婚約破棄が流行りすぎたので新法ができました ~乗り込んできた令嬢に、書記官は条文を淡々と読み上げます~
本日の申告、2件。
日誌の書き出しは、この3か月、ほとんど毎日この形だ。数字が3や4に上がる日はあっても、1を切る日はない。
神殿の受付は、朝の鐘とともに開く。ここは神殿の総合窓口で、婚姻の届けも、相続の願いも、誓約の写しの請求も、ここで受ける。開く前から、それぞれの用事を抱えた者たちが列を作っている。その中に、夜会で婚約を破棄された側の人間が、毎日1人か2人は並んでいる。若い男が多く、時々令嬢も混じる。寝ていない顔、怒りを一周して疲れた顔、何が起きたのかまだ飲み込めていない顔。顔つきは違っても、並んでいる姿はどれも似ている。
列の大半は、明るい顔をしている。婚姻の届けを出しに来た若い2人は、順番を待つあいだも手を繋いだまま離れない。背中に赤子を負った母親は、出生の届けを手に、前の者に何度も頭を下げて笑っている。老人は相続の願いを抱え、隣の者と世間話をしながら並んでいる。
その中で、夜会で婚約を破棄された側の人間だけが、浮いている。笑い声に挟まれて、誰もがそこだけ少し間を空けて立っている。
私は彼らから一人ずつ、申告書を受け取る。
書式は単純だ。申告者、相手方、婚約誓約の登録番号、破棄が宣言された日時と場所。ここまでは皆、迷わず書いてくる。氏名は日誌には書かない。「記載済み」で足りる。誰が誰を捨てたかは、記録簿が覚えている。私が覚える必要はない。
問題は、その下の欄だ。「被害の態様」。
宣言の場にいた人数、投げつけられた言葉、居合わせた者たち。大抵の申告者はここで手が止まる。ペン先が紙の上で震え、やがて1行か2行だけ書いて差し出してくる。大勢の前で無能と呼ばれたや新しい相手ができたとか。
旧法の頃は、この欄すらなかった。
私は書類を確かめ、不備がなければ判を押す。不備があれば、赤い印を付けて返す。慰めの言葉は規定にない。ただ、記入例の写しを1枚、窓口の端に置いてある。手に取るかどうかは、本人の自由だ。
午後、一人一人聞き取りを終え、2通目に判を押し終えた。
通知書自体は、2通とも定型文だ。申告を受理したこと、審査に入ること。文面は一字も違わない。それを蝋で封じ、神殿の使いの少年に渡す。彼は毎日、数通の封筒を抱えて出ていく。
宛先は、破棄した側の令嬢たち。
彼女たちは今ごろ、先日の夜会の余韻の中にいるだろう。高い天井、揺れるシャンデリア、息をのむ人々の前で啖呵を切った高揚感。誰かに新しい恋の話をしているかもしれない。通知書が手元に届くのは、明日の朝。
そして数日後には、必ず窓口に来る。
皆、同じ顔をして。
最近の若者は、と思う。思うだけで、口には出さない。私はただの書記官に過ぎないからだ。
◇
新法の名は、婚約誓約適正化法という。
この法律は3か月前に施行されたものだ。神殿の門前に大きな紙で貼り出されたが、立ち止まって読む者はいなかった。長い名前の法が、自分に関係あるとは誰も思わない。関係が出るのは、いつだって、使う側になってからだ。
きっかけは、数年前に遡る。
夜会で婚約者に啖呵を切り、大勢の前で婚約の破棄を宣言するという理不尽極まりない振る舞いが横行した。いつ、誰が始めたのかは分からない。ただ、一度流行り出すと早かった。見ている者がいるほど、言う側は気持ちがいいらしい。翌朝には宣言は記録簿に載り、それで終わりだった。
終わらなかったのは、そのあとの方だ。
破棄された側の家が怒る。破棄した側の家が庇う。持参金の返還をめぐって揉め、場合によっては家同士の諍いは領地の境にまで及んだ。神殿の記録簿は破棄で溢れ、仲裁の申立ては窓口に積み上がった。そうして作られたのが、この法だ。
骨子は3つ。
1つ、公の場での一方的な破棄は、被害を受けた側の申告をもって、神殿が審査する。
2つ、不当と認められた場合、破棄した側に違約金を科し、記録簿に載せる。
3つ、載せられた日から3年間、新たな婚約には神殿の許可を要する。
読んで分かる通り、宣言はもう勝手に終わらない。
終わらせるかどうかを決めるのは、捨てた側ではなく、捨てられた側になった。
私は旧法の頃を知っている。神殿に勤めて10年になるが、その間に、この国の婚約は「家同士の約束」から「夜会の余興」へと、ずいぶん軽くなった。軽くなったから、法で重くするしかなかったのだと思う。
そして、令嬢たちは、骨子の1つすら知らない。
いや、必ずしも彼女たちが悪いとも言えない。掲示板の紙に目を留める機会など、夜会の高揚の中に、あるはずもないのだろう。
窓口の前の列が、一人、また一人と減っていく。
私は日誌に、今日の件数を書き込んだ。
◇
3日後の朝、窓口の扉が勢いよく開いた。
蝶番が悲鳴を上げ、列に並んでいた者たちが一斉に振り返る。入ってきたのは、栗色の巻き髪の令嬢だった。頬は紅潮し、胸を張り、手には封の切られた通知書が握りしめられている。まるで舞台に上がる直前の女優のようだ。
「どういうことですの、この紙は!」
私は申告書から目を上げた。
「受付はこちらです。番号札をお取りください」
「番号札?」
「壁の籠に入っております」
令嬢は何か言いかけて、口を閉じた。ここへ来る道中、何十通りもの言い回しを用意してきたのだろう。そのどれにも、番号札は含まれていなかったらしい。彼女は籠から札を1枚摘み上げると、荒い足取りで戻ってきた。札には「11」とある。
私の前に立つ客は、まだ3人いる。
先頭にいるのは、赤子を背負った若い母親だった。赤子が泣き出すたびに、あやす声が弾んでいる。その後ろで、商人風の男が、懐中時計と窓口を交互に見ては、貧乏ゆすりをしている。最後尾の老人は、相続の願いを手に、退屈そうに鐘の音を数えている。
令嬢だけが、その列の中で、ひどく場違いに見えた。握りしめた通知書が乾いた音を立てるたびに、前の母親が振り返りかけて、慌てて目をそらす。背中の赤子だけが、無邪気に令嬢の巻き髪を見つめていた。
待たされるあいだ、令嬢は通知書を何度も広げては畳んだ。唇が動いている。読み返しているのだ。違約金、記録簿への登載、許可制。3日前の夜、彼女は同じ唇で、別の言葉を口にしたはずだというのに。
11番の札が呼ばれたのは、昼の鐘の少し前だった。
「お待たせしました」
「待たされましたわ」
「順番ですので」
彼女は通知書を窓口に叩きつけた。紙が乾いた音を立てる。
「これは何ですの。違約金とは。わたくしが、誰に、何を払うというのですっ!」
「通知書にあります通り、申告者に対する違約金です。額は審査の後に確定します」
「申告者?」
「あなたが先日、夜会で婚約の破棄を宣言された相手の方です」
「あの方は、もうわたくしの婚約者ではありません」
「宣言の上では、そうでしょうね」
令嬢の眉が跳ね上がった。
「宣言の上では、とは何です。わたくしは皆の前ではっきり申しました。あれで終わりのはずですわ。そうでしょう。皆が聞いていたのですから」
「旧法でしたら、その通りです」
「旧法?」
彼女は、その言葉を初めて聞いた者の顔をした。実際、初めて聞いたのだろう。
「3か月前に、婚約誓約適正化法が施行されました。公の場での一方的な破棄は、被害を受けた側の申告により、神殿の審査にかかります。この通知書は、その手続きの一部です」
「そんな法、聞いておりませんわ」
「門前の掲示板に、貼り出されております」
「掲示板など見ませんわ」
「でしょうね」
自分でも、冷たい声が出たと思った。だが、事実を言っただけだ。彼女は掲示板を見ない。見る必要がなかった。ほんの3日前まで、見る必要のない世界にいたのだから。
令嬢は、通知書の一点を指で突いた。
「この、登載というのは」
「記録簿に載ることです。誰がいつ、どの婚約を、どういう経緯で破棄したか。縁談を考える家は、誰でも閲覧できます」
「誰でも」
「はい」
「わたくしの名が」
「はい」
彼女は黙った。窓口の向こうで、順番を待つ者の一人が、小さく咳払いをした。私はそれを無視した。
令嬢は、しばらく紙を見つめていた。巻き髪の一房が、肩からずり落ちる。それを直そうともしない。やがて顔を上げたとき、その目には、怒りとも怯えともつかない色が浮かんでいた。
「……あの方は、そんな紙は気にするなとおっしゃいましたの」
「そうですか」
「問題ないと」
「そうですか」
私は羽根ペンを置いた。
窓口の端には、予備の羽根ペンが1本、いつも置いてある。申告書を書く者のために置いたものだが、今日はその隣に、記入例の写しも並べた。
「お掛けください。長くなりますので」
令嬢は何も言わず、窓口の前の椅子に腰を下ろした。通知書を握る手が、まだ白い。
最近の若者は、と思う。
思うだけで、口には出さない。それが書記官の仕事だ。
◇
「長くなる、とは」
令嬢は椅子に浅く腰かけたまま、通知書を膝の上で握り直した。
「通知書の内容を、順にご説明します。分からない点があれば、その都度お尋ねください」
「ええ、結構ですわ。早くなさって」
私は窓口の下から水差しとカップを出し、彼女の前に置いた。彼女はそれを気にも留めなかった。ただ、背筋だけを伸ばしている。
「まず、違約金です」
「先ほども伺いましたわ」
「額の目安をお伝えします。家の格によりますが、持参金の半額が1つの基準です」
「半額」
「はい。請求は、お家に行きます」
「お父様に」
「当主の方に」
令嬢の喉が、小さく動いた。持参金の額は、彼女が一番よく知っているはずだ。
「次に、記録簿への登載です。審査の結果、不当な破棄と認められれば、記録が残ります」
「不当、というのは、どういう意味ですの」
「法に認められた事由がない、ということです」
私は卓上の条文集を開いた。
該当の項目をゆっくりと指さしながら説明をする。
「事由は3つです。相手方の背信。誓約の重大な違反。家の断絶など、婚約を続けられない事情が生じたとき」
「わたくしは」
「ご自身の事情を、お聞かせください」
令嬢は一度、唇を引き結んだ。それから、挑むような目で私を見た。
「わたくしには、心に決めた方ができましたの」
「そうですか」
「あの方は、わたくしの話をきちんと聞いてくださいますわ。前の婚約者は、そうではありませんでした。夜会でも、晩餐でも、いつも家の話ばかり。わたくしの顔を見て話した覚えが、一度もありませんの。家同士の約束、約束と、それだけで」
「それで」
「心のない約束を続ける方が、よほど不誠実ではありませんか。わたくしは、嘘をつきたくなかっただけですわ」
彼女の声は、途中から震えていた。怒りではなかった。ずっと言いたかったことを、ようやく誰かに聞かせることができた者の声だった。
私は、遮らなかった。
遮ろうと思えば、できた。事由には当たらない、と一言いえば、それで終わる話だ。だが、窓口の向こうの彼女は、3日前の夜会では誰にも聞いてもらえなかった何かを、今ここで言い切ろうとしている。そういう顔をしていた。
だから、最後まで聞いた。
「お気持ちは、分かりました」
「でしたら」
「ですが、心変わりは、条文の事由に含まれません」
彼女の顔から、勢いが抜けた。
「一理あるとは、思います」と私は言った。「ただ、この窓口が扱うのは、気持ちではなく、記録です。婚約が続けられなかった理由を、条文のどれかに当てはめられるかどうか。それだけです」
「冷たいのですね」
「そう言われることは多いです」
事実だった。
令嬢は、水差しにようやく気づいたらしい。カップに注いで1口飲み、視線を落とした。通知書の端が、指の間で皺になっている。
「……3つ目の」と彼女は言った。「登載から3年間は、新しい婚約に許可がいる、とありましたわね」
「はい」
「許可は、出るのですか」
「審査があります。申告者の意向、破棄の経緯、お家の事情。それらを見て、神殿が判断します」
「あの方との婚約は」
「許可が出なければ、結べません」
「あの方は、そんなことは大した問題ではないとおっしゃいましたの。紙一枚のことだ、と」
私はペンを持ち上げかけて、止めた。
「紙一枚、ですか」
「ええ。紙には何の力もないのだと。大事なのは、心だけだと」
窓口の向こうで、順番を待つ者が咳をした。私は、持ち上げかけた手を、もう一度机に下ろした。ほんの一瞬だった。令嬢は気づかなかった。
「そうですか」と私は言った。
「ええ。ですから、あの方に申し上げれば、きっと何とかしてくださいますわ。昨日もお手紙を差し上げましたの」
「お返事は」
「まだ、ですけれど」
彼女は慌てたように、つけ加えた。
「お忙しい方ですから」
私は条文集を閉じた。
「では、次の説明に移ります」
◇
水を2口飲んだあと、令嬢は背筋を伸ばし直した。
「では、わたくしからも申し上げますわ」
「どうぞ」
「わたくしは伯爵家の娘です。相手は子爵家の三男。家格の釣り合いというものがございますでしょう。家柄の劣る者が、わたくしに違約金などと」
「家格は、審査の参考にはなります」
「ならば」
「ただ、免除の理由にはなりません。条文に、家格を理由とする項はありませんので」
「そんな」
「申告者が子爵家のご出身であることと、破棄が不当かどうかは、別の話になります」
令嬢は、唇を噛んだ。次の言葉を探す間に、巻き髪の一房がまた肩から落ちた。今度は、指で払った。
「……あの方は、わたくしに落ち度があったと言うのでしょう。でも、そもそも先に不誠実だったのは向こうですわ。わたくしの話を聞かなかった。贈り物も、いつも家の紋章入りの無難なものばかり。それが婚約者に対する態度ですの」
「具体的な事実があれば、お伺いします」
「具体的な」
「相手方の背信に当たる行いがあれば、事由の1つになります。たとえば、他の方と通じていた。誓約に反する金銭の動きがあった。そういった事実です」
令嬢は黙った。
「……贈り物が、無難でしたわ」
「それは、背信にはなりません」
「話を聞かなかったのも」
「申し訳ありませんが、条文には当たりません」
声を荒げたわけではなかった。ただ、自分でも驚くほど平らな声が出た。彼女の言い分は、おそらく事実なのだろう。その家は、そういう家だったのかもしれない。だが、それを裁く条文は、この国にない。
令嬢は両手で顔を覆った。
泣いてはいなかった。ただ、しばらくそのままでいた。窓口の外では、新しい客が列に並び始めている。私は彼らに、少し待つよう目で合図した。
やがて、令嬢は顔を上げた。目の縁は赤かったが、声は落ち着いていた。
「……そもそも、この法が理不尽ですわ」
「そう仰る方は、多いです」
「皆に周知されていないのに、罰だけは科されるなんて」
「施行は、神殿の掲示と各家への告知状で行いました」
「告知状など、見た覚えが」
「お父上は、受け取られているはずです」
令嬢は、はっとした顔をした。
「夜会の前に教えてくださればこんなこと…」
「申し訳ありません。私どもの役目は、そこまでは含まれておりません」
謝る必要はなかった。ただ、言っておくべきだと思った。彼女が知らなかったのは、彼女の落ち度でもあり、周囲の落ち度でもある。どちらか一方だけを責める気には、なれなかった。
「……何か、道はありませんの」
その声は、今朝の最初の声と、まるで別人のようだった。
私は条文集を開き直した。骨子の後ろ、誰も読まない但し書きの頁を、指で押さえる。
「1つだけ、あります」
「教えてくださいまし」
「申告者が、申告を取り下げた場合です。審査は打ち切りになり、違約金の請求も、記録簿への登載も、許可制も、生じません」
令嬢の目が、見開かれた。
「取り下げ」
「はい」
「それは、あの方が」
「申告された方が、ご自身の意思で、です。こちらの窓口に来られて、取り下げ書を提出されます」
「では、あの方に」
彼女は、言いかけて止まった。
頭を下げに行く、という言葉を、彼女は口にしなかった。口にしなかったのではなく、思い浮かべたのだろう。夜会の場で、皆の前で啖呵を切った相手に、もう一度会いに行く。何と言って。どんな顔で。
「……あの方を、見下してまいりましたの」
ぽつりと、彼女は言った。
「わたくしは、あの方を、つまらない人だと思っていました。だから、皆の前で、あんなことを」
私は何も言わなかった。
慰めの言葉は、規定にない。
代わりに、2枚の紙を窓口の下から取り出した。
「こちらが、異議申立ての書式です。通知書の到達から10日以内であれば、事由の説明書を添えて提出できます。もう1枚は」
私は2枚目を、少し間を置いて、彼女の前に滑らせた。
「取り下げ書の写しです。ご覧になるだけでも」
「あなたが、書いてくださるの」
「いいえ」
「では、あの方に、お渡ししてくださるとか」
「それも、いたしかねます」
彼女は2枚の紙を見下ろした。
「取り下げられるかどうかは、申告された方のお気持ち次第です。私には、お伝えも、お願いもできません。それが、この窓口の決まりです」
「……冷たいのですね」
「ええ」
少しだけ、間を置いた。
「ですので、条文の外の話までは、私どもにはお手伝いができません」
令嬢は、長い間、2枚の紙を見ていた。それから、通知書と一緒に、丁寧に畳んで、鞄に収めた。
◇
令嬢が立ち上がったのは、昼の鐘が鳴り終わったあとだった。
椅子の脚が床を擦り、鞄の留め金が小さく鳴った。彼女は巻き髪を整え、外套の襟を直し、それから窓口の前に立った。入ってきたときと同じ姿勢だった。ただ、胸の張り方だけが、少し違っていた。
「ご説明、ありがとうございました」
「いえ」
「……お水も」
「どうぞ、お気になさらず」
彼女は空になったカップを見た。置いたまま、それ以上は何も言わなかった。
「異議の期限は、通知書の到達から10日です」
私は彼女に再度念を押すように伝えた。
「それまでに、事由の説明書を」
「分かっておりますわ」
声は丁寧だった。丁寧すぎるほどに。それが理解の印なのか、拒絶の印なのか、私には判断がつかなかった。
「あの方にはお手紙の返事がきましたら、すぐにご相談いたします。きっと、よいお考えをお持ちですわ」
「そうですか」
「ええ」
その横顔に、ほんの一瞬、迷いのようなものが浮かんだように見えた。見えただけかもしれない。瞬きの間に、それは消えた。
「取り下げ書の件は」と私は言いかけて、やめた。言いかけたこと自体が、規定の外だったからだ。
令嬢が振り返る。
「何でしょう」
「いえ。道中、お気をつけて」
彼女は少しだけ首をかしげ、小さく会釈をして、扉の方へ歩いていった。
扉が開く。外の光が、窓口の床に長く伸びた。彼女の影がその中を横切り、一度だけ立ち止まる。鞄の上から、畳んだ紙の厚みを確かめるように、手を当てた。
それだけだった。
入れ違いに、若い男女が扉をくぐってきた。婚約の登録に来たのだろう。2人は笑いながら令嬢に道を譲り、令嬢はうつむいたまま、その脇をすり抜けていった。
扉が閉まる。蝶番が、来たときよりも静かに鳴った。
窓口の向こうで、順番を待っていた者がこちらを窺っている。私は番号札の籠を示し、次の者を呼んだ。
「次の方」
若い男がおずおずと前に出てきた。申告書を差し出す手が、少し震えている。私はそれを受け取り、いつもの通り、「被害の態様」の欄から目を通した。
ペンを動かしながら、さっきの令嬢の顔を思い返した。
分かったのだろうか。
分かったのだと思う。条文は理解したはずだ。違約金も、登載も、許可制も、取り下げの道も。だが、それを自分の身に起きたこととして引き受けたのかどうかは、分からない。あの顔は、3日前の夜会の高揚を、まだ半分引きずっていた。もう半分は、紙の厚みを確かめていた。
窓口に来る令嬢は、大抵、同じ顔で入ってくる。
帰りの顔は、一人ずつ違う。
私は男の申告書に目を通し、次の頁をめくった。
◇
異議の期限である10日は、何事もなく過ぎた。
あの令嬢からの申立ては、来なかった。伯爵家の紋章入りの封筒が窓口に届くこともなく、事由の説明書も出されなかった。期限の最終日、私は日誌に1行だけ書いた。「異議なし」。
審査は規定通りに進んだ。
申告書、通知書、宣言の場にいた者たちの証言。条文に照らして不当と認められるまでに、半月かかった。月が替わる頃、登載が確定し、違約金の請求書が伯爵家に送られた。宛先は、当主だ。持参金の半額という数字が、そこに書かれている。
それだけの話だった。
登載の翌週、同僚が書類の束を抱えて、私の机に寄ってきた。
「例の伯爵家のお嬢さんだが、許可申請が出ているぞ」
「許可申請」
「新しい婚約のだ。登載の日から3年は、許可がなければ結べないからな。一昨日、窓口に提出された」
私は受け取った申請書の頁をめくった。申請人の欄には、伯爵家の名。相手方の欄は、例の流儀で「記載済み」と略してある。私は目を通しただけで、頁を閉じた。
「審査はいつになる」
「順番待ちだな。今、積み上がっているから。春にはなるんじゃないか」
「そうか」
「申告者の方は、取り下げに来ていないそうだ」
同僚は、それを他人事のように言った。実際、他人事だった。窓口に座る者にとって、取り下げ書が出るかどうかは、天気と同じようなものだ。来ればそれまで、来なければ、そのまま日が過ぎていく。
「3年は、長いな」
「そうだな」
「若いうちの3年は、特に」
それ以上は何も言わず、彼は別の机へ歩いていった。
私は申請書を、順番待ちの棚の一番下に差し込んだ。
窓口には、今日も数人の列ができている。日誌の件数は、ここ数日、減る気配がない。
◇
その日の最後の申告書に判を押し終えたのは、夕の鐘のあとだった。
窓口の札を裏返し、日誌を開く。蝋燭の火が、紙の上で小さく揺れた。
本日の申告、2件。
ここ3か月、書き出しはずっとこの形だ。続けて、受理の件数、不備で返した件数、通知書の発送数。それだけ書けば、日誌は閉じられる。
筆を置こうとして、ふと思い出したように引き出しを開く。
古びた申告書。
インクは褪せて、茶色くなっていた。日付は、数年前の秋。旧法の頃の日誌だ。その書類にはただ最低限の情報だけが記されている。
筆跡は、確かに私のものだった。
私はしばらく、それを眺め。それから、日誌を閉じた。
蝋燭を吹き消す。窓口の向こうの暗がりに、朝になればまた、同じ顔が列に混じる。




