1
ざわざわと中庭に風が渡る。他に誰もいない空間で、訓練に疲れた体を休ませた。ベンチに座れば、疲れがどっと押し寄せてくる。ぼんやりと見上げれば、柔らかい木漏れ日が輝いていた。
平和な光景だ。この静けさの中にいると、ここが戦闘技術を学ぶための傭兵学校であることを忘れそうになる。いや、一時的でも忘れたくてここに来るのだ。まだ訓練だけで実戦はないけれど、あそこにいるのは息が詰まるから。
きゅ、と腰掛ける僕の傍で声がした。全体的には黒猫の姿で、二本足で立ち、腕がグローブのように大きくなっている。三頭身の、マスコット的な生き物だ。僕は膝に乗るように彼に示して、その大きな瞳をのぞき込んだ。
「僕のこと、心配してくれてる?」
彼はきゅうと鳴いて頷いた。僕はそんな彼に小さく微笑んでみせる。
「ありがとう。君が応援してくれるから、もう少し頑張ってみるよ」
僕の答えに、彼は僕の上で足踏みした。両手を挙げてぱたぱたと、僕を励ましてくれているらしい。言葉は話さないけれど、感情だけは伝わってくるのだ。
がさり、と大きく木が揺れた。驚いてそちらを見ると、知らない女の人が立っていた。紺色の質素な制服を着ており、教師ではなく同じ生徒なのだとわかる。
僕は内心どぎまぎした。別に、悪いことをしていた訳ではない。ただ、僕が話していた黒猫のような“彼”は、他の人には見えないようなのだ。だから先ほどの僕は、他人からは一人で会話するおかしな人に見えてしまう。真っ直ぐこちらに歩み寄ってくる彼女になんて言い訳しようかと、頭がぐるぐるする。茶髪の彼女の後ろで、白い狼の姿がちらついた。関係ないのにそんなことが気になってしまう。と、とうとう女の人は僕の目の前まで来た。
「そのコ、可愛いね」
彼女は笑顔でそう言った。僕はすぐには意味がわからず、間抜けな顔で相手を見つめ返してしまった。
「その子、って…?」
「君の膝の上にいる、このコのことだよ」
女の人はくすくすと笑って、僕の膝の上――ちょうど“彼”を指さしていた。当てずっぽうにしては正確に位置がわかっているようだった。まさか、という考えが僕の中をめぐる。
「あの、あなたもこいつが見えるんですか!?」
尋ねると、彼女は答える代わりに笑みを浮かべた。その後ろから、白い狼がずい、と身を乗り出す。いや、それはただの狼ではない。人間が全身狼の仮装をしたような、狼人とでも呼んだ方がいい姿だった。僕の視線に気付いたのか、彼女は自分の後ろに立つその狼を撫でる仕草をした。
「ああ、このコは狼半人。私のコだよ」
「ろうはんじん…?」
「そう。このコの名前。私が付けたんだ」
ね、と彼女が言うと、狼半人も答えるように低く唸った。
「付けた……って、そんな勝手に決めていいものなんですか?」
「いいんじゃない? どうせこのコは私のだし。名前くらい付けてあげたって」
その人はさも当然とばかりに言い放った。付けるのはいいけど、何となくネーミングセンスが問われる気がするのは僕だけだろうか。何というか、彼女の「狼半人」は見た目そのまんまの名前だし。
僕は“彼”を見た。黒猫風の彼は僕の後ろに隠れている。特に呼ぶ必要もなかったから、名前なんて付けていなかったなと思い出す。
「というか、こいつらって何なんですか?」
僕が聞くと、女の人は少し驚いたように瞬きした。手を顎に当て、わずかに考えるそぶりを見せる。
「このコ達は、守護精霊だよ」
「守護、精霊…?」
聞き慣れない言葉に、僕は思わず尋ね返す。彼女はそう、と頷いた。
「見えてるならわかると思うけど、一人につき必ず一体が付き添ってるでしょ? 彼らはね、人の守護精霊。そのコはあなたの、そして狼半人は私の守護精霊、って感じに」
そうなのだ。彼らは必ず一人につき一体。人によって鹿だったりネズミだったり、はたまたよくわからない何かのこともあるけれど、専属の護衛のように付き従っている点には変わりがないのだ。ただ、何故か普通の人には見えないらしい。見えないから“精霊”なんて彼女は呼んでいるんだろうか。
「守護精霊かあ……。ってことは、戦えたりするんですか?」
「もちろん」
彼女は自信満々に頷いた。が、すぐにいたずらっぽい顔になって人差し指を立てる。
「けど、このコ達には実体がないから、実体のある私たち主人が協力する必要があるの」
主人の協力、という言葉に、僕は首を傾げた。その反応はわかっていたようで、彼女は「見てて」と胸を張る。
『我を守護せし精霊よ 我が身に添いてその力を現せ ――狼半人!』
彼女が呼ぶと、狼半人は吠えて彼女に入った(・・・)。と、彼女の体に変化が起こる。肌は白い毛皮に変わり、手足に鋭い爪が生える。大きく開く口には牙が覗く。ふさふさの尻尾が存在を主張するように揺れた。まるで彼女自身が、精霊である狼半人に変化したようだった。
ごうごうと風が吹き荒れた。狼となった彼女はふっと跳び上がる。一飛びで三階ほどの高さに達し、壁を蹴って空を自在に駆け抜ける。風を纏い風と一体になっているようだった。
数周ほど中庭を走り終えると、その人は僕の前で元の姿に戻った。狼半人も元通り彼女の傍に寄り添う。
「どう?」
「すごいです!」
僕は興奮気味に彼女に駆け寄った。彼女は嬉しそうににこにこしている。
「でしょ? なんなら、君にもコツを教えてあげようか?」
「いいんですか?」
僕が聞き返すと、彼女はもちろんと承諾してくれた。願ってもないことだ。もともと僕は、何か戦える力が欲しくてこの学校に来たのだから。
「ありがとうございます! えっと――」
「ヴィオーナ。5年生のヴィオーナ・フォルジェ」
「はい! 僕は1年のシリル・グノーといいます。よろしくお願いします、ヴィオーナさん!」
僕の返答にヴィオーナさんはくすくすと笑った。
「よろしくね。じゃあ早速――」
ヴィオーナさんは真面目な顔になって、僕を見た。教師のように、すっと人差し指を立てる。
「要するにね、精霊の力を借りるには、精霊と心を交わし一体となればいいの。その点、君はすでに第一ステップをクリアしているってわけ」
つまり言葉なしでも気持ちを伝えられるのが一番重要なのだ、と彼女は言った。だから黒猫姿の“彼”と意思疎通ができる僕は、それだけでも大きなアドバンテージらしい。
「あとは精霊に呼びかけて、自分の体を依り代にする。言葉で説明するより、やってみて感覚を掴んだ方が早いかもね」
言われて、僕は“彼”に呼びかけた。自分の体の中に来るように伝える。とてとてと黒猫姿の“彼”が僕に触れると、不思議な感覚に襲われた。不快さはなく、何か力が湧き起こってくる。それは小さく、一瞬で過ぎ去った。
「どう?」
「何か力みたいなものを感じたような……気がします」
「それはよかった。あとはその感覚を頼りに、精霊と心を通わせれば――」
こうして僕らは中庭で特訓するようになった。精霊の存在は僕らにしか見えないから、これは二人だけの秘密だ。ヴィオーナさんと約束して待ち合わせて、練習に励む。彼女のように上手くはできなくて、特訓はきついときもあったけれど、僕は彼女と会えるのを楽しみにするようになっていた。