魔獣様と不幸な悪役令嬢
その獣は白銀の艶やかな毛をまとっていた。
私などひとたまりもないほどの大きさをした、尾が九つもある美しい獣だった。怯えて、そっとその隣に立つ女に視線をやれば。
その獣の背をこれみよがしに撫でながら女は言ったのだ。
「これは狐というのよ。私の、使い魔なのよ」
「お母様の、使い魔?」
「そうよ。公爵家を追い出された時に一緒に連れてきたの。あいつの大事な使い魔だとか言ってたわね。……でも真名を奪われちゃあ仕方がないわよねえ」
私はその一言で、この獣は本来はこの女のものではなくおそらく卑劣な手段で真名を奪って連れてきたのだろうと推測した。
「獣にはそれぞれ真名があるの。本来ならばその真名は主人しか知らないものだけれど。……あいつも馬鹿よねえ」
くつくつと笑う女はそう言ってその狐を抱き寄せる。狐はけれど私だけを見つめていた。そうだろう、珍しいに違いない、この容姿が。
――研ぎ澄ました鋼のように真っ直ぐな地をはくまでに長い銀髪は、傍らの金髪の女とは似ても似つかない。極めつけはこの朱い双眸だろう。魔王の血を引く者でしかありえないその色は、おそらく狐ですら見つめずにはいられないだろう。
魔王とは縁もゆかりもない侯爵家の令嬢である私がなぜこのような色彩かというと、ひとえに目の前の女に原因があった。出自不明の悪女と名高いこの女は、性に奔放で数多くの貴族達の間を渡り歩いた。そして生まれたのがこの私というわけだ。おそらく、目の前の狐の本当の持ち主であろう「あいつ」というのが父親に違いないだろう。
その父親は先の魔王妃の弟公爵という高貴なる家柄だったはず。この女に狂わされ没落した上に、至高の獣まで奪われた。
「――どこに、いらっしゃるのです?」
その狐の上にひらりとまたがると女は笑う。6歳児には到底理解できない毒々しい笑みだった。そう、この女は毒なのだ。
「野暮なことを言うのね。私は私、侯爵夫人に納まったってやることは一緒よ」
その衰えることのない美貌で魔界にしては善良なる侯爵をたらしこんだ女は、男漁りに出かけるのだろう。残された者たちのことなど考えもせずに。
空へと飛び上がった獣を追いかけながら。私は秘かな予感に震えていた。あの狐と目が合った瞬間に、私は、確信したのだ。あれは私の物なのだというはっきりとした自覚を。
「お母様は、またお出かけなの?」
一人きりの食卓に、さしてない食欲を奮い立たせて問う。答えたのは数少ない信頼のおける執事だ。私がこの屋敷に来る前からここで働き、先妻がいかに人格者だったかをよく知っている男であり、妹の味方だ。
「左様にございます」
「そう。……今度はどこの誰なの?」
「どこぞの男爵子息ですとか」
あいも変わらず男を見繕っては捨てるというろくでもない生活を続ける女だ。唯一良いとするのなら自分の領域では決して男漁りをしないことぐらいだろう。
このような生活を続けてきた女の老獪な知恵として、決して旦那の領域では間違いなど犯さないのだ。あくまでも安定した生活を送るために。
「では明日の朝までは留守ね。久しぶりにあの子のところにでも行こうかしら。なにか持っていくものとかあれば持っていくわよ。そろそろ食料も足りなくなってきだだろうから」
「お願いできますか、イザべラお嬢様」
「もちろん。本当なら皆に無事なところを見せてあげたいだけどね。お母様さえ、いなければ」
妹、というのは。
この侯爵家の正当なる令嬢で名前はアネットという美しい金色の髪の義妹だ。吊り目がちの私のような感じではなく、天使といっても過言ではないほど心優しい子なのだ。もちろん屋敷の者達の慕いっぷりも半端ではない。
――だからこそ、あの女はあの子を嫌った。
初めて会った際には一言も口を聞かず、挙句、旦那のいないところで口汚く罵った。あぜんとする私を目の前に連れてきて、あろうことか「侯爵家はこの子に継がせますからね」と宣言し。住んでいた部屋も追い出し、最下層の地下室へと閉じ込めた。
気が優しくてなおかつ美しい義妹ができて喜んでいた私の目の前で、それらは行われたのだ。
前日まで自分が座っていた食卓で侍女のお仕着せを着せられ給仕させられる可哀想な姿に、何を食べているかまったくわからないままで。
――けれど私には逆らう術などない。私もまたこの女の玩具でしかないのだから。
それなりに整ってはいるだろう容姿は、けれど男を虜にするという魔性には程遠い。だから女は私を見ては自分の魔性を確信するのだろう。けれど妹は誰がどう見ても美少女な上に、わざわざ媚びることもなく世の男どもを虜にできるだろう。そういう女としての危惧があったのに違いない。
侯爵夫人という名のもとに陰湿な嫌がらせを繰り返しながら、女は私を飾り立てていく。それが妹に対する最悪に効くであろう嫌がらせだと知っているからだ。
「なんの。時折魔鏡とかいうもので会話させていただくだけで本当にありがたく思っております。……イザべラお嬢様には皆のもの一同がただただ感謝致しておりまして……」
「私にできることなんてそれくらいだもの」
「いえいえ。奥様に見つからぬよう結界を張り巡らしてアネット様を見つからぬようかくまうなど、膨大な魔力を持つイザべラ様しかできぬこと」
「――そうね。そろそろいい頃合かもね」
妹のアネットを私は表では苛めるふりをしながら、裏では助けていた。そうしなければ逆にアネットがあの女にさらなる嫌がらせを受けるからだった。
あの地下室は中を大改装して少しだけ空間を捻じ曲げて広くした挙句太陽光が入るようにしたり、数回着ただけの新しいドレスなんかも全部横流しをした。わざわざ「私のいらないものだけど貴方に恵んであげるわ! お古のぼろだけど貴方には粗末なほうがお似合いよ!」などと悪役ぶったりして。
食事も厨房に行ってこっそり同じものを用意させたり。あの女にばれないように必死で誤魔化し続けて、だけどそれも長くは続かなかった。
時がたてばたつほど妹は綺麗になっていく。あの女も我慢ならないほどに。そうして、遂に、妹は屋敷から放り出されたのだ。
屋敷から追い出された妹を、私はあの女に知られないように領地の端にある森の中にかくまうことにした。狩猟小屋を改装して結界を張って、庭まで作り、独りでになるようにした野菜まで植えてきた。光が届かない場所にあったから、わざわざ光が差し込むように工夫もした。そして時折妹が好むお菓子や、生活に必要な細々とした物等を差し入れして――。
「――そういえばあの獣、まだいるのかしら」
「ああ、ルロワ公爵様の使い魔でございますか」
たまたま尋ねた際に結界を突き破ってきた大きな獣、たとえるなら黒豹といえばいいものか、あの女の獣より少し大きいそれは、灰色の毛玉を抱えていた。まあその毛玉は今では立派な白銀の魔猫となって妹にそれはそれは可愛がられているのだが。
あの女の手の者かと思って戦いを挑んだものの、純粋にその毛玉をどうにかしてほしくて来たらしい黒い獣は、相手にもしてくれなかった。あれだけの獣ならばどこぞの貴族の使い魔だろうと思っていたのだが。
「そう。よりにもよって現魔王陛下の弟君とは、アネットも運の悪い子よね。いいえ、運が良いと言うべきかしら」
使い魔を追ってやってきた魔界の大公爵エルンスト。金髪碧眼の多少酷薄ながらも整った容姿を持つ青年が、妹を見初めてしまったのだ。妹の境遇に憤り、今すぐにでも我が侯爵家を滅ぼさんと息巻いているあの男を屈服させたのだが、それもよくなかった。ともかく余計なことはしない方がいいのだ。
「――魔王陛下に見初められるよりかはましよね」
せいぜい公爵夫人なのだから、今は黙って様子を見ておきなさいとエルンストを叱り付けたのには理由がある。アネットは侯爵令嬢で、しかも性格もよく容姿は言わずもがなだ。目下妃を大募集中である魔王に見つかったらどうするつもりだとあの男を脅したのだ。
エルンストの顔色が青くなったのを見計らって屋敷へと戻ってきたのだが。
――現魔王の名はヒューバートという。ルロワ公爵家の出で、前魔王の指名によりその地位についたまだ年若い王だ。
その性質はひどく残虐で、気に入らない者などその指一つで消し去るほどの威力を持つのだという。という、のは。私はまだ当の魔王には会ったことがないからだ。夜会など魔王が現れそうなところは基本的に避け続けて早数年。城に行かなければならない時は、わざわざ髪と目の色を変えて参内したりもした。私のような者が選ばれることもないのだが目下あの魔王は伴侶を探している。念のために策を弄していたのだが。
ここにきてアネットが選ばれるかもしれない、という不安が急上昇したのだ。よりにもよって弟に見初められるとは。
魔王がどれだけ非道かはわからないが隙あらば魔獣を奪おうとしているとのことだから、アネットもあぶないだろう。だからエルンストによく言って聞かせたのだ。
アネットもどこがいいのかわからないがエルンストに惚れたようなので姉としては2人の恋路を応援したい。……できれば私は関わらない方向で。
――はっきり言おう。それは無理だった。
いつものように食料品などをしこたま抱えた私は結界の中へと降り立ったのだ。庭に置かれた長椅子に寄り添って座る恋人同士と、白銀の子猫を大事そうに抱えて一心不乱にその長い毛を舐め続ける黒い獣。
「――変わりはない? アネット」
馴染みの光景に安堵して一歩踏み出した瞬間、私の足は不自然に止まった。
目の前にはよく見知った大きな獣がいた。白銀の美しい毛を持つ、狐だった。
「なぜ、ここに、おまえ」
九つある尾を緩やかに揺らして狐は私の側に寄ってくる。よく見ればその口元に金色の毛玉をくわえていた。
「この子、どうしたの。おまえ……」
金色の毛玉はよくよく見れば小さい獣で、さらによくよく見れば子狐のようだった。魔獣の子なのだろう。魔猫と同じでよくその見た目の美しさから使い魔にされることが多いのだ。もっとも猫よりも賢くて、できる仕事は格段に多いのだが。
子狐はいたって不本意そうな顔でくわえられている。腕の中にそれを受け取ると、白銀の狐は大きく頷く。
「どうしろって言うのよ、これを」
「おまえの保護下におけと言っているのだろう」
思わず呟いた言葉を引き取ったのは、アネットでもなくエルンストでもなかった。音もなくその場に現れた黒髪の青年だった。
「――俺が誰かは、名乗る必要もないだろう」
黒髪に朱の瞳。それを見た瞬間私は眩暈を起こしそうになった。黒は唯一至高の存在のみが身にまとえる色だ。そしてその目の色はまちがいなく魔王の血に連なることを意味する。
「あの女の娘がこれとはな、とんだ詐欺だな」
「お母様を知っているの?」
「知るも何も。俺の周囲を骨抜きにした挙句俺の妾妃に納まろうとした無礼者だ、忘れるはずもない」
白銀の獣がするりと回り込む。私の逃げ場をふさぐように。
「今頃はどうしているだろうか、使い魔を数匹けしかけておいたから生きてはいてももうなにもできぬだろうよ」
「……あれでもそれなりに強かったわ」
女の最後を聞いても、私はなんとも思わない。肉親の情などというものがあるはずがないのだ。それほどまでにあの女はひどかった。
「慰謝料代わりにそれを頂こうとしたのだが、それは主人は違う奴だと言うのでな。ちょうど俺の使い魔の狐をいたく気に入ったようだし、主人の顔を拝みにやってきたのだが」
「――私はこの子の主人ではなくてよ。真名も知らないし」
「……知らぬのだな? 魔獣もこれほどまでの大きさになれば魔力も強大で自我も発達する。真名ごときで服従できるほど甘くはないのだ。そこのあれ、黒豹のジルもまたしかり。……俺より弟を選んだのは、あの毛玉が故だろうがな」
名前を呼ばれた黒い獣はさも嫌そうに視線を向けたが、すぐに銀色の毛玉を舐めるほうに集中した。
「あのジルよりは力は劣るが、これはなかなか強大な獣。おまえの魔力でなければ扱えぬ代物だ。おおかたあの女に従っているふりをしながらおまえの側に控えていたのだろう」
「なんてことなの」
そうだと言わんばかりに頷く狐の毛並みにそっと手を伸ばす。嫌がることもなくうっとりと瞳を閉じている。
では、最初に会ったときの確信は、それだったのか。これは私の物だという、確信は。
「で、それはその毛玉が気にいっているのだそうだ」
「――どういうこと」
「簡単なことだ。おまえは俺の妃になれ。それで俺もこの狐も欲しいものを手に入れる」
「ふ、ふざけないでちょうだい! なにより私はあの女の連れ子で、本当は侯爵家の令嬢でもなんでもないただの……」
「イザべラ嬢」
ぞくりとするほどの低音で名前を呼ばれて、私は押し黙る。
「没落した公爵家の御令嬢にしてその朱の瞳。結界を張り巡らせるほどの魔力をお持ちの貴方以外に誰が、余の妃にふさわしいと?」
白銀の狐が後ろから私を押してくる。いえ、そんなことは。でも。
「拒否権などない。俺が欲しいのだから、おまえは私のものだ」
「なんという思考ですか!」
「悪いな、魔王なものでな。あれと違って時間をかけて愛を育むというのは性に合わぬ」
にやりと笑った魔王の腕は私を捕えた。逃げることなどできそうにない。後ろからきっちり巨体でもって私は抑えられていた。
この状況ではいくら私でも逃げられそうにない。
「――我が妃になるがよい、イザべラ嬢」
手の甲にいっそ優雅なほどに口付けられて、私は盛大なる溜息をついた。手の力は強い。放せないまま視線を転じると、アネットが満面の笑みで見守っていた。エルンストもまたほっとしたように笑っている。
囲い込まれている、と自覚したときには私は狐の上に乗せられていた。白銀の狐の上に、魔王の腕に抱かれたまま。
「このまま凱旋して帰ろうか」
「嫌です。なんでそんな恥ずかしいことを」
「俺の妃だ。見せびらかしたってよかろう」
その思考回路にはついていけないと再び溜息をついて私はじっと狐を見つめた。
「――そういえば、私、この子の名前を知らないのよね」
「レイ、だ。呼んでやれ。おまえの使い魔なのだから、喜ぶぞ」
なんとなく気恥ずかしくなりながら「レイ」と呼んであげると、嬉しそうに瞳をくるんとまわして白銀の狐は大空へと舞い上がった。――金色の毛玉と共に。