無駄にしたくないから、自分の代わりにオペラを見に行ってくれないか、と。ドレスコードがあるから、自分のドレスを着ればいい、と貸してくださいました」
「………」
ローラの行動の意図がわかり、ライルは言葉を失った。ローラに言ったのはライルだ。
「クレアが好きなんだ」
それは、ライルの口から出た言葉。ライルの口からローラの耳に届いた言葉。
「旦那様?」
「いや、なんでもないよ。巻き込んでしまってすまないね」
「いいえ。でも、私なんかが来る場所ではないですよね…」
「そんなことはない。とても綺麗だよ、クレア」
自然と出た言葉に、ライルは何も思わなかった。美しい花を見れば、自然と「美しい」と言葉が出る。そんな感覚だった。
「さあ、お手をどうぞ」
クレアがライルの腕に手を添える。近い距離に、クレアから花のような匂いが香った。クレアの方を見れば、大きな目がライルを見ている。微笑むクレアに、つられた様に口角が上がった。けれど、それだけだった。心臓が大きな音を立てることはない。
気づかないほど静かに長年の恋心は終わりを迎えていた。今、思い浮かべるのは周りに気を遣い、自分を大切にしてくれるローラの笑顔。
「…クレア、……ありがとう」
「いえ、私の方こそ、ありがとうございます。次は奥様と来られるといいですね」
「ああ。俺もそう思うよ」
ライルの言葉に、クレアは嬉しそうに笑った。オペラの開場を知らせる音が鳴る。ライルとクレアは寄り添いながら、中へ入った。
陽は落ち、窓の外は夜に覆われている。ライルはノックしながらも返事を待たずに扉を開けた。
「ローラ、起きているんだろう?」
「……お帰りなさいませ」
ローラはベッドから身体を起こした。立ち上がろうとするのをライルが止める。ベッドに腰かけ、ローラを優しい表情で見つめた。
「元気なのに、昼間から横になっていれば、夜、寝られないのは当たり前だよ」
「……余計なことでしたでしょうか」
「ああ」
ライルの言葉にローラは頭を下げた。
「…考えが足らず、すみませんでした」
「そうだね。だって、俺は、君と行きたかったんだ」
「え?」
「君を誘ったんだ。君と行きたかったに決まっているだろう」
予期せぬ言葉にローラは思わず顔を上げ、ライルを見た。微笑むライルにどうしていいかわからず、視線を左右に動かす。ライルは小さく声に出して笑った。
「君はそんな顔もするんだね」
「…そんな顔とはどんな顔でしょう?」
「焦っている顔だ。小動物みたいでとても可愛いよ」
「…っ!…今日はどうされたのですか?」
冷静を装うローラを気にせず、ライルはそっと手を伸ばした。梳かすようにローラの髪に触れる。思わず肩が持ち上がった。そんな反応に手を止めることなく、ライルはローラの髪を撫でる。
小さなリップ音が耳に入った。おでこに一つ。それから、右頬に一つ、最後に唇に小さなキスが降ってくる。突然のライルの行動に頬が熱くなるのがわかった。ベッドをともにした回数はもう両手では足りない。けれど、それでも、初めてされたキスのような気がした。
「ラ、ライル様?」
「ん?」
「いや、『ん?』ではなく…」
「ローラ、明日は一緒に散歩をしないかい?」
「…え?…散歩ですか?」
「ああ」
ライルの言葉にローラはそっと右手を伸ばした。ライルの額に当て、左手は自分の額に当てる。
「熱は…ないようですが。でも、念のため、明日、お医者様に来てもらいましょう」
真剣に言うローラにライルは苦笑を浮かべた。
「夫が妻を散歩に誘っただけなのに、医者なんてひどいな」
「…ライル様」
「なんだい?」
「私に遠慮していただかなくて結構ですわ。…好きな人と一緒の時間を過ごしてください。たとえ振り向いてくれなくても、…傍にいられれば幸せを感じることができます」
「…それは君の実体験かい?」
ローラは黙ったままだった。沈黙は肯定である。黒い思いが胸の中に広がった。
「ずいぶん好きなんだね、その人のことが」
ローラはライルの目をまっすぐ見つめ、そしてゆっくり頷いた。
「ええ。……大好きです」
「そう。それは、なんだか…妬けてしまうね」
「…え?」
「妬けると言ったんだ」
「……そんな言葉いりません」
「…」
「あなたが好きなのはクレアさんです。そして、私はその想いを認めると約束しました」
「そうだったね」
「だから、私を喜ばせる必要はないんです」
「…俺が妬くと、君は喜ぶの?」
「…っ!…それは…」
失言だった。何か言わなければいけないと思うのに言葉が出てこない。知られてはいけない想いだ。ただ「妻」として過ごしていく。愛など存在しない結婚の中で、好きだという気持ちは迷惑以外の何物でもない。
「君のそんな顔も初めて見るな」
「…」
「ねぇ、ローラ。君が好きなのは、もしかして、俺?」
「……名前はお伝えしかねると言ったはずです」
否定しないことは、肯定だった。わかっていた。けれど、嘘を吐くことはできなかった。ローラの言葉にライルの表情が緩む。けれど俯いたローラにはライルの顔は見えなかった。
「どうしてそんなこと聞くのですか?私の気持ちがどこにあっても、私は、ライル様のご迷惑にならないようにいたします。クレアさんと2人の時間を作れるように協力だってします。だって、…あなたが好きなのはクレアさんですもの」
言い聞かすような言葉。その言葉を遮るようにライルは名前を呼んだ。
「ローラ」
伸ばしたライルの手に、ローラは首を横に振る。
「今だけは、触れないでください」
切な願い。けれどライルはローラの頭を包み込むように抱きしめた。ローラの目から雫がひとつ零れ落ちる。
「優しくしないでください。勘違いしたくないのです。…勘違いして、傷つきたくないのです」
「傷つけないと約束する」
「…」
「泣かせてしまってごめん。君を今まで何回も傷つけてきたんだと思う。俺は君が見えていなかった。でも、やっと気づけたんだ。君の献身的な態度に心を動かされた。執事ばかり頼る君に腹がたった。今日のオペラでは、君はきっと嬉しそうに笑うんだろうなって、君の事ばかり考えていたよ」
「…」
ライルはローラの顔を覗き込むように膝立ちになった。握りしめたローラの両手を包み込む。
「君が好きなんだ」
「…ライル様が好きなのは、クレアさんです」
「少し前まではね」
「ライル様はいつもクレアさんを見ていました」
「うん、そうだね」
「私には見せない、優しい顔で、いつだって…」
「そうだったかもしれない」
「…」
「でも、いつの間にか、周りを気遣って、いつだって笑っているそんな君に惹かれたんだ」
ライルの言葉に首を横に振る。
「いい妻を演じていただけですわ」
「ああ。そうかもしれない。でも、だから、君の焦ったり、照れたりした顔が見れて、今日は嬉しいんだ」
「…」
「勝手かもしれないけど、もっと色んな顔を俺に見せてほしい」
「……本当に、勝手ですわ」
「うん。ごめん」
「……私が、どれだけ、あなたを想っているか、知らないくせに」
「うん」
「私が、どれだけ、あなたの言葉に傷ついてきたか、知らないくせに」
「うん」
「……それでも、あなたを好きでいることしかできない悔しさなんか、知らないくせに」
声が震えた。涙が再びあふれ出す。その涙をライルはそっと親指で拭った。
「ありがとう」
「…」
「こんな俺を、愛してくれてありがとう」
「…」
「ずっと傷つけてきたのに、それでも好きでいてくれてありがとう」
「…ずるいです」
「うん」
「そんなこと言われたら、……何も言えませんわ」
「ごめん。これからは君が素直に何でも言える俺になるよ。だから、俺を嫌いにならないで」
「…嫌いになれたら苦労はしません」
「ローラ、愛している」
「…」
「愛しているよ」
「…私も、…私も、愛しています」
やっと口から出せたその言葉に再び涙があふれ出る。そんなローラをライルは愛おしそうに見つめた。ライルの顔が少しずつ近づいてくる。涙を流しながら、けれどローラは幸せそうに目を閉じた。
好きになったのは、優しくて、ずるい人。こちらの気持ちなんか気づいてくれない、ひどい人だ。でも、どうしても好きな人。
「あ、そうだ。ねぇ、ローラ、一つだけ言っておきたいんだけど、いいかな?」
「なんでしょうか?」
「君、ちょっと執事に頼り過ぎじゃない?」
「エド、ですか?」
「呼び捨てなのも気に入らない」
「もしかして、ヤキモチ?」
「…」
「それはいいことを聞きました」
「え?」
「ライル様も少しぐらい困ればいいんです」
いたずらを思いついた子どものように笑う。初めて見るその表情にライルはまた惹かれていった。
書いてて楽しかった。
うちの息子イケメンじゃないですか?うちの息子は、ちょっとどうしようもないけれど(笑)
読んでいただき、ありがとうございました!!