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婚約破棄が流行りすぎたので新法ができました ~乗り込んできた令嬢に、書記官は条文を淡々と読み上げます~

作者: ニイ
掲載日:2026/10/21

本日の申告、2件。


 日誌の書き出しは、この3か月、ほとんど毎日この形だ。数字が3や4に上がる日はあっても、1を切る日はない。


 神殿の受付は、朝の鐘とともに開く。ここは神殿の総合窓口で、婚姻の届けも、相続の願いも、誓約(せいやく)の写しの請求も、ここで受ける。開く前から、それぞれの用事を抱えた者たちが列を作っている。その中に、夜会で婚約を破棄された側の人間が、毎日1人か2人は並んでいる。若い男が多く、時々令嬢も混じる。寝ていない顔、怒りを一周して疲れた顔、何が起きたのかまだ飲み込めていない顔。顔つきは違っても、並んでいる姿はどれも似ている。


 列の大半は、明るい顔をしている。婚姻の届けを出しに来た若い2人は、順番を待つあいだも手を繋いだまま離れない。背中に赤子(あかご)を負った母親は、出生の届けを手に、前の者に何度も頭を下げて笑っている。老人は相続の願いを抱え、隣の者と世間話をしながら並んでいる。


 その中で、夜会で婚約を破棄された側の人間だけが、浮いている。笑い声に挟まれて、誰もがそこだけ少し間を空けて立っている。


 私は彼らから一人ずつ、申告書を受け取る。


 書式は単純だ。申告者、相手方、婚約誓約の登録番号、破棄が宣言された日時と場所。ここまでは皆、迷わず書いてくる。氏名は日誌には書かない。「記載済み」で足りる。誰が誰を捨てたかは、記録簿が覚えている。私が覚える必要はない。


 問題は、その下の欄だ。「被害の態様」。


 宣言の場にいた人数、投げつけられた言葉、居合わせた者たち。大抵の申告者はここで手が止まる。ペン先が紙の上で震え、やがて1行か2行だけ書いて差し出してくる。大勢の前で無能と呼ばれたや新しい相手ができたとか。


 旧法の頃は、この欄すらなかった。


 私は書類を確かめ、不備がなければ判を押す。不備があれば、赤い印を付けて返す。慰めの言葉は規定にない。ただ、記入例の写しを1枚、窓口の端に置いてある。手に取るかどうかは、本人の自由だ。


 午後、一人一人聞き取りを終え、2通目に判を押し終えた。


 通知書自体は、2通とも定型文だ。申告を受理(じゅり)したこと、審査に入ること。文面は一字も違わない。それを蝋(ろう)で封じ、神殿の使いの少年に渡す。彼は毎日、数通の封筒を抱えて出ていく。


 宛先は、破棄した側の令嬢たち。


 彼女たちは今ごろ、先日の夜会の余韻(よいん)の中にいるだろう。高い天井、揺れるシャンデリア、息をのむ人々の前で啖呵(たんか)を切った高揚(こうよう)感。誰かに新しい恋の話をしているかもしれない。通知書が手元に届くのは、明日の朝。


 そして数日後には、必ず窓口に来る。


 皆、同じ顔をして。


 最近の若者は、と思う。思うだけで、口には出さない。私はただの書記官に過ぎないからだ。


◇


 新法の名は、婚約誓約適正化法《こんやくせいやくてきせいかほう》という。


 この法律は3か月前に施行(しこう)されたものだ。神殿の門前に大きな紙で貼り出されたが、立ち止まって読む者はいなかった。長い名前の法が、自分に関係あるとは誰も思わない。関係が出るのは、いつだって、使う側になってからだ。


 きっかけは、数年前に遡(さかのぼ)る。


 夜会で婚約者に啖呵を切り、大勢の前で婚約の破棄を宣言するという理不尽極(きわ)まりない振る舞いが横行(おうこう)した。いつ、誰が始めたのかは分からない。ただ、一度流行り出すと早かった。見ている者がいるほど、言う側は気持ちがいいらしい。翌朝には宣言は記録簿に載り、それで終わりだった。


 終わらなかったのは、そのあとの方だ。


 破棄された側の家が怒る。破棄した側の家が庇(かば)う。持参金(じさんきん)の返還をめぐって揉め、場合によっては家同士の諍(いさか)いは領地の境にまで及んだ。神殿の記録簿は破棄で溢れ、仲裁(ちゅうさい)の申立(もうした)ては窓口に積み上がった。そうして作られたのが、この法だ。


 骨子(こっし)は3つ。


 1つ、公の場での一方的な破棄は、被害を受けた側の申告をもって、神殿が審査する。


 2つ、不当と認められた場合、破棄した側に違約金を科し、記録簿に載せる。


 3つ、載せられた日から3年間、新たな婚約には神殿の許可を要する。


 読んで分かる通り、宣言はもう勝手に終わらない。


 終わらせるかどうかを決めるのは、捨てた側ではなく、捨てられた側になった。


 私は旧法の頃を知っている。神殿に勤めて10年になるが、その間に、この国の婚約は「家同士の約束」から「夜会の余興(よきょう)」へと、ずいぶん軽くなった。軽くなったから、法で重くするしかなかったのだと思う。


 そして、令嬢たちは、骨子の1つすら知らない。


 いや、必ずしも彼女たちが悪いとも言えない。掲示板の紙に目を留める機会など、夜会の高揚の中に、あるはずもないのだろう。


 窓口の前の列が、一人、また一人と減っていく。


 私は日誌に、今日の件数を書き込んだ。


◇


 3日後の朝、窓口の扉が勢いよく開いた。


 蝶番(ちょうつがい)が悲鳴を上げ、列に並んでいた者たちが一斉に振り返る。入ってきたのは、栗色の巻き髪の令嬢だった。頬は紅潮し、胸を張り、手には封の切られた通知書が握りしめられている。まるで舞台に上がる直前の女優のようだ。


「どういうことですの、この紙は!」


 私は申告書から目を上げた。


「受付はこちらです。番号札をお取りください」

「番号札?」

「壁の籠に入っております」


 令嬢は何か言いかけて、口を閉じた。ここへ来る道中、何十通りもの言い回しを用意してきたのだろう。そのどれにも、番号札は含まれていなかったらしい。彼女は籠から札を1枚摘(つま)み上げると、荒い足取りで戻ってきた。札には「11」とある。


 私の前に立つ客は、まだ3人いる。


 先頭にいるのは、赤子を背負った若い母親だった。赤子が泣き出すたびに、あやす声が弾んでいる。その後ろで、商人風の男が、懐中時計(かいちゅうどけい)と窓口を交互に見ては、貧乏ゆすりをしている。最後尾の老人は、相続の願いを手に、退屈そうに鐘の音を数えている。


 令嬢だけが、その列の中で、ひどく場違いに見えた。握りしめた通知書が乾いた音を立てるたびに、前の母親が振り返りかけて、慌てて目をそらす。背中の赤子だけが、無邪気に令嬢の巻き髪を見つめていた。


 待たされるあいだ、令嬢は通知書を何度も広げては畳んだ。唇が動いている。読み返しているのだ。違約金、記録簿への登載(とうさい)、許可制。3日前の夜、彼女は同じ唇で、別の言葉を口にしたはずだというのに。


 11番の札が呼ばれたのは、昼の鐘の少し前だった。


「お待たせしました」

「待たされましたわ」

「順番ですので」


 彼女は通知書を窓口に叩(たた)きつけた。紙が乾いた音を立てる。


「これは何ですの。違約金とは。わたくしが、誰に、何を払うというのですっ!」

「通知書にあります通り、申告者に対する違約金です。額は審査の後に確定します」

「申告者?」

「あなたが先日、夜会で婚約の破棄を宣言された相手の方です」

「あの方は、もうわたくしの婚約者ではありません」

「宣言の上では、そうでしょうね」


 令嬢の眉が跳ね上がった。


「宣言の上では、とは何です。わたくしは皆の前ではっきり申しました。あれで終わりのはずですわ。そうでしょう。皆が聞いていたのですから」

「旧法でしたら、その通りです」

「旧法?」


 彼女は、その言葉を初めて聞いた者の顔をした。実際、初めて聞いたのだろう。


「3か月前に、婚約誓約適正化法が施行されました。公の場での一方的な破棄は、被害を受けた側の申告により、神殿の審査にかかります。この通知書は、その手続きの一部です」

「そんな法、聞いておりませんわ」

「門前の掲示板に、貼り出されております」

「掲示板など見ませんわ」

「でしょうね」


 自分でも、冷たい声が出たと思った。だが、事実を言っただけだ。彼女は掲示板を見ない。見る必要がなかった。ほんの3日前まで、見る必要のない世界にいたのだから。


 令嬢は、通知書の一点を指で突いた。


「この、登載というのは」

「記録簿に載ることです。誰がいつ、どの婚約を、どういう経緯で破棄したか。縁談を考える家は、誰でも閲覧(えつらん)できます」

「誰でも」

「はい」

「わたくしの名が」

「はい」


 彼女は黙った。窓口の向こうで、順番を待つ者の一人が、小さく咳払いをした。私はそれを無視した。


 令嬢は、しばらく紙を見つめていた。巻き髪の一房(ひとふさ)が、肩からずり落ちる。それを直そうともしない。やがて顔を上げたとき、その目には、怒りとも怯えともつかない色が浮かんでいた。


「……あの方は、そんな紙は気にするなとおっしゃいましたの」

「そうですか」

「問題ないと」

「そうですか」


 私は羽根ペンを置いた。


 窓口の端には、予備の羽根ペンが1本、いつも置いてある。申告書を書く者のために置いたものだが、今日はその隣に、記入例の写しも並べた。


「お掛けください。長くなりますので」


 令嬢は何も言わず、窓口の前の椅子に腰を下ろした。通知書を握る手が、まだ白い。


 最近の若者は、と思う。


 思うだけで、口には出さない。それが書記官の仕事だ。


◇


「長くなる、とは」


 令嬢は椅子に浅く腰かけたまま、通知書を膝の上で握り直した。


「通知書の内容を、順にご説明します。分からない点があれば、その都度お尋ねください」

「ええ、結構ですわ。早くなさって」


 私は窓口の下から水差しとカップを出し、彼女の前に置いた。彼女はそれを気にも留めなかった。ただ、背筋だけを伸ばしている。


「まず、違約金です」

「先ほども伺いましたわ」

「額の目安をお伝えします。家の格によりますが、持参金の半額が1つの基準です」

「半額」

「はい。請求は、お家に行きます」

「お父様に」

「当主(とうしゅ)の方に」


 令嬢の喉が、小さく動いた。持参金の額は、彼女が一番よく知っているはずだ。


「次に、記録簿への登載です。審査の結果、不当な破棄と認められれば、記録が残ります」

「不当、というのは、どういう意味ですの」

「法に認められた事由(じゆう)がない、ということです」


 私は卓上の条文集(じょうぶんしゅう)を開いた。


 該当の項目をゆっくりと指さしながら説明をする。


「事由は3つです。相手方の背信(はいしん)。誓約の重大な違反。家の断絶など、婚約を続けられない事情が生じたとき」

「わたくしは」

「ご自身の事情を、お聞かせください」


 令嬢は一度、唇を引き結んだ。それから、挑むような目で私を見た。


「わたくしには、心に決めた方ができましたの」

「そうですか」

「あの方は、わたくしの話をきちんと聞いてくださいますわ。前の婚約者は、そうではありませんでした。夜会でも、晩餐でも、いつも家の話ばかり。わたくしの顔を見て話した覚えが、一度もありませんの。家同士の約束、約束と、それだけで」

「それで」

「心のない約束を続ける方が、よほど不誠実ではありませんか。わたくしは、嘘をつきたくなかっただけですわ」


 彼女の声は、途中から震えていた。怒りではなかった。ずっと言いたかったことを、ようやく誰かに聞かせることができた者の声だった。


 私は、遮らなかった。


 遮ろうと思えば、できた。事由には当たらない、と一言いえば、それで終わる話だ。だが、窓口の向こうの彼女は、3日前の夜会では誰にも聞いてもらえなかった何かを、今ここで言い切ろうとしている。そういう顔をしていた。


 だから、最後まで聞いた。


「お気持ちは、分かりました」

「でしたら」

「ですが、心変わりは、条文の事由に含まれません」


 彼女の顔から、勢いが抜けた。


「一理あるとは、思います」と私は言った。「ただ、この窓口が扱うのは、気持ちではなく、記録です。婚約が続けられなかった理由を、条文のどれかに当てはめられるかどうか。それだけです」

「冷たいのですね」

「そう言われることは多いです」


 事実だった。


 令嬢は、水差しにようやく気づいたらしい。カップに注いで1口飲み、視線を落とした。通知書の端が、指の間で皺(しわ)になっている。


「……3つ目の」と彼女は言った。「登載から3年間は、新しい婚約に許可がいる、とありましたわね」

「はい」

「許可は、出るのですか」

「審査があります。申告者の意向、破棄の経緯、お家の事情。それらを見て、神殿が判断します」

「あの方との婚約は」

「許可が出なければ、結べません」

「あの方は、そんなことは大した問題ではないとおっしゃいましたの。紙一枚のことだ、と」


 私はペンを持ち上げかけて、止めた。


「紙一枚、ですか」

「ええ。紙には何の力もないのだと。大事なのは、心だけだと」


 窓口の向こうで、順番を待つ者が咳をした。私は、持ち上げかけた手を、もう一度机に下ろした。ほんの一瞬だった。令嬢は気づかなかった。


「そうですか」と私は言った。

「ええ。ですから、あの方に申し上げれば、きっと何とかしてくださいますわ。昨日もお手紙を差し上げましたの」

「お返事は」

「まだ、ですけれど」


 彼女は慌てたように、つけ加えた。


「お忙しい方ですから」


 私は条文集を閉じた。


「では、次の説明に移ります」


◇


 水を2口飲んだあと、令嬢は背筋を伸ばし直した。


「では、わたくしからも申し上げますわ」

「どうぞ」

「わたくしは伯爵(はくしゃく)家の娘です。相手は子爵(ししゃく)家の三男。家格(かかく)の釣り合いというものがございますでしょう。家柄の劣る者が、わたくしに違約金などと」

「家格は、審査の参考にはなります」

「ならば」

「ただ、免除の理由にはなりません。条文に、家格を理由とする項はありませんので」

「そんな」

「申告者が子爵家のご出身であることと、破棄が不当かどうかは、別の話になります」


 令嬢は、唇を噛んだ。次の言葉を探す間に、巻き髪の一房がまた肩から落ちた。今度は、指で払った。


「……あの方は、わたくしに落ち度があったと言うのでしょう。でも、そもそも先に不誠実だったのは向こうですわ。わたくしの話を聞かなかった。贈り物も、いつも家の紋章入りの無難なものばかり。それが婚約者に対する態度ですの」

「具体的な事実があれば、お伺いします」

「具体的な」

「相手方の背信に当たる行いがあれば、事由の1つになります。たとえば、他の方と通じていた。誓約に反する金銭の動きがあった。そういった事実です」


 令嬢は黙った。


「……贈り物が、無難でしたわ」

「それは、背信にはなりません」

「話を聞かなかったのも」

「申し訳ありませんが、条文には当たりません」


 声を荒げたわけではなかった。ただ、自分でも驚くほど平らな声が出た。彼女の言い分は、おそらく事実なのだろう。その家は、そういう家だったのかもしれない。だが、それを裁く条文は、この国にない。


 令嬢は両手で顔を覆った。


 泣いてはいなかった。ただ、しばらくそのままでいた。窓口の外では、新しい客が列に並び始めている。私は彼らに、少し待つよう目で合図した。


 やがて、令嬢は顔を上げた。目の縁は赤かったが、声は落ち着いていた。


「……そもそも、この法が理不尽ですわ」

「そう仰(おっしゃ)る方は、多いです」

「皆に周知(しゅうち)されていないのに、罰だけは科されるなんて」

「施行は、神殿の掲示と各家への告知状で行いました」

「告知状など、見た覚えが」

「お父上は、受け取られているはずです」


 令嬢は、はっとした顔をした。


「夜会の前に教えてくださればこんなこと…」

「申し訳ありません。私どもの役目は、そこまでは含まれておりません」


 謝る必要はなかった。ただ、言っておくべきだと思った。彼女が知らなかったのは、彼女の落ち度でもあり、周囲の落ち度でもある。どちらか一方だけを責める気には、なれなかった。


「……何か、道はありませんの」


 その声は、今朝の最初の声と、まるで別人のようだった。


 私は条文集を開き直した。骨子の後ろ、誰も読まない但し書き(ただしがき)の頁を、指で押さえる。


「1つだけ、あります」

「教えてくださいまし」

「申告者が、申告を取り下げた場合です。審査は打ち切りになり、違約金の請求も、記録簿への登載も、許可制も、生じません」


 令嬢の目が、見開かれた。


「取り下げ」

「はい」

「それは、あの方が」

「申告された方が、ご自身の意思で、です。こちらの窓口に来られて、取り下げ書を提出されます」

「では、あの方に」


 彼女は、言いかけて止まった。


 頭を下げに行く、という言葉を、彼女は口にしなかった。口にしなかったのではなく、思い浮かべたのだろう。夜会の場で、皆の前で啖呵を切った相手に、もう一度会いに行く。何と言って。どんな顔で。


「……あの方を、見下してまいりましたの」


 ぽつりと、彼女は言った。


「わたくしは、あの方を、つまらない人だと思っていました。だから、皆の前で、あんなことを」


 私は何も言わなかった。


 慰めの言葉は、規定にない。


 代わりに、2枚の紙を窓口の下から取り出した。


「こちらが、異議申立ての書式です。通知書の到達から10日以内であれば、事由の説明書を添えて提出できます。もう1枚は」


 私は2枚目を、少し間を置いて、彼女の前に滑らせた。


「取り下げ書の写しです。ご覧になるだけでも」

「あなたが、書いてくださるの」

「いいえ」

「では、あの方に、お渡ししてくださるとか」

「それも、いたしかねます」


 彼女は2枚の紙を見下ろした。


「取り下げられるかどうかは、申告された方のお気持ち次第です。私には、お伝えも、お願いもできません。それが、この窓口の決まりです」

「……冷たいのですね」

「ええ」


 少しだけ、間を置いた。


「ですので、条文の外の話までは、私どもにはお手伝いができません」


 令嬢は、長い間、2枚の紙を見ていた。それから、通知書と一緒に、丁寧に畳んで、鞄(かばん)に収めた。


◇


 令嬢が立ち上がったのは、昼の鐘が鳴り終わったあとだった。


 椅子の脚が床を擦り、鞄の留め金が小さく鳴った。彼女は巻き髪を整え、外套(がいとう)の襟を直し、それから窓口の前に立った。入ってきたときと同じ姿勢だった。ただ、胸の張り方だけが、少し違っていた。


「ご説明、ありがとうございました」

「いえ」

「……お水も」

「どうぞ、お気になさらず」


 彼女は空になったカップを見た。置いたまま、それ以上は何も言わなかった。


「異議の期限は、通知書の到達から10日です」


 私は彼女に再度念を押すように伝えた。


「それまでに、事由の説明書を」

「分かっておりますわ」


 声は丁寧だった。丁寧すぎるほどに。それが理解の印なのか、拒絶の印なのか、私には判断がつかなかった。


「あの方にはお手紙の返事がきましたら、すぐにご相談いたします。きっと、よいお考えをお持ちですわ」

「そうですか」

「ええ」


 その横顔に、ほんの一瞬、迷いのようなものが浮かんだように見えた。見えただけかもしれない。瞬(まばた)きの間に、それは消えた。


「取り下げ書の件は」と私は言いかけて、やめた。言いかけたこと自体が、規定の外だったからだ。


 令嬢が振り返る。


「何でしょう」

「いえ。道中、お気をつけて」


 彼女は少しだけ首をかしげ、小さく会釈をして、扉の方へ歩いていった。


 扉が開く。外の光が、窓口の床に長く伸びた。彼女の影がその中を横切り、一度だけ立ち止まる。鞄の上から、畳んだ紙の厚みを確かめるように、手を当てた。


 それだけだった。


 入れ違いに、若い男女が扉をくぐってきた。婚約の登録に来たのだろう。2人は笑いながら令嬢に道を譲り、令嬢はうつむいたまま、その脇をすり抜けていった。


 扉が閉まる。蝶番が、来たときよりも静かに鳴った。


 窓口の向こうで、順番を待っていた者がこちらを窺(うかが)っている。私は番号札の籠を示し、次の者を呼んだ。


「次の方」


 若い男がおずおずと前に出てきた。申告書を差し出す手が、少し震えている。私はそれを受け取り、いつもの通り、「被害の態様」の欄から目を通した。


 ペンを動かしながら、さっきの令嬢の顔を思い返した。


 分かったのだろうか。


 分かったのだと思う。条文は理解したはずだ。違約金も、登載も、許可制も、取り下げの道も。だが、それを自分の身に起きたこととして引き受けたのかどうかは、分からない。あの顔は、3日前の夜会の高揚を、まだ半分引きずっていた。もう半分は、紙の厚みを確かめていた。


 窓口に来る令嬢は、大抵、同じ顔で入ってくる。


 帰りの顔は、一人ずつ違う。


 私は男の申告書に目を通し、次の頁をめくった。


◇


 異議の期限である10日は、何事もなく過ぎた。


 あの令嬢からの申立ては、来なかった。伯爵家の紋章入りの封筒が窓口に届くこともなく、事由の説明書も出されなかった。期限の最終日、私は日誌に1行だけ書いた。「異議なし」。


 審査は規定通りに進んだ。


 申告書、通知書、宣言の場にいた者たちの証言。条文に照らして不当と認められるまでに、半月かかった。月が替わる頃、登載が確定し、違約金の請求書が伯爵家に送られた。宛先は、当主だ。持参金の半額という数字が、そこに書かれている。


 それだけの話だった。


 登載の翌週、同僚が書類の束を抱えて、私の机に寄ってきた。


「例の伯爵家のお嬢さんだが、許可申請が出ているぞ」

「許可申請」

「新しい婚約のだ。登載の日から3年は、許可がなければ結べないからな。一昨日、窓口に提出された」


 私は受け取った申請書の頁をめくった。申請人の欄には、伯爵家の名。相手方の欄は、例の流儀で「記載済み」と略してある。私は目を通しただけで、頁を閉じた。


「審査はいつになる」

「順番待ちだな。今、積み上がっているから。春にはなるんじゃないか」

「そうか」

「申告者の方は、取り下げに来ていないそうだ」


 同僚は、それを他人事のように言った。実際、他人事だった。窓口に座る者にとって、取り下げ書が出るかどうかは、天気と同じようなものだ。来ればそれまで、来なければ、そのまま日が過ぎていく。


「3年は、長いな」

「そうだな」

「若いうちの3年は、特に」


 それ以上は何も言わず、彼は別の机へ歩いていった。


 私は申請書を、順番待ちの棚の一番下に差し込んだ。


 窓口には、今日も数人の列ができている。日誌の件数は、ここ数日、減る気配がない。


◇


 その日の最後の申告書に判を押し終えたのは、夕の鐘のあとだった。


 窓口の札を裏返し、日誌を開く。蝋燭(ろうそく)の火が、紙の上で小さく揺れた。


 本日の申告、2件。


 ここ3か月、書き出しはずっとこの形だ。続けて、受理の件数、不備で返した件数、通知書の発送数。それだけ書けば、日誌は閉じられる。


 筆を置こうとして、ふと思い出したように引き出しを開く。


 古びた申告書。


 インクは褪(あ)せて、茶色くなっていた。日付は、数年前の秋。旧法の頃の日誌だ。その書類にはただ最低限の情報だけが記されている。


 筆跡は、確かに私のものだった。


 私はしばらく、それを眺め。それから、日誌を閉じた。


 蝋燭を吹き消す。窓口の向こうの暗がりに、朝になればまた、同じ顔が列に混じる。

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