殉教者の選択
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あの目だ。
あの忌々しいモノを、
汚物を見るような目を、
俺は忘れることなど無い。
これは神託である。そう前置きした、尊大に振る舞う大司教は荘厳を装う。
神託など有ってたまるだろうか。否、そんなものは政治の道具に過ぎぬ。
役割を終えた大司教が大聖堂の露台の奥へと歩みを進め、代わりに白い法衣を纏う顔色の良くない教皇がお付きの者に支えられて現れた。そしてこう、神託を嘯くのだ。
「第三十七回、遠征騎士団の諸君。貴君らは我らが神世の騎士として選ばれた。遙か古きに約束された地へ。我が同胞よ、今こそ帰還を果たす時である」
前置きに三十七回と曰ったのだ、三十六度の失敗を経てなにを『今こそ』と声高にご高説下さるのだろうか。
未だ続く教皇による説法など何の興味もない。そも、海向こうの陸地にどう約束された場所があると言うのだろうか。海向こうに住んでいる者は長らくその土地に住み続けているだろう。そこに住んでいる者や国をして、約束の地であるが為に外様である我々が占有すると言うのはあまりにも理不尽である。
俺の騎士団への入団など目的のための手段に過ぎず、関係のない者の安寧を脅かしたいが為の志願ではない。神を信じぬ者への暴虐がまかり通るのならば、何も信じぬ者の安寧は何に因って与えられたモノなのだろう。
人に因っては、神もまた術に過ぎぬ。
両の腕に抱いた重さは、温かに、穏やかだった頃よりも遙かに重い。
力無く落ちる上体に、立つべき元を失って崩れる足。
そのどちらにも意思はなく、またそのどちらにも奇跡など起こりはしなかった。
それは、不幸な事故だと決まった。決めたのは俺ではないし、またそれを決めたのは神ではない。
豪奢には遠く、しかして庶民には易く手に入らぬ清廉な青の法衣を身に纏う。
その男は手に持った血濡れの燭台を握りしめたまま倒れる女を見おろし、戸口にて始終を見届けた高位の聖職者がその女と、その息子を哀れむように見ていた。
神の名を語れば、人一人の死が英雄譚に変り、奇跡の贄代と語られ、そしてただ一人の死が消えて無くなる。
覚えているのは、ほんの些細な話の行き違いだった。
物心つく頃には父はいなかった。母は縫物師として仕立ての工房を持ち、家では始終机に向かって服を作っていた。それこそ高位の法衣から街娘の服まで、片っ端から仕事を受けては親子二人の食い扶持を稼いでいた。
ある日、懇意にしている教会から母が淫猥な行為をもって金品を得ているとの密告を受けたと、三人の聖職者が訪れた。
信仰に篤い母がそのような事実はないと答えるに、奴らは寄って集って母を糾弾した。
戸口に黙ったまま立って誰も逃れられぬようにと塞いだ、聖職者としては身綺麗な男。
他に眼下のくぼんだ疲れた顔をした男が母へ、聖職者とは思えぬ罵倒を浴びせかけ。
物乞いのような汚れきった法衣を纏う男が、家中の棚や引き出しを漁っては床へぶちまける。
後ろめたい事がなければ何を隠す必要があろうかと、謂われのない罪を声高に掲げ、親子二人の狭小な世界を蹂躙する。
俺はその始終に恐怖し、ただその場にうずくまって自分だけを守った。
蹴散らされる家財の音に恐怖し、それが俺の体に当たれば悲鳴が口から勝手に漏れる。そこで守れるのは己だけ、丸まってすがりつく神を失した俺に成せることなど一つもなかった。
怒声が響き、撹拌された我が家は既に俺の知りうる幸からかけ離れていた。
「女、お前一人でこれだけの家財を揃えられると言うのか。銀の燭台など、何故持ち合わせるっ」
「それは――」
どうしてそんな物が家にあったのか知らない。ただ、母はそれを大切にしていて、それが一度として錆び付いた時を見たことはない。手入れを怠ったことのない、唯一、母が物に執着するのがソレだった。
その時初めて知った。今に母は俺の前に立ち塞がり散逸する物から守ってくれていたのに、母は血相を変えて燭台に追い縋る。
奪われてなるものかと、母よりも頭一つ大きな眼下のくぼんだ男に掴んでかかっていた。
押し退ける法衣の袖口に小さな拳を握り、もう片方の手は遙か頭上に掲げられた燭台に伸ばされる。
身の丈に合わないもの。確かにそうで、母の行いは普段金品に執着しない様からは想像も付かないもであり、今まさに眼前で燭台に縋る母を見て俺はその瞬間、疑念と妬みを覚えた。
母が求めていたのは神の救いだったのだろうか。
金品への執着か。
それとも、別の何かか。
そんなことは、もう、どうでもよい。
掲げられた銀の燭台は縋る者を打った。
打ち払われ、目を見開いたまま、ただ縋りついたソレを求めて崩れていった。
その場に居合わせた誰もが『行い』に沈黙し、誰もが目を奪われた。
戸口より向こうが別世界だとでも言わんばかりの喧噪に、我が家はただ教会の祈りの場よりも遙かなる静寂だった。清廉なる祈りの場に神など居りはしない。
ただ与えられた無間の静寂など、神の与えた祝福ではない。
俺は四つ足の様に母のもとに駆け寄り、倒れた母を抱き起こし、居合わせた者を見た。
青い法衣に返り血を浴び、錆色に似た血濡れの燭台を手に提げ、光景に動揺する男。
嗤いながら物取りのように家捜しをしていた手を止め、ただ怯えに従う男。
戸口で始終を見て、ただ母に一瞥をくれ、俺の顔を哀れみの目で見た白い法衣の男。
あの目だ。
軋む音。帆船の揺らぎに慣れた頃合い。
遠方に望む薄らいだ水平線が途切れ、赤銅色の陸地が見えた。
「丘だーっ」
水夫の一人が大声を上げ、それに続いて皆が一斉に伝達する。
それが彼らのやり方で、初めて見知った慣習に緊張の度合いを一層高めたのは我らの性に違いない。
何よりもまず海戦など不得手である。元々陸上騎馬戦を得意にし、弓兵と法術の連携にて縦横無尽に駆け、蹂躙する法術騎兵主体の兵団である。それを狭小の船上などにて存分に振えるはずもない。期待するのは玄人たる船乗り達であり、我々は今や「客」でしかない。
「船を着けるのはあの港で良いのか」
「港?」
「ほれ、あそこですよ子爵殿」
「俺をそう呼ぶな」
さも当然のように指を向けられたのは赤銅の大地。それにしか見えず、また副官のドネルにもさっぱり見えないと肩をすくめられた。
「ははぁ、こちとら慣れちまってるからよ」
慣れているからと言って、あまりにも遠く離れた陸地を指してあの港と言うのだから相応に我々とは違う玄人達の技を見るに、これより先が思いやられる。
幾人もが沈んだ海に至り、慣れぬ船旅に士気を落とし、分散した我が隊の人員にどう指示を飛ばせば良いのか計りかねる。
船団は総数七十隻、一隻あたり百五十ほどに分乗しており一万余りの戦力である。
三千五百ほどは船員であり海戦を目的とした人員で、地上兵力は数七千ほど。内、俺に与えられたのは大隊六百の人員だった。
「港に着ける前に、相手方の海兵力と応戦しなくてはならないだろう」
「さあ、どうかな」
聞くに、この男は二度遠征に参加した事があるという。1度目は船乗りになった年。十も半ばの少年であった頃に今回と同じように人員を載せこの海へ来たという。その時はここよりも沖で会敵し、海戦にて父を失い、自らも足を裂かれて死の淵を彷徨ったとか。
二度目は数年前、その時もここよりも沖で会敵し、大船団をもって迎え撃たれ、ろくに戦果もなく撤退したと言う。彼が本当に以前の遠征に参加したのは他の乗組員が言うに相違なく、実際に共に参加したという乗組員も少なくない事に今回の船旅に疑念がぬぐえなくなってきた。
なぜ幾度も勝ちを誇ってきた海戦を今度は捨ててきたのか、理解が及ばない為である。
「これより奇襲を仕掛けてくる可能性は」
「丘に着くのは夕から晩だな。向かい風でほとんど進んでねぇ。夜襲を掛けてくる可能性はある」
丘からの暖かい風を真っ向から受け、赤銅色の大地を眺める。
皆、祈るような気持ちで居るような顔をして、その先を眺めていた。
俺には、ただ忌々しい時間だけが流れている。
「どうぞ」
「結構だ」
差し出された酒瓶を手で制し、狂騒のただ中に頭を痛めていた。
予想された夜襲など無かった。その上、港とはいえただの魚村程度の規模でしか無く、小さな酒場や飲食店にのべ一万もの人員が押し寄せて略奪のように食料を食いつぶしていた。
「落ち着け、これが罠だったら――」
「罠だったら一服盛るでしょうよ、子爵殿」
その通りではあるのだが、だからと言って諸手を挙げてこれを享受するというのは問題である。侵攻するべき敵国の領民に施しを受けるような騎士団など論外だった。
人心を掴むのは神への信仰心ではなくただの食い気と色気でしかない事は明白であるが、この遠征の大義名分を誰もが知っていてなお、誰もがその侵攻とは無縁の行いである。
騎士大隊を預かった者としてこの状況を看過するわけにはいかない。
「聞け、我が大隊は以降飲酒を禁ず」
立ち上がりに卓に手を突いて衆目を集める。大陸特有の露出の多い麻服に、日に焼けた小麦色肌をした娘達に酌をさせて上機嫌だった面々が、次にはしかめっ面を貼り付けて恨めしそうに不承不承と俺に追従した。
「食うだけ食ったろう。今日も楽しい船宿だ」
「また揺れる寝床ですか。宿でも借りましょうよ。子爵殿」
仕方なしに立ち上がる面々は皆、俺が覚えている顔だ。
長らく付き合いのある騎士団連中は当て付けに子爵殿と曰いながらも従い、この遠征において世話になっている水夫達からの信頼など皆無で、一様に倣うのは船乗りの先達たちだった。
「もし罠だったら何処に行く」
「あー、女の所かな」
側にいた水兵が下らない口答えに合わせて娘の尻を撫で、平手で打ち払われてなお、その眼中に尻を捉え続けていた。
明けの頃。
百余名のいびきに寝言。見張りに立っていた幾人の脇を抜け、船長の元へと参じる。思う所があり、未だ薄明るみに稜線の曖昧な空向こうを眺めながら、叩いた扉の返事を待つ。
流石に荒波の急場を抜けてきたと豪語する船乗りの長だけあって、扉を叩いてあくびのの暇無く入室の許可が出る。
約束された地へと赴く前に、石を一つ置いて征かねば。
神世に祈りが届くのならば、どうか祈って欲しい。
赤銅色の砂塵が舞い散る荒陵の地。高台へと先見の隊を出して哨戒させ、七千の騎士団は見慣れぬ風砂の地を征く。
馬の足が砂地を上手く掴めないのか足取りがおぼつかず、思いの外、先々に見える集落や水場までが遠く思える。
枯れた赤い土地はあまりにも高説の『約束された地』とはかけ離れていて、我々が帰還を果たすなど、こちらから願い下げたい。このような場所を奪えたとして、大陸に覇権を唱えるための橋頭堡となるのかすら甚だ疑問だった。
騎士団長の命に従い、団中央右翼に六百を揃える。今必要なのは為政者や権力者達の思惑に疑念を挟むことではない。その自らの手を用いぬ人間などへの言い訳に今や心砕く必要もない。必要なのは手を汚し、共に居並ぶ彼らのことだけだ。我々は彼らの駒であるようで、その実各々に意志を負っている。誰もが果ての地は選ぶものだ。それに相違有っては彼らの知る辺へなんと懺悔せねばなるまいか。
「ウォードウィン子爵」
長らくを共にした愛馬の上より隊の行く末を案じ、これより迎える大勢を夢想していた折、他の大隊から伝令が馬の鼻先を揃えてきた。
「ナシュワカン騎士団長より陣をより両翼へ広げよとご命令です」
「見晴らしの良い砂漠で索敵陣形を取れと?」
「砂丘によって遮られた方位への哨戒を厳とする旨、仰っておりました」
哨戒の任は重要だが、この砂漠の稜線でどこに隠れようというのか。もし丘陵の一つ裏に隊が待ちかまえていたとして、薄伸ばしにしたこの騎兵隊は脆弱でしかない。
取るべき哨戒方法としては小隊、中隊単位での集団行動であり、必ず法術師、弓兵と共に騎兵隊は運用されるはずである。それをして弓兵、法術師を大隊中央に残して騎兵を両翼に広げろと言う。
確かにいくつかごくごく小さな集落を通過するに、遊牧の民は怯えつつも誰も彼もが両軍に対して分け隔て無い態度で居たが、その中に相手方の密偵が居ないとも限らない状況下に、連携戦闘の陣を崩すのは早計ではないのか。
遠征の地に哨戒のためと言われようも「少々の」という言葉で犠牲を出すのはまかりならない。
「団長へ。我が隊は小隊編成にて中規模連隊陣形を取る」
「しかし、騎士団長は単横哨戒陣形に――」
「哨戒範囲はそれに準じた範囲へ広げる。足並みは砂漠故にどうせ鈍る」
「……承知いたしました。ではこれで」
騎士団長への報告がその意に沿うものではないと解るや、不承不承といった態で伝令は馬をそっぽへ向けて離脱していく。
「よろしいのですか」
「かまわん」
ドネルが声色に心配を装って言葉を掛けてきたが、その実、腹の中ではナシュワカンへの当たりに笑いを堪えていると見える。ドネルの父はナシュワカンに取って代わられた様なもので、心底ナシュワカンを毛嫌いしている。元々教会の小間使いの様な男だったナシュワカンが、伯爵家当主を陣左翼に追いやって中央でふんぞり返っている。
現状でも陣、右翼と左翼の連携が不十分だと見て取れる。我が隊は中央右翼に有り、見ようと思えば丘陵頂点から左翼まで見渡せ、無論右翼も全容を伺うには申し分ない位置にある。慣れぬ砂地に馬の足並みが揃わぬままに、索敵の陣形を取れと曰ったのだからアレには才能がないのだと良く解る。騎士団の面々も言うがままにナシュワカンの命には従うものの、実質指揮を執っているのは左翼中央にて完全な陣形を整えるドネルの父、ライアン・エウグニス伯爵、その人だった。
ドネルは伯爵家の人間で、その上嫡子である。俺のように子爵家へ養子に取られた駄馬とは違い、生まれながらにその責を負い、そしてそれを体現してきた男である。
俺は子爵であり、伯爵家よりも下の位である。伯爵家の嫡子とはその爵位も継ぐべき者であり、本来は対等ではない。しかし、このドネルという男は俺よりも年上でありながら副官として下に就こうとする。
目通りの叶った折、ライアン・エウグニス伯爵によれば「継いでなければただの人」との事で、ドネル自身、その自らの手で身を立てられなければ「家柄」も「爵位」などもただの飾りでしかないと言い切る人間であり、俺の下でありながら必ず家格に見合うだけの者に成り上がろうという心意気を有する。生まれながらの「爵位」持ちに相違ない。
それに引き替えての、あのナシュワカンである。
「団長殿に失策が有れば席が一つ空くのだから、一向にかまわぬ」
「失言ですよ。子爵殿」
「何を言う。そこにお前が座るんだ。そうだろう、伯爵殿」
小高い砂丘に居並んだのは駄馬と凡夫。
神世があるならば、心から祈って欲しい。
青天の霹靂。澄み渡った青空に、一点の黒闇の染み。
細かな荒れ草の点描が広がる、漠砂の丘陵より望んだ。哨戒の先見がそれを見つけ、追いすがるように隊の皆がそれを見つけたとき真に知った。
「船……?」
砂漠を行き来るのは見紛う事なき船団。船体は黒く墨に濡れ、砂漠の野を走っている。
船とは蒼海を行くモノだ。それがどうだ、今に赤銅色の噴煙を上げ、翻る灼赤の帆を真っ向に据えて来たる。
「……港に船が居なかったのはこれのお陰か」
誰にでも無く口から漏れた言葉を遮るために唇を噛む。必要なのは目の前の奇跡でも、妖術でもない。導である。
「大隊っ! 船団進路より離脱っ!」
大隊の足を揃え、団の最右翼に進路を変える。向かい様、擦れ合う大隊、中隊、小隊に船団進路から外れるように命令、あるいは進言をし、可能な限りに接敵を回避させる。
展開翼の違いからライアン伯爵の動向はうかがい知れぬが、おそらく同様の退避行動を執っていることであろう。他に大隊を任された指揮官達も同じく船団進路から退避を始め、事の重大さに今更ながら気がつく。
砂漠で隊を分散させた事に。
「来るぞ~っ!」
轟々と砂が鳴る。船体に擦れた砂が海嘯の様に寄せ、逃げ遅れた隊を攫う。軋む船体の音に見合わず、その漆黒の船には傷一つ無く、砂丘をも衝角にて文字通り粉砕して陣中に止まる。
吹き上げた砂塵に方向感覚を失い、恐慌に陥った軍馬が歩兵や他の馬たちに当たり、混乱の度合いが増す。
一寸の間もなく陣は瓦解し、更に何の攻勢も受けずに死傷者が出る。七千が二分され、更に一部は船団の進路上にて圧壊した。
「矢だっ! 盾構えっ!」
船団の足をかいくぐってなお、船上より矢の雨が注ぐ。
完全に先手を取られ、その上に攻勢のしようもない船上である。船底は砂地で、それよりも遙か上方に弓兵の陣。こちらは砂煙に目を奪われ、長らく共にした馬達の恐慌に為す術が無い。
早々に下馬した後、落ちていた盾を拾って砂地を駆ける。
「子爵殿っ! 何か、何かっ!」
「船だっ! 動けるならば真下に入り盾を構えっ!」
凡庸ながら船自体を盾に、上方から打ち下ろされる矢を回避するしかない。敵方の船の下に逃げを打ち、隊を纏める。
こちらの弓兵が応射してみてもそれは当たっているのか解らず、火矢を射かけても黒い船体は防火の役割を果たすらしく、無駄となる。更に法術を用いようにも陣中に術者を据えて集中させなければならず、混乱下にて人員を集めることも、落ち着いた場所を用意することも叶わない。
混乱の渦中、盾を構えつつ、沈黙した味方の剣を拾う。
「そんなに集めて、何するつもりですっ」
幾人か従えて雨矢の中で剣を拾う。ドネルに両手一杯に剣を拾わせ、俺は両の手に盾を据え、それを守る。
「船体に突き立てて登るっ!」
矢の雨は船体横、両舷より打ち下ろされていて、船尾からの射角はほとんど無かった。
砂塵はこちらの目を潰すものだが、逆に捉えればそれはこちらの蓑ともなる。この戦術は圧倒的優位が故に、船上に陣を取った敵方の慢心を生んだ。
行き当たりの苦肉策の割に、意外にもうまくいった。騎士団の面々は剣に矢に、馬の手綱にと手当たり次第のもので足かけや縄はしごをでっち上げ、何とか船上に躍り出た。
半刻も無かったろうに、一寸の悠久でも経たように青空の下に抜け出た騎士団連中は晴がましくも船上にいた弓兵や向かい来る兵をなぎ倒す。
聞き知った限り相手方は海戦は得意である。ならば正真正銘の白兵戦に持ち込めば事は優位になる。今までに船上へ乗り込まれた事は皆無だったのか、相手方の攻勢は思ったよりも手ぬるい。
狭い船上であっても白兵戦に秀でる我が隊の敵には能わず、俺が乗り込んで間もなく完全に制圧した。
同様にいくつかの船を掌握し、船舶間での矢の応酬に変わる、敵方の弓矢は短弓で船上からの打ち下ろしに特化したものでしかなく、更に狙いすまして打つ事は得意でなかったらしい。
対して馬上より打ち射る我が騎士団の弓兵は長弓であり、一射にて必殺の矢。元来の用途として動く重装甲冑の標的すら射殺す強靱な弓矢である。
遮蔽物さえ間違えなければ相手方の弓は重石の投擲程の威力で、対してこちらの弓兵は鉄鎧と鎖鎧を一緒くたに射貫く。
初手と雨矢にての兵の損失は大きいものだったが、相対した後の損耗はさほど多くはなく、分断された左翼との合流を予定するにはさほど時間はかからなかった。
「敵船団十三隻、制圧完了しました」
「良し。隊の再編成を行う。ドネル、指揮官を集めて再編成の――」
「長。中隊以上の指揮を執れるのは長以下四名です。それに、人員は総数千七百」
「……指揮官級はお前も含めてか」
「含めて、です」
聞くに指揮官級の人員は狙われたらしい。ほとんどの隊が騎士団長の命令した陣を用い、中央に指揮官以下歩兵隊を集め、両翼に哨戒騎兵を走らせた為、それぞれの隊中央への船団突撃にて指揮官、弓兵、法術師の損耗が酷かった。
あの大隊中央に指揮系統を集中させ、騎兵による哨戒戦術はこちらの常套陣形であり、敵方に知られていれば船団突撃が隊中央に成ったのはなんら不思議ではない。
ナシュワカン団長の陣形指示は敵方の思い描いたとおりの展開でしかなく、途中途中の集落で密偵にて陣形を把握されていたのだろう。
まともに弓兵、法術師を運用できるのは我が隊のみで、他は再編成をしてようやっと二個大隊の陣形が取れる程に弓兵と法術師を失っていた。
「他の指揮官は誰だ」
「マグダス卿、ワンウィック男爵です」
「――糞」
マグダス卿もワンウィック男爵も「指揮官級」ではあるものの、指揮を執らせるにはあまりにも無謀だった。マグダス卿には優秀な副官が居て、もっぱらその男が指揮を執っているというのが常識で、名前が挙がらなかったからにはその男は死んでいる。
そしてワンウィック男爵は周りの者に男爵に担ぎ上げられ、政治的理由から騎士団に送り込まれただけの、弱冠十七歳の子供である。
「まともに指揮を執れるのは」
「二人と言うことに」
間髪など入れず、冗談半分で答える。千七百を自力で率いろという事に違いない。千七百を率いる事に何の躊躇いもないのだが、問題は有象無象の集まりという事である。内五百は自前の、我が大隊の生き残りだが、問題は千二百の頭数にある。生きているから頭数には数えているが、実働で千にも満たない兵である。負傷者を二百余人抱えて状況を打破しなければならない。
「ライアン伯爵と合流しなければ負傷者全てを生きて帰すことは出来ないな」
「我々が生きて帰るにも、ですね」
「――」
赤黒い血がそこらに固まった船上に、騎士団の幾人かと考える。
「三百を負傷者と共に残す。残りは俺とワンウィック男爵で率いてライアン伯爵の隊と合流する」
「自分がマグダス卿のお守りですか」
「同じ伯爵同士、なんとかしてくれ」
「そうですね」
頭の古いマグダスは爵位に拘り、下の者には横柄であり、上の者には媚びへつらう卑しい人間の典型である。俺がマグダスにかかずらう時間など無く、ドネルがこの場を死守する事により、間接的に父が助かるのなら喜んで留めてくれるだろう。
「では行ってくる」
「御武運を」
神世には祈りの声が響いているのだろうか、どうか届いていることを祈って欲しい。
戦場には希に、英雄が生まれる。
砂塵の起こり立つ場所に帆柱がすくと見える。落ち着きを取り戻した馬を集め、左翼に展開していた大隊との合流の為に走る。やはり砂地では思うように進まず、幾度か足を取られつつも砂丘の稜線を伝って迫る。
未だ矢を船下に向けて放っている所を見るとライアン伯爵以下、大隊の幾らかは応戦しているようだが、船上へ上がるのに苦労している様だった。
時折動いたり止まったりする船が六隻。止まって沈黙する船が九隻。やはり陣形の内訳を相手方に知られていたようで、知将と名高いライアン伯爵を仕留める為だろう、右翼よりも多くの船が詰めている。それでもなお応戦の色が褪せないのだから、確実にライアン伯爵は存命しているだろう。
最寄りの高台に俺とワンウィック男爵以下千百余名が陣取り、俯瞰する。
敵陣の穴を見つけ、確実性を上げてライアン伯爵以下、騎士を救わねばならない。
各船、舳先を一定に揃え、船は転舵を繰り返す。砂塵を生み続け、あわよくば轢き殺し、足りないのなら矢を射かける。船体脇を抜けてゆく風の影響か、時たま騎士甲冑の姿が見える。その時、俺の真横に居た一人が馬足を進める。
止める間など無い。軽い駆け足などではなく、よくもまあこの砂地でそれだけの速力で走れるものだと感心するような馬足の運びである。良く息の合う人馬にしか行えない神世の技。初速より全開、追いすがる我々を置き去りに、ワンウィック男爵が愛馬と共に戦場に躍り出た。
そうなってしまえば乱戦に身を置くしかない。大隊には先の通り、船上へ上がっての白兵を命じ、俺は無謀と勇猛をはき違えたような子供を追う。
だがワンウィックの行いはそのどちらでもない。
無謀と呼ぶには計算された走りで、勇猛と呼ぶには臆病でもある。
駆け様に戦いの意志はなく、ただ目標を一つ持って砂上を駆け抜けた。
「エウグニス卿っ」
聞き覚えのある声。ワンウィック男爵が吠える。先には上体を起こした誰かが座っていて、側には見知った馬が横たわっていた。ワンウィックが遠景より俯瞰し、見つけたのはこの光景だったのだ。
走りざまに馬上から体を横に落とし、上手く足をかけたまま手を伸べる。無謀な体位に見えたが、ワンウィックは苦もなくライアン伯爵をその両の手で掴み上げ、馬上へと上体を載せた。
その始終を、ただ俺は見ていた。
神世には神が居るのだろうか、どうか居ることを祈って欲しい。
「父上っ」
「うるさい、響く」
滅多に親のことなど気に掛けないドネルだったが、落馬して負傷した父を見て極まったらしい。
船団全てを沈黙させるのにかなりの時間を費やし、日が暮れてしまった。
どうにもライアン伯爵と騎士団長を叩くために相応の将を乗せてきたらしい。援軍に送った我が千百五十の損耗もあり我が大隊、ライアン伯爵以下左翼大隊、中央ナシュワカン大隊を合わせて四千となった。七千の内三千が異国の地で、たった一度の交わりで果てた。
これは既に大敗である。
「撤退を進言いたします」
誰でもない。俺は真っ向にナシュワカンに当たる。
三千の内、騎士団で重役を担う弓兵と法術師の数が圧倒的に足りない。弓兵と騎兵の機動力に合わせ、更に法術による大規模攻撃にて野戦、攻城での優位を得る戦術が使えない為だ。無論、ライアン伯爵以下、左翼で指揮を執った指揮官達は賛同してくれたのだが――
「駄目だ。目的の地、アルブレラは陥落させねばならない」
「お言葉ですが騎兵の換え馬も足りず、弓兵の頭数が足りず、法術師の――」
「そんな言い訳など聞きたくない。ジェウス教皇台下に申し訳が立たぬ」
ここに寄るのは教皇より集められた聖騎士というお題目にはなっているが、その実、義理を通しただけの関係に過ぎない。
ある者は聖騎士としての務めを真っ当に果たそうとしている者も居るだろうが、この場に居合わせる殆どが金の為、家の為、義理の為と、神聖性など皆無である人間が殆どである。
無論、このナシュワカンですらそんなものは信じてなど居ない。
一番に無神論であろう者がよもや『約束された地』などという世迷い言の様な「神託」に殉じるはずもない。ナシュワカンが欲しい物は名誉と地位のそれで、我々など有象無象の駒程度、矢を避け風を避けられるならどのような肉でも構わないとでも思っているに違いない。
あの時の様に。
「都市攻略の前に半数近い兵を失っております。攻城戦の後、敵方救援隊や奪還本隊に寄られては全滅は――」
「うるさいっ! お前らがどれだけ死んでも構わねぇっ! 俺を守って戦って、アルブレラさえ落とせば良いんだっ!」
敵方の船室を会議用の部屋とし、そこに生き残った指揮官級の面を揃えてただ醜態をさらし続けるコレが我々の大将だというのだから虫唾が走る。元より誰一人この男を信用していない。信頼、などという崇高な言葉ではなく、信用していない。そも、用いる価値のない人間であって、ここに集う騎士達は別の許に集っている。
あわよくばと願ってはみたものの、こうも都合良くほざいてくれたものだ。
長い卓を前にただ一人立ち上がり、可能な限りその愚劣に歩み寄り、あらかじめ拾っておいた敵方の剣を抜く。
「きさ――」
その薄汚れた口で喋るな。そのみすぼらしい手で遮るな。
その卑しい手で何を盗んだ。これより先、どれだけを奪う。
二度と俺の前で野卑なる暴虐を許すまじ。我が安寧の家を、汚すまじ。
ここでお前達の「神」の名の下に、俺が断罪す。
ナシュワカンの手の平を突き穿ち、そのまま甲冑の開きである首元まで押し詰めた。
「ナシュワカン騎士団長が戦死された。これではアルブレラ制圧は不可能だと思われるが、皆、如何か」
振り返って面々を眺める。誰も、否とは唱えない。
こちらの居場所が割れていて、疲弊している。
強襲が失敗したのと知らせが本隊にあれば、おそらく後を詰めてくるはずである。
可能な限り物資をとりまとめ、亡骸と不要な装備は敵方の船内に残し、火を放った。
外面の黒く塗られた船体は燃えにくかったものの内側にはそれは無いようで、放たれた火は跡形もなく彼らを消した。
夜行ではあるものの、なんとしても港に帰らねばならぬ。
体制の立て直しを計る暇はない。ライアン伯爵を筆頭とし、ここまでの行軍よりも早さを重視した。砂漠を行く船があるのでは馬の足では心許ない。
船を制圧した折に、敵方の法術師に尋問をした所、風を生む大規模法術を船一つ一つで行い、それを利用して漠砂を走るという。同じ法術が用いれないか当方の術師に相談したものの、敵方の用いる法術を真似るには相応の時間を要すると返答され、結局船は燃やすしかなかった。
敵方に優秀な法術師を用いての進軍手段があるのならば、我々は今や野に放たれた兎と変わりない。可能な限り距離を取り、一刻も早く巣穴へ潜り込まねばならない。
日が暮れたものの星明かりで朧に丘陵の線が未だ見えており、向かう導には困らない。
率いるのは八軍。ライアン伯爵筆頭の再編騎士団。
敵船団の強襲にもかかわらず、兵の損耗は右翼より少なかった左翼総数二千二百余。
再編成を行って存命の左翼指揮官四名、右翼指揮官四名による八隊体制にて敗走の陣である。まともに動ける人員は既に三千に迫ろうかという疲弊具合ではあるが、負傷者を馬に乗せて可能な限りを帰る。流石に一日歩き通して休息も取らず折り返しているのだから一様に足取りは重い。
幸いなことに天候不順なのか、日中に思ったほど気温に悩まされなかったものの、陽が落ちて辺りが暗くなるにつれ、信じられないほどに気温が下がった。
足場の悪さに、体力を奪う気温の低さ。
同じ日柄とは思えぬ砂漠の洗礼に、行軍の足は鈍っていた。
時折寄せる海風であろう向かい風は我々の帰還を阻むような忌々しい風で、行くも帰るも風に嫌われた遠征だった。
風に潮騒が乗り始め、皆安堵の表情に変わる頃合い。真後ろの薄暗闇に軋む音。
「船だ! また来るぞっ!」
後いくつか丘陵を越えさえすれば港付近だろうに、疲弊しきって馬脚を進めるのもやっとという場所で後詰め、黒船の襲来である。
漆黒の怒濤が迫り来るに、速度の衰えが見えない。
星明かりがその全容を照らし出す様は、聖教画中に描かれた終末の日に重なる象形に見えた。とても全隊を退避させるには時間がない。
見つけてから反射的に馬の鼻先を変えて歩みを進めたとしても、馬達の疲弊も極まり早足すら覚束無い始末だった。可能な限り、船団の進路中から退避したものの、ものの見事に一大隊を砂塵の波に攫われた。
漆黒の船団は我々の存在を知ってか知らずか、追い越して海へと向かっていた。奴らの、法術で砂漠を進む船団を用いる陸戦戦法を一度打破した我らが騎士団である。奴らはそれとの直接対峙を避け、港に停泊しているこちらの船団を直接叩く算段だろう。
退路を断ち、必ず仕留めようという明確な意思表示である。
向かい来る船団を避けたにもかかわらず、それを追って港にある我々の船を守らねばならない。
「ぬおりゃあああっ」
「~~っ!」
残り七大隊、兵数三千五百余。指揮官数は未だ八人が存命だが、大隊の兵士、負傷者約五百が先の波に失われた。
健在である我々が港に着いた頃には、遠方に停泊していた騎士団の四十あまりの船団が黒い船に奇襲を受けて轟々と灼赤の噴煙を上げていて、港町のそこら中では剣戟が鳴り響く。港町に代わる代わる休息に来ていた船乗り達と先の漆黒の船団員が切り結んでいて、夜襲による劣勢に、係留している船舶の半数、約十隻が既に燃えて沈もうとしていた。
騎士団は皆、既に疲労困憊ではあるものの戦場にて如何様に有ろうとも言い訳は許されない。口を利く暇があるのなら、そこは戦場ではない。
「残りの船を奪還せよっ! 以降、一隻でも欠けば帰る足はないっ!」
早足すら叶わぬ馬など今に用はない。そも小さいとはいえ、街中で馬上の戦いは出来ぬ。戦える者は早々に下馬した後、手頃な者から切り伏せる。船を焼こうと支度を始める敵の法術師を見つけては可能な限り切り伏せ、船上での白兵に特化して居るであろう細身の曲剣を振り回す手合いを剣ごと叩き切り伏せ、係留してある船にこちらの弓兵と法術師、船員、手練れの騎士を同乗させて即座に出港させる。
遠方で戦う四十の船団に何とか無事でいて貰わねば騎士団と船員達の帰る術が無くなってしまう。弓兵の能力はこちらの方が上である事は先刻承知であり、町での白兵は騎士団の優勢に傾きつつある。
「ウォードウィン子爵っ! 首尾はっ!」
存外にもお飾りでは無かったワンウィック男爵が鎧を返り血で濁々に汚して駆け寄ってきた。その間にも駆けて寄ってくる敵を難なく二、三もついでとばかりに切り伏せて。
「出来るだけはやった、後は祈れっ」
「了解しまし――たっ!」
喋る間にもまた上手く体を反らせて曲剣の妙技を避けて見せては、お返しに切り伏せる。当人は知らないだろうが、心内で謝っておこう。子供などこの騎士団には居ないと。
この遠征は大いに失敗であった。それを知るものは、騎士約三千百余名、船員約五百余名。
「子爵殿。ここはありがとうと言うべきか、一緒に戦わなくてすまねぇと言うべきか」
「どちらでもいい」
後詰めの船団二十二隻をなんとか倒しきり、今は騎士団が運ばれて来た船で帰還の徒。
皆疲弊しきり、事切れたように騎士団員の殆どは眠っている。
船が港町に着いた夜。無理矢理酒宴を切り上げさせ、この船の船長に掛け合った。
『やはり敵方の罠の可能性が高い。一応だが、港から離れた場所に船を隠して置いてくれ。可能なら他の船にも言って回ってくれ』
昨日の夜、船長は胡散臭そうに俺を半眼で睨んでいたが俺の勘を信用してくれたらしく、更には全十隻もの船が夜襲の難を逃れていた。夜襲にあった船の内、航行に支障のない船は十一隻で、総数二十一。行きならば百五十ずつ乗せていたが不要な物を捨て、国に帰ることだけを目的としたならば全員合わせて三千七百余が乗船できた。
三千七百余。一万を超える人員をもってして四割にも満たぬ頭数になった。
そこには俺、ドネル、ライアン伯爵にワンウィック。どうでもいいがマグダスも助かったらしい。他生き残ったのは大隊指揮官四名、騎士団員三千百余名、船員五百余名。
今までの遠征では殆どが海戦による敗北撤退で、敵方が風の法術を用いて優位に居る事すら分らなかった。内陸に入り込んで敵方の船が砂地を行くと知り、戦術のいくつかを知った。これらが持ち帰られる最大限の「戦利品」であり、以降遠征にはこれに対抗すべく戦略や戦術が練り直され、対抗手段となる法術の発展方向性も見えるだろう。
数えるには易いが、あまりにも多くを失って犠牲とだけ銘打つことは許されない。必ずや彼らの戦利として、後日に語られねばならぬ殉教である。
俺を知るに、彼らの安らぎを祈って。
船上から見知らぬ海へ、騎士団兵士それぞれに与えられた祈り具を手向けとしてほうった。
国へ帰還して数日、聖堂へ出頭するよう命が下った。
色つきの硝子窓に、西日が差し込む薄明かりの大理石回廊。
薄闇に潔白と清廉さを頑として誇張する様は、あまりにも滑稽だった。しつらえの良い青の絨毯は踏む者の心を量る様に柔らかに沈み、先導を担う清貧を描いたような聖職者は軽んじた心持ちが隠せないとばかりに絨毯を安く踏みしめる。
手にもった簡素な燭台の上には儀礼用の残りだろう濁りのない蝋の塔がある。それ一本に如何ほどの価値があるのか推し量るに堪えない。
押し開けられた樫の木の扉には祝福と再生の祈りと称した悪趣味な彫り物。
通される度にこの家に「神」など居ないのだと、背に悪寒が及ぶ。
「ウォードウィン子爵。そこへ」
「はい」
わざわざ一度立ち上がり、手で末席へと勧める。場の仕切りはその男、エリアーデ大司教によって行われるらしい。
エリアーデがにたりと嗤うに、どこかにナシュワカンの返り血でもいまだ付いているのかと空想した。あれは愛想などというものではなく、自らの寛容さを広く布分するための演技でしかない。この場に居合わせるライアン伯爵、ワンウィック男爵、マグダス伯爵、ドネルに、他四名の大隊指揮官達などにはその猿芝居は無用だった。
与えられた席前に立つなり、
「ウォードウィン子爵。この度は貴殿の謀りによりナシュワカン騎士団長を亡き者とし、この神聖なる遠征の軍を台無しにしたそうだな」
どうせマグダス辺りの点数稼ぎに差し出されたのだろうが、そんな事は問題ではない。
「ええ。ナシュワカン騎士団長殿はアルブレラ攻略を断念し、その上錯乱されて全軍を危険に晒した為――」
「偽りを申すなっ! ここは神聖なファシュナハル大聖堂だぞっ」
たかだか「善意」で建てられた石造りの「大きいだけの小屋」に何の価値が有ろうか。嘘偽りなど、神は見抜けたことなどただの一度もない。
薄闇の中にてもマグダスは顔を赤くして激高を演じているのが解る。鷹揚に神の住まう処で偽りは許されないと老騎士は熱弁を下さる。
「ナシュワカン騎士団長は敵の間者で有った可能性がございます」
「馬鹿な」
その言葉に相当に驚いたのは大司教のエリアーデである。旧知であろうエリアーデの顔には、真に驚きの色が見て取れ、正義の人を気取っていたマグダスですら続く言葉を飲んだ。
「それは、どういう――」
「我々の行軍はほぼ全て敵方に伝えられていた可能性が大いにあり、騎士団全隊を無用にも危機に落とし入れんと無謀を命じました」
あの時、約束された地へ辿り着いていたとして、そこを我らが神の拠り所として得られるのか。無論、ただ眺めた覚えを抱いて、そこに眠るだけだ。
「そも、不徳者である盗人を騎士団長にした事が間違いでは有りませんか」
「――な、何を」
「エリアーデ大司教。ナシュワカンは過去、無垢なる人を殺め盗み働きをしていた事をご存じのはずだ。それを知っていてなお、約束された地を得んと騎士の長に据えたことに。神は断罪されたのでは御座いませんか。貴方の罪を」
「――」
居合わせた教会の人間は目で狼狽え、マグダスは真実かどうかをエリアーデの顔色を伺って確認する。
眼下のくぼんだ男は、今や顔面を蒼白に、卓に敷かれた真っ白な敷布を握りしめ無言にて懇願する。その先に神など居るものか、俺の元に神の恩恵など無かったのだ。
ならば、もうお前にも無い。
「つ、罪など。私に罪など無いっ」
俺の目の前に有った卓上燭台の火を吹いて消し、掴み取ってエリアーデに放り投げてやった。目の前に転がった金色の豪奢な三本立ての燭台が向けられた槍の先にでも見えたらしい。
「ひっ、お、お前は、あの時の――」
「なんの事でしょう。大司教。私が言っているのは神に仕える身に余る、商売のことですよ」
「しょぉ――」
いつの日か、必ずや。その為には手合いの汚濁を見るしかない。あの男の下に居て、ただ祈るだけで大司教の地位に就くはずもない。
地竜の牙を用いた彫り物を、教会印の免罪符を用いて税を逃れ、我らが王の膝元にて私財を肥やすために暴利の限りで捌いていた事実など、とうの昔に掴んでいた。ナシュワカンというヤツの槍が今や死に、そのナシュワカンという汚点が周知となった今に、エリアーデの失墜は免れぬ。
「極大の税逃れは死罪となるものです。神の家に居ながら神を冒涜し、我が王の権威に楯突いた罪はその身をもって贖っていただきたい」
「……」
言葉を失い、抵抗の色はない。卓の上に牛皮祇の帳簿を放って衆目に晒す。
エリアーデの家に仕える人間にはウォードウィン家の間者を配し、既に裏帳簿を手に入れていた。地竜牙を薪として偽り、町の外に住む人間から直接大量に買い入れ、勝手に持ち出した教会の印を箱に押し、聖教物と偽って城下への入城検査をすり抜けていた。
教会で用いる聖教物は人の目に触れてはならないとされ、それは王ですら荷を暴いてはならない。その絶大な「免罪」により、罪は重ねられた。
「罪の意識に堪えかねた、あなたの家の使用人が私にそれを託したのです。地竜牙の買い入れ書に、貴方の署名が御座います」
言い逃れようとも地竜などという怪物の牙、これは教会には不浄であり、取り扱いさえ忌避される。傭兵や冒険家、地竜生息域の村から大司教が買い入れなどとは、あってはならぬ物。
竜頭でも獲ったかのように、マグダス伯爵は目の前の紙を手に取り署名を確認する。
「確かに、エリアーデ大司教名ですぞ」
いとも鮮やかな変わり身ではあるが、逆にそれだけ媚びへつらいに長けた人間が手のひらを返したのである。署名が本物であると、間違いないという選識眼は褒めてやりたい。
マグダスの声に一同が静かに沸く。エリアーデの付き人であった聖職者達も眉根に皺を寄せ、暗がりでこれからの袖の振り方をどうすべきか話し合っていた。
神が居るのなら、祈りたければ、祈るが良い。
神の家に住まう敬虔なる兎の中に、悪才の狐が紛れていた事を暴いたという事実は、教会において名誉なる騎士の勤めであると、教皇台下への目通りと聖騎士章の授与にあいなった。
俺には聖騎士章など必要ない。
エリアーデの断頭処刑を見届けた後の日、教皇台下より直接の授与に来ざるを得なかったのは、ウォードウィンの家名を継いだことに因るところが大きい。幼き日、教会付きの孤児院に入れられた俺を、何の戯れか子爵家のウォードウィン家が引き取った。
ウォードウィン家には娘が三人いたのだが男児に恵まれず、仕方なしに教会に身を寄せる子を御子として引き取ろうと考えたらしい。そこでたまたま健啖であり、丈夫そうな俺が引き取られた。
養父母には心からの感謝と、尊崇の念を抱き、彼らの求めるウォードウィンの跡取りとして立つべく努力した。養父母の願いのままに、ウォードウィン家の安寧の為にのみ注力し、この家のために信じても居ない神を仰いだ。
父のいない母子の家に生まれた俺に、養父は心の限りを尽くして育ててくれた。
本当の父のように思い、またその恩を返すべくにウォードウィンの名を貶める事の無い様に、今も教会には表立って楯突くことはない。
一騒動を起こしたファシュナハル大聖堂前にて教皇付きの聖職者と落ち合った後、その大聖堂脇、二階建ての、石積の乱雑な家に案内された。
本当に教皇がこの様なあばら屋に住んでいるのか疑わしかったものの、建物の二階、角の部屋に入室する際。
「ウォードウィン子爵をお連れしました」
「入っていただきなさい」
扉越し、くぐもった音だったが説法にて聞き慣れた声。扉をお付きが恭しくあけると、小さな部屋の中、豪奢とは無縁の、簡素な住まいが有った。
入るなり、窓の縁にベッドが置かれその上に、上体を起こして壁に背を預けた老爺が居たのを見つける。窓を開け放ち、一瞥もくれず、ただただ窓の外に流れている悠久でも眺めているかの様な居住まいで、言葉を寄越した。
「やはり、お前は来たか」
声が掛かった時、既に扉は閉め切られ、この空間には二人しかいない事に気がついた。
「どうぞ、かけなさい」
ベッドの脇に置かれた小さな円椅子を指しているのだろうが、俺はそんなものは無視して脇の机に歩み寄った。
「覚えているか、その台を」
「……」
黒く汚れた、銀の燭台。一度として手入れを行っていないのか、真っ黒に煤汚れたように、様を変えていたものの。俺は、覚えている。
「それで私を殴り殺すが良い。罪は償われるべきだ」
「何故お前がこれを持っている」
「元々、それは私のものだ」
「……」
頬が痩けていて、手は小枝のように、節くれの様なものは間接だろう。顔色も皮膚の色も悪く、長くは保たない人間だ。
「……イシャも早くに、かねに換えてしまえば良かったものを、あの日まで大事に持っていたのだから難儀な女だ」
「――」
久方ぶりに生みの母の名を、神を語る口から聞いた。
いまだ老爺は窓向こうの喧噪を、市の営みを眺めている。
「神に仕える者として、私は咎を負った。それが聖職者として唯一の汚点で、これまで生きた人として最高の栄誉だった」
喧噪が遠退く。窓辺に座し、ただ死を待つ老爺の戯れ言に、聞き入った。
「神に仕える身として、人の身を持って生まれた事をあれ程恨めしく思ったことはない。私は、人に焦れた。針屋の小間使いに、ただの小娘に心惹かれた。人の営みに焦れ、人としてあの娘と共にある事を至上の喜びに感じてしまった」
気がつけば黒錆びた燭台をその手の中に握り、不快な触感に手を汚していた。
煤錆びた様な銀は黒く手を汚し、その汚れはこれまでの、数多くの血しぶきを模している。
「あの時、私はあの娘と共に歩むべきだった。明朗な声で私の名を呼ぶ、イシャと共に私は有るべきだった」
その先に何があるのか。今よりも美しいモノが有ったろうか。
誰も彼も夢想した、彼方の話だ。
「だが私の行いとは何だったのか。如何にして神に仕えたのか、今更思い出せぬ。気がつけば祈りを唱え、聖堂のただ中で祝福を分け隔て無く与えていた。私は己の幸を願うには能わなかったのだろう」
風が狭い室内を蹂躙し、開け放たれた窓が軋む。
「二度と会えぬと、それを別れに渡した。祈りに使うと嘯いて、ただ一つ神の家から盗みを働いた。それは俗世への懇願か、私という人間の逃避だ」
これは神の名において、聖なる勤めである。
「神に仇なした狐はいまだ、ここに生きている」
俺という存在の証明に、その勤めは必要か。
「ナステル・ウォードウィン子爵。どうかその手で、この狐を断罪して欲しい」
喧噪が途切れた気がした。
俺はその、振り返った老爺の目をいまだ覚えている。
あの目だ。