第一話
遠くで、恐らくは狼と思われる生き物の遠吠えが聞こえた。それは大地を震わせるほど力強く、日が昇るたびに耳にする。
一体、何を思って鳴いているのだろうか。
遠吠えと同時に、魔王が住む"夜行城"で一人の少女がベッド――大人五人は楽に寝れるサイズ――からむくりと上体を起こした。
少しくせのある髪がさらりと背を流れる。その髪の色は、見るもの全てに瑞々しく茂る木々を連想させるだろう。
少女は身体を一度、大きく伸びをした後、身支度を始めた。
「今日もやっぱり朝が来た〜〜明日は朝が来ないかも〜〜」
身支度を済ませた後、爛々と蒼の瞳を光らせ不吉な歌を口ずさみながら、少女はだだっ広い廊下を歩く。歩いているといっても、その速さは並ではない。
その調子で廊下をずんずんと突き進んでいく少女。
ところがふ、と落ちているものに目をやり、ピタリと急に足を止めた。
その"もの"とは黒く、少女が触れた途端大きく身を震わせる。
「……ディア、おはよう」
満面の笑みで語りかける少女に、ディアと呼ばれた少年はあからさまにホッとした様子で言葉を返した。
「おはよう、メッ、痛ッ……メモリ……」
ディアは途中で下を噛んだ事に頬を染めながらも、少女の名を音にした。
瞬間、ディアの金の瞳が大きく開かれる。
メモリが、ディアの人より尖った耳を力いっぱい自身の方へと引っ張ったのだった。
「い、痛いよッメモリ!」
「人の名前で噛んでんじゃないわよ。そ・れ・に、いつも言ってるじゃない!
面倒くさいからって、廊下で寝ちゃだめだって!!」
「でも……眠かったし」
ディアの言葉は、正に"火に油を注ぐ"、だ。
マイペースなディアとは違い、メモリは気分屋なのだが――あまりマイペースと意味が変わらないのはこの際置いておこう――、ディアやお金に関しては妙に細かくなる。
「眠かったし。――じゃ、ないでしょうが。眠いからって廊下じゃ風邪引くでしょ!
こんだけ部屋があるんだから、自室とは言わないけれど、せめて近くの部屋に入ってから寝なさい。良い!?」
返事を求めるが、ディアは何故か嬉しそうに目を細めているだけ。
再度問いかけると、ようやく口を開いた。
「僕の事、心配してくれてたんだ」
うっとりと、溜息を吐くように呟くディア。
思いもしなかった返答に、メモリはうっと言葉に詰まる。
メモリは眉間をきゅっと寄せながら叫んだ。
「な、何言ってんの!? 私はあなたが……」
「僕が”魔王だから”でしょう? 大丈夫。分かってるから」
「……だったら、ちゃんと部屋で寝てよね。
――――私は、先に朝食食べてくるから。ディアも顔洗って、早く来なさいよ」
そう言い残すと、メモリはまるで競歩のような速さで歩いて行った。
一人っきりになったディアは一度何か小さく口の中で呟き、メモリに言われた事を守るためにその場を後にする。
ディアが何を言ったのか、誰も知る由もない。
と、なれば良かったのだが、そうもいかなかった。
ディアとメモリが話していた廊下のすぐ、傍。
丁度死角になって見えない場所に、長年この城に使えている魔物”夜鬼”の”夜灯”が密かに隠れていたのだった。
世間では鬼と呼ばれている種に属している夜鬼の彼だが、外見は人間とそう変わる事はない。
ただ、頭の両端に角が二本生え、瞳が血の様に紅いだけだ。
あとは少し身体が頑丈で、少し戦闘能力が高い。
それだけのこと。
人間を害するモノ達と違い、夜鬼は友好的。だが人間はそれを理解せず、少し【違う】だけで迫害する。
夜鬼は元々人間側についていた種族。それが理由でか、魔物側は彼らを嫌っている。
迫害され始めてから夜鬼の姿はみるみる減っていった。
『どこか。どこか誰にも見つからぬ地で、密やかに暮らしている』
と、仲間内から夜灯は耳にした事がある。
耳にした事があるだけで、実際には自分以外の者をこの眼で見たことはないのだが。
自分以外の夜鬼など、知らない。
自分が夜鬼なのだと、知らなかった。
知らずに迫害を受け育ってきた夜灯は、もう少しで本当に鬼になってしまうところを、この城の主に助けられたのだ。
それ以来、ずっとディアに使えている。
そんな不幸な道を歩んできた夜灯にも――つい最近出来たばかりなのだが――楽しく思えることが一つあった。
それは、主のディアルートとメモリ国の王女メモリ、二人の関係。
少々弱気ではあるが尊敬してやまないディアと、気は強いが思いやりがある芯の強いメモリ。
この二人が一緒になってくれるなら、誰よりも祝福するだろう。
――――話が逸れたが、要は二人の関係がどう発展していくかに大変興味があるのだ。
二人の周囲に甘い空気が少しでも発生すれば、どこへでも駆けつけるのが彼、夜灯である。
つまり、二人の関係を常日頃から知っておきたい。
そして知った後は、仲間にこっそりと耳打ちするのが彼の日常になりつつあった。
そして今も、見たことをすぐに伝えようと、仲間の元に向かっている途中。
誰でも良いから、この胸のうちを早く伝えたい!
夜灯の今の思考回路はただただその一点のみに集中しているのである。
城の廊下を全速力で突っ走っていると、夜灯はある人物を見つけた。
「お、リジアン! ちょっと、聞いてくれよッ」
リジアンと呼ばれた人物は、ある一点を見つめたまま、ボーっとしている。
「リジアン? リジアちゃん?」
再度声をかけるが、反応がない。
おそらく目を開けたまま寝ているのだろう。
夜灯は、リジアンの死人の様に青白い(というより、もう真っ青)額にデコピンをお見舞いする。
確か、夜灯の記憶にある中で、彼はこの起こされ方が一番嫌いだったはずだ。
「いたッ」
「やぁ、リジアン。ご機嫌いかが?」
「……最悪です。なんてことするんですか、こんなに愛らしい僕に」
「愛らしくないし、勤務中に寝ている奴が悪いぞ」
「では夜灯さんは、今まで何処をほっつき歩いていたんですか?
どうせまたディア様とメモリ様をストーキングしていたのでしょう。
そんな夜灯さんに文句を言われたくありません」
"大体、特にすることも無いじゃないですか"
と呟くリジアンに、夜灯は言葉を返せなかった。
そんな夜灯に対して、嫌味な笑みを浮かべているリジアン。
余計に己を虚しく感じたが、ここはぐっと我慢である。
「それよりさっき、主と王女がスッゲー良い感じだったんだけど」
「そう。良かったですね」
更に話を展開される前に先手を打つリジアン。
しかし、どうやら聞こえていなかったらしい。
夜灯は会話を続ける気、満々である。
リジアンは夜灯のストーキング話に付き合う気は毛頭無く、せめて違う内容に変えようと試みた。
「そういえば、さっき、この僕にデコピンをしましたよね。
とっても痛かったんですけど。もっとマシな起こし方は考えつかなかったのですか?」
「考えつかなかったね。だってさ、あれが一番リジアの嫌がるやつじゃん。
もう二度とされたくなかったら、仕事中に寝なけりゃ良い」
どうやらリジアンの思惑は成功したらしいが、何やら妙な方向に話題が転がり始めた。
「大体さ、何でそんなに眠くなるんだ? ってか、リジアンのこと、俺、よく知らねぇんだよなぁ」
「別に知って欲しいとは思っていませんが」
だが、そんなことにも相変わらず無関心で、スッパスッパ受け答えをする。
しかもどうやらまた眠くなってきたらしく、髪と同じ灰色の瞳がゆるゆると細くなっていく。
「おい、言ってるそばから寝んなよ」
「五月蝿いです。初めに言っておきますが、寝るのも僕の仕事なんですよ。ちゃんとディア様から許可は出ています」
「すりぃな、それ。俺も主に許可を貰おっかね」
とてつもなく馬鹿なことを言い出す夜灯。
「無駄ですよ。これは僕の種だけの特権ですから」
「へぇ。一体どういう種なんだ?」
「眠魅、です」
「みんみ? ……わりぃ、聞いたことねぇわ」
「それは嬉しい限りです」
「……お前、友達無くすぞ……」
夜灯の何気に酷い言葉。
だが、リジアンは少しも気にしていない様子だ。
「で、何で居眠りが眠魅だけの特権なのかってことを説明してくれ。寝るのは後にしろ」
「眠魅はね、その名の通り眠りに魅入られているんだよ」
夜灯ほど低くなく、リジアンの声よりは高くない。
不思議な声の音の持ち主。
二人はそれを聞くなり、すぐさまその場に片足折って、膝をついた。
――――――その声の持ち主は、この城に唯、一人。
「主……いつの間に……」
「ディア様、こんにちは」
青のかかった黒い髪を肩まで伸ばし、長い前髪の奥に二つ、金色の瞳が覗いている。
髪を分けて突き出している尖った耳。
それらは、ヒトでない者。
そして二人の様な種でもない者。
つまり、この城"夜行城"の主、魔王のディアルート其の人だった。
「説明は僕がするから、リジアンは寝てて良いよ」
「有難うございます。では、自室に戻らせていただきますので」
「うん、おやすみ」
「失礼します」
そう一言残すと、クルリと方向転換して、リジアンは自室へ向かい歩みだした。
「じゃ、夜灯さん。後はディア様に聞いといてくださいね」
「あ?え、ちょ、おい……」
夜灯の呼びかけも虚しく、リジアンは背を向けすたすたとこの場を去って行った。
残されたのは、にこにこと花の様な笑みのディアと先ほどまでの陽気さは何処へ消えたのか、少し意気消沈している夜灯の二人のみ。
夜灯は助けてもらったディアに絶大な尊敬の念を寄せている。
だからか、ディアに見られている、と感じるとカチコチに身体が固まってしまうのだ。
「とりあえず、座ろうよ」
「は、はい」
言われた通りに、その場に座り込む。
ディアとは少し距離が空いていたのだが、それは彼が二・三歩寄って来たためすぐに無くなった。
「リジアンは眠魅で、だから寝てても良いんだよ」
「へ? そうなんですか……」
いまいち的を得ないディアの喋り方に突っ込みもせず、夜灯はそのまま聞き続ける。
「さっき、眠りに魅入られているって言ったでしょ? 眠魅はいつも眠いの。
でも、ただ寝てるだけじゃなくて、その間に力を溜めているんだ」
「力?」
「そう、力。だから、彼らは普段ボーっとしているんだけど。
戦闘中はそこらの奴らじゃ太刀打ちできないぐらいいに強いよ。もしかしたら、"夜鬼"の君よりも、ね」
「俺よりも、ですか――――」
この魔王城にいるからには、そこそこ強いと考えていたが、まさかそこまでの実力をリジアンが持っているとは思ってもいなかった。
自分を褒めるわけではないが、夜鬼の種はそんじょそこらの魔物以上には強い、はずだ。
「ま、そんなの戦ってみないとわからないんだけどねー。
戦ってみる?リジアンと――――」
ふいに、夜灯の視界いっぱいに木々を連想させる、黄色のかかった深緑が広がった。
動きに合わせて、ふわりふわりと波打つ髪。
「王女……」
思いつく名称で呼ぼうとした時、バシコーンッと大きな音が目の前で鳴った。
普通ならば、何事かとすぐに前へ覗き込むだろうが、ここはさすがに魔王と王女のストーカーというべきか、起こったことに予想がつき、落ち着いたものである。
「うぅ……頭は叩かないで、メモリ。魔王の僕が、馬鹿になったらどうするの……」
余程、力を込めて叩かれたらしく、ディアは涙目になりながら頭を押さえた。
「は、馬鹿? 大丈夫。安心なさい。もうそれ以上馬鹿になることはないから!」
「ヒドイよぅ」
「あぁ、もう! 気持ち悪い声出さないでよね!!
それよりも。もう、さっきみたいな不穏な発言は控えなさいよ。
唯でさえ、最近兵士の中にあんたのことを不快に思っている奴がいるんだから……」
その言葉と同時に、メモリはそっと目を伏せた。
"兵士の中に、魔王のことを不快に思っている者がいる"
確かに、それは夜灯も小耳に挟んだことがあった。
漆黒の闇に、灰色の光。
それは決して明るくはないが、闇に染まってはいない。
この城の魔王"”ィアルート”は、常にその状態を守っていた。
闇に染まりきらない主を見て、疑問に思う兵士も少なくは無いだろう。
それなりに地位を持っている者。または城の中に勤めている者達は、この魔王の様子を見ている。
しかし、ただの一般兵士にとって魔王とは、例え仕えていても、おいそれとその姿を目にする機会がないのだ。
”魔王とは、強くて聡明で美形”
彼らの持っているイメージは、そんなものだ。
ディアが強いかどうかは不明だが、聡明という点は当てはまらない。美形という点もヒトによって、だろう。
始終顔が緩んでいるので、美形かどうかが分からない。
そんなディアを不快に思うのは、仕方の無いことだ。
「そーれーなーら、大丈夫!」
「無意味に言葉を伸ばすのは止めなさい。で、何で大丈夫だなんて言いきれるの」
「もうその人達、僕のこと嫌って思ってないから」
面と向かっては言えないが、心では心配をしているメモリの気持ちを理解したのかしていないのか。
ディアは朗らかに、そして、高らかに言った。
「主、何をしたんですか?」
「ちょーっとだけ、忘れてもらったんだ」
「は?」
「どういうこと?」
「一時的にその気持ちを忘れてもらったの。でもまた、近い内に思い出すんだけどね」
さらり、と怖いことを口にするディア。
どうやら、自分の力の一部を使って、実力行使をしたらしい。
夜灯は”さすが、主……!”と心でディアへの株を上げたのだが、この行動はメモリのお気にめさなかったみたいだ。
ディアは、再度メモリの鉄拳を受けてしまった。
「その場しのぎは止めなさいって言ったでしょうがぁ!!」
ディアの意識が無くなったところで、暗転。
次は、彼がまた目覚めるまで、しばしのお別れ。
ストーリー1「魔王と王女+XY」終わり。