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お帰り、お月様

作者: 志内炎

この小説は完全なフィクションです

 空の開けた公園のベンチに座り、薄暗くなっていく空を眺めていた。

 サッカーの半面くらいならとれる、何もない広場。その向こうには同じくらいの広さの駐輪場。右手のまだ明るい空の下は墓地がある。

 会社から帰ってくる人達が駐輪場に吸い込まれていく。まだうっすら汗ばむくらいは夏の温度が残っている。

 スーツを着た男とビジネスカジュアルを装備した女が、公園を横切る。二人の間の距離は二十センチ。手こそ繋いでいないが、カップルだろう。

「ふっ……」

 自嘲とも、軽蔑とも、嫉妬ともつかない笑いがもれる。

 その声が届いたのか、男が私を振り向く。明らかに軽蔑の色を浮かべ、女へと視線を移す。

 私はといえば、ジーンズにTシャツ。爪先が少しはげたヒール。長い茶髪にはさっきまで束ねていたあとが残っている。背中は曲がって、片手には缶ビールを持ってベンチに腰かけている。

「ふん」

 女の顔は見えない。綺麗にカールされた黒い髪。埃のないオフィスで仕事しているのがありありとわかる後ろ姿。


「俺、付き合ってる女がいる」

 昨日、呼び出され、久しぶりに入った、一緒に暮らした部屋。持って出てしまったチェストがあった場所はまだあいている。飾ってあった二人の写真は見当たらない。

「ふぅん」

 私が出ていく前から、その女と付き合ってたんでしょ?喉元まで出かかる言葉を飲み込む。

 私に何もいう権利はない。私たちは別れてから、半年以上たっている。五年、付き合っていたとしても、その間同棲していたとしても、今は付き合っていない。

 何百回、千回以上セックスしたとしても、始めの何年かは腕枕で将来を語っていたとしても、喧嘩して殴られた事があっても、今は違う道を歩いている。同じ職場にいても。

 彼は私の顔を見なかった。真夜中を過ぎているのに、テーブルの上にビールはない。

「だから?」

 彼は自分の手に視線を落とす。

「別に……」

「いつから?」

「半年くらい……」

 嘘ばっかり。多分、もうすぐ一年くらいたつはず。百歩譲って半年だとしても、その間に私は何度もあなたに会ったし、この部屋にも来た。何度かセックスだってしたじゃない。

「なんで今更いうの?」

「……」

 沈黙が流れる。私も使っていた洗濯機が、かたかたと動く音がする。一緒に買いに行った時計の秒針の音が耳に障る。

 職場のみんなは別れた事を知らない。

「特別いう必要はない」と判断したからだ。

「あいつが……言って欲しいって」

 ふせた睫毛が涙袋に影を作っている。険しい顔をしているが、私を殴った時とは違う。

「会わないといけない事もあるからって言ったらちゃんと言って欲しいって言われたから」

 二人で作った借金もあるし、共通の知人もいる。顔は合わせる事になるだろう。

(相変わらずだ)相変わらず、理由は他人のせいだ。

「お前がそういうことするからだろ」

 何度聞いたかわからない台詞。

「だから?」

「だから……もうここには来るな」

 部屋に干してあるバスタオルは私が買ったものだ。スクリーンで区切られている棚の下から二段目には、昔とったドラマのビデオがつまっているはず。

 二十五から三十までの、女の一番いい時期を過ごした。お互いの親にも会った。飲んだらひどい態度と、音信不通になってしまう浮気癖と、逆ギレの嵐に、逃げ出したのは私の方かも知れない。

 それでも毎日職場で顔を合わせ続け、回りにはまだ付き合ってると思われている。彼の事を一番知ってるのは私だという自負もある。

 生唾を飲み込み、声の震えを押さえてから、ばれないように深呼吸した。

「わかった……今日はお酒、飲まないの?」

「……飲まない」

「ふうん」

 あんなに飲んでいたのに。毎日晩酌は欠かさなかった。

「なんで?」

「なんででもいいだろ」切り捨てる言葉。飲んでない事にいらいらしている。

「一杯くらい、飲めば?付き合うよ」

 一瞬目が泳ぐ。迷ってる。視線がちらりと冷蔵庫を追う。

「どうする?」

 彼は黙って立ち上がり、グラスとビールを持って来た。

 飲めばこっちのもんだ。いやらしい気分になる。このまま何もなく別れるなんてありえない。

(よりを戻したいわけじゃない……)

 そう思いながら、乾杯した。

 南の空高くに昇っていた、ほば真ん丸の月が、欠け始めた。小さな頃には兎にも蟹にも見えた月面の影が、今はただの醜い染みにしか見えない。

「で、いくつなの?」

 すぐに飲み干してしまったグラスにビールをつぐ。

「そんな事は……お前に関係ないだろ」

 めずらしく顔に酒がでている。両手で注ぐふりをして、少し近くによる。

「関係ないけど、気になるじゃない。私たち、あんなに長く暮らしたのよ」

「そうだけど……」

 テーブルに置いてあった携帯電話が派手なバイブレーションで動き始めた。這うように円を描く電話を彼はじっと見つめている。

「電話?」

「メール」

「返さなくていいの?」このままじゃ、落ちそうだ、と反射的に手が伸びた。

「さわるな!」

(あんな怖い顔見たことないな……)

 結局私は部屋を追い出され、

「ここには二度とこないでくれ」と言われて夜道を歩いて帰った。

 この公園は線路を挟んで職場から近い。でも彼は通る事はない。

(お月見なんて風流な事しないもんね)

 自然より雑踏が好き、星よりネオンが好き、コーヒーよりビールが好き、何よりも従順な女が好き。

 いつのまにか、丸かった月が、染みの部分を残し、三分の二くらいになっている。

 二本目の缶ビールを開けようとクルトップに手をかけた時、三メートル程離れたベンチからプシュッという音が聞こえた。

 金色のビールの缶とクルトップの間に、器用に鍵を差し込み開栓している。もう辺りはすっかり暗いのに、深々と帽子をかぶり長い髪を肩に垂らしている。ショートパンツからのびる脚を足首の辺りで組んでいる。彼女はビールを一口煽ると、真っ直ぐ月を見上げた。

(私だけじゃない……か)

 私もビールを開けてグビグビと飲み、月を見た。

 私たちはどこでダメになったんだろう。

 いつも一緒にいたいから、同じ職場に転職し、一緒に住んだ。休みの日にはパチンコへ行ったりカラオケへ行ったり。楽しい思い出がたくさんあった。

 連休に行ったドライブ。途中でガス欠になりそうで、言い合いしながら冷や冷やした。

 知り合いのお子さんの出産祝い。小さな手がすごく可愛かった。あのあと、お互いの親に会いに行った。緊張したな。

 いつ頃からだろう。毎日のように喧嘩みたいになり、私は黙んまりを決め込むようになった。彼はふらりと飲みに出て、朝まで帰らなくなった。

 月はどんどん欠けていく。駐輪場に吸い込まれる人の数が増えている。時々、空を見上げている人もいる。隣のベンチの彼女は、煙草を吸ったり、ビールを飲んだりしながら、月を見つめている。まるでそこに何かが書いてあるかのように。

 私も彼女にならって、じっと月を見つめてみた。

 彼の新しい女はどんな女なんだろう。きっと従順なんだろう。私よりずっと若いんじゃないか。出会った頃の私くらいに……

 涙が出そうになった。

 別に暮らし始めたのも、距離を置きたかったから。仕事を辞めず、一緒に借金を返していれば、完璧に別れてしまうことはない。慣れ親しんだ体の関係もそう簡単に忘れられるものでもない。

 私だけの感情ではないはず。

 今だって洗濯機も冷蔵庫も買い替えていなかった。バスタオルだってグラスだって、一年前と何もかわってない。

 昨日だって、改めてあんなこというために呼び出したのは、彼自身の気持ちが揺れているからに違いない。

 月は細く光を放っている。隣の彼女は酔っ払ったのか、小さな声で歌を歌っている。聞いた事のない英語の歌だ。

(外国人なのかな?)

 髪は黒い。顔ははっきり見えない。

 小さく聞こえる歌が気分を盛り上げていた。

(私たちは完全に終わったわけじゃない)

 ほんの気の迷いにちがいないんだ。今までと同じ。ほとぼりが冷めるのを待っていればいい。

「はい」

 隣の彼女が電話に出た。

(なんだ日本人か……)

「遅いよ。半分終わったよ」

 リズミカルに動いていた爪先がピタリと止まる。

「仕事じゃないけどいけないってどういう事?……嫌。ここが一番のビューポイントだもん」

 誰かと待ち合わせしていたのか。声が明らかに不機嫌になっている。

「わけを教えてよ……どうして?隠し事はしない約束じゃない」

 そんなに大きな声でもないが、年配のサラリーマンはあからさまに彼女を眺めながら通り過ぎていく。彼女は全く気にした様子もない。

「……納得できない。またって……次の月食がいつだか知ってるの?……もういい。私、ここにいるから」

 そう言って電話を切ると、鞄の奥深くにしまった。そしてヘッドフォンをかけると、また空を見上げた。

 月は全ての姿を隠し、ぼんやりと存在の残像だけを浮かべていた。

(ここに彼がいればいいのに)

 今日なら全ての事を水に流せる気がする。もう一度始めからやり直そう。

「待たせたね」そう言ってくれれば、何もいらない……


「待たせてごめんね」

 それは紛れも無く、彼の声だった。しかも、ごめんねなんて、耳を疑った。そして目も疑った。

 彼は隣のベンチの彼女の耳からヘッドフォンを引き抜き、話し掛けていた。彼は彼女の向こう側に座る。私に気付いているのに、一切こちらを見ない。

 彼女は缶ビールを二本取り出し、一本を彼に渡す。彼はクルトップを開けると彼女に返す。彼女は二本目を彼に渡す。

「お疲れ様」

 乾杯して、一口飲み、空を指差した。

「ほらあそこ。もうすぐ、お月様、戻ってくるから」

「うん」

 二人は腕を組み、空を見上げている。

「そんな……」

 こんなひどい遭遇なんて予想していなかった。私は擦り切れた爪先を見つめた。

 彼はお月見なんてする人じゃなかった。口答えするような、電話を途中で切ってしまうような女は大嫌いなはずだ。公園のベンチでほろ酔いで歌を歌うなんて、許さないはずだ。

 見間違いかと、隣のベンチを盗み見た。見慣れた横顔が真っ直ぐに月のある方角を見つめながら、

「絶対話し掛けてくるな」と私を制している。

 女は頭を彼の肩にのせ、やはり空を見ている。体が傾いているせいか、顔が見える。長く濃い睫毛以外に褒めるところのなさそうな顔。ひどく気が強そうに見える。

 少し光が戻って来たのを見て

「お帰り、お月様」と女がつぶやく。全く似合わない言葉がカンに障る。

 二人は体勢をかえる事なく空を見つめている。

 この状況をどうしてやろう。今気付いた振りで話し掛けてやろうか。

「昨日ききました。新しいカノジョさんですね?はじめまして。同棲してた元カノです」とでも挨拶しようか。

 なんにせよ、このままここにはいられない。立ち上がろうとした時に、女が言った。

「昨日、お酒飲んだ?」

「……ううん」

「嘘つき」

「嘘じゃないよ」

 いいえ、嘘です。その男は昨日、自宅に私を連れ込んで飲んでました。

「そう……なら信じる」

 ええ?信じちゃうの?

「疑ってるだろ」

「ううん。だって飲んでないんでしょ?」

「うん」

「毎晩飲むのはやめるために私と一緒にしか飲まないって約束、守ってるんでしょ?」

「うん」

「頑張ってるんじゃん?あなたは出来る人。だから信じる」

「ありがとう」

 私は立ち上がった。彼がびくりとして、こちらを向きかけた。その様子に気付いて、女がこっちを向く。月のように真ん丸い瞳が私を捕らえる。


 家の前で月を見上げた時には、端っこがほんの少し影になっているだけで、月食はほとんど終わっていた。あの二人はまだ公園のベンチで、馬鹿みたいにくっついたまま、空を見上げているだろう。

 不思議そうに私を捕らえた彼女の視界から、何事もなくはずれ、何も言わず、その場をあとにした。

 彼の酒の量がはんぱじゃない事など、私だって知っている。飲み過ぎると、質の悪い絡み酒だということも。

 私はひたすら目をそらし、彼女は立ち向かった。

 彼はこれからも嘘をつく。彼女を傷付けないために。彼女は全てを信じるという。彼を傷付けないために。

「ふん……馬鹿みたい。そんなの……最初のうちだけよ」

 真ん丸に戻った月を見上げる。

「お帰り……お月様」

 遠吠えた私を嘲笑うかのように涙が零れた。月面では、蟹の大きなハサミが、何かをたち切ろうと動いた気がした。


月食は誰と見ましたか?

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― 新着の感想 ―
[良い点] 夜の公園で二人の女性が別々にビールを飲みながら月を見ているシーンはきれいで印象的でした。 [気になる点] 元彼が来ないはずの公園という説明が伏線になってしまって、実際に現れたときにやっぱり…
[一言] とても良かったです。これからも頑張ってください。
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