第5話 名を持つ恋
領地に着いたのは、数日後のこと。
急に伯爵領に行くと言い出した僕の姿に、何か思うところがあったのか、父は何も訊かず「行ってこい」と送り出してくれた。
屋敷の窓から見える景色を見て、感慨深く思う。
学校の長期休暇のたびに、滞在していた場所。
ずっと、本当に長い間ずっと、僕の夏と冬は、この領地の景色と共にあった。
「ジョー兄様!」
声がして振り返ると、そこには伯爵の娘──従妹の姿。
淑女というにはまだ幼く、少女の域を脱していない。
うまくお喋りもできないような、ほんの小さな時から見守ってきた、大事な妹分のような女の子。
そして、彼女の弟が生まれるまで、ともに同じ道を歩むはずだった女の子。
「久しぶりだね」
その無垢な瞳に見上げられて、この子はどこまで理解しているのだろうかと、ふと疑問に思う。
女児に生まれたばかりに、彼女もまた、家の理に翻弄されるのだ。
僕は心の中で、謝った。
ごめん。
僕は君を残していってしまうね。
けれどそれは、僕の力で左右できることではなかった。
その日の午後、伯爵に面会を願い出た。
通された書斎は、厚い絨毯が足音を吸い、窓からは庭の緑が見える。
不思議なほど静かな空間。
「……今後のことか」
伯爵は前置きなく言った。
「はい」
僕は一礼し、顔を上げる。
「これまでのご配慮には、感謝しております。ですが、私自身の……将来について、ひとつお願いがございます」
伯爵は何も言わず、視線を向ける。
「あれから三年が経ちました」
その事実を口にすることに、ためらいはなかった。
「私がうやむやな立場でいることは、グランデッタ家にとっても、曖昧な状態を長引かせることになります。継承の可能性が限りなく低いのであれば、進む道も、結婚も、自らの責任で決めさせていただきたい」
静かに言い切った。
怒りも恨みも、責める意図もない。
ただ、自分で選びたい。
それだけだった。
書斎に沈黙が落ちる。
彼はしばらく僕を見ていたが、やがてゆっくりと椅子の背に体を預けた。
「……戻れないぞ」
その意味も分かっている。
「はい」
伯爵は目を伏せ、短く息を吐いた。
「……いいだろう」
それだけだった。
理由も条件も付け加えられず、あまりにあっさりとした許しに、僕は束の間、言葉を失ったが、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
領地を発ったのは、その翌朝。
王都に戻ると、父は執務机に向かっていたが、僕の足音を聞いて顔を上げた。
「どうだった?」
「許されました」
父は、ほとんど驚かなかった。
「そうか」
それだけ言って、また机の上の書類に目を落とす。
そして顔を上げないまま、父は言った。
「南の領地での案件がある。正式に依頼が来た」
僕はハッと顔を上げる。
「例の件でな。視察と折衝だ。」
南の領地。
マーガレット嬢の──彼女の、故郷だ。
「お前も同行しろ。実地で学ぶ機会になる」
僕を見ずに、父は淡々とした声音で言った。
「……ありがとうございます」
そう言うと、父は小さく肩をすくめた。
「仕事だ」
それ以上は語らない。
だが僕は知っている。
僕がどれほど言葉を飲み込んできたかを、父は見ていたのだ。
*
南の男爵領に着いたのは、夕刻だった。
港町特有の海の匂いが、風に混じっている。
王都よりも空が青く広く、光がまぶしい。
僕たちは領都の宿に滞在し、翌朝から、折衝が始まった。
外国商船の入港条件と関税の扱い。
現地の慣例との擦り合わせ。
港湾の運営を担う商人や町の有力者と応対する父の隣に立ち、書面を整える。
仕事は滞りなく進んだ。
父の問いに答え、必要な箇所には補足を入れる。
王都で積んできた経験は、確かに身になっていた。
それでも。
夕刻、宿へ戻る道すがら、町の通りを歩くときだけは、かすかな期待が芽を出す。
この町のどこかに、マーガレット嬢がいる。
市場を抜け、教会の前を通り、港へ続く石畳を歩く。
だが、姿はない。
分かっている。
正式な用向きもないのに、男爵家を訪ねることはできない。
それでも外へ出るたび、ふと会えるのではないかと、心のどこかで思ってしまう。
夜、宿の窓を開けると、星が見えた。
南の空は、王都よりも星が多い。
星を眺めながら、僕はため息をつく。
彼女に会えないことが、自分で思っていた以上に堪えていた。
そして、会えないまま、日が過ぎていった。
滞在四日目、宿へ戻ると、招待状が届いていた。
港の取引に関わる商人が、僕たちを夜会へ招くという。
「顔を出しておけ」
父は封を閉じながら言った。
「領主家も来るだろう」
胸が高鳴ったが、僕は素知らぬ顔で頷いた。
その名を、口にはしなかった。
夜会は、町でもひときわ大きな邸で催された。
王都の華やかさとは違う。
けれど、この土地の繁栄と誇りが感じられる場。
父の隣で挨拶を交わし、商人や地主と応対する。
その最中だった。
ざわめきが、ほんのわずかに変わる。
入口に視線が集まり、見なくても分かった。
それでも、自然と視線が向く。
マーガレット嬢がいた。
男爵の隣で、落ち着いた面持ちで挨拶を受けている。
光を受けて立つ姿は、王都で見ていた彼女とはほんの少し違う。
ここは彼女の故郷で、彼女はこの土地の一員だ。
王都での姿もきれいだったけれど、やはり余所行きだったのだと感じる。
ここでの彼女は、王都で見た時よりもどこか肩の力が抜けて、寛いだ雰囲気だった。
視線が合う。
逸らさない。
今度は、どちらも。
以前なら、ここで動けなかった。
今日は違う。
僕は彼女のもとへ歩み寄った。
「お久しぶりです」
正式な礼を取る。
彼女もまた、貴族令嬢としての所作で応じた。
「お仕事でお越しなのですね」
「はい。数日滞在しております」
彼女の父が別の客に呼ばれ、わずかに距離が空いた。
「少し、外の風に当たりませんか」
僕が誘うと、彼女は驚いたように一瞬だけ目を見張る。
彼女が驚くのも当然だった。
僕たちが挨拶の範疇を越えるのは、これが初めてだから。
彼女は目を伏せ、そして頷いた。
テラスに出ると、南の夜風が涼しい。
王都よりも星が近い。
「お元気そうで、安心いたしました」
その言葉に、胸の奥が静かに揺れる。
きれいに澄んだ琥珀の瞳を見つめながら、本音がこぼれた。
「……もう、会えないと思っていました」
それは、嘘ではない。
「わたしも」
王都での別れの時のように、彼女の瞳がわずかに潤んだ。
あのとき、僕は何も言えない立場だった。
「以前は」
そう切り出してから、少しだけ間を置く。
「以前は、何も約束できませんでした」
彼女はまっすぐに僕を見る。
「待っていてほしいと願っていたけれど、そんな身勝手なことはできないとも分かっていました。……だから、言えなかった」
僕は彼女を見つめる。
「もう、約束できない立場ではありません」
緊張で僕の胸は早鐘を打っていたけれど、一方で、不思議と落ち着いていた。
「あなたに、正式に申し込みたい」
風が止まる。
「あなたに、手紙を書きたい」
潤んだ彼女の瞳が、大きく揺れる。
「あなたと、きちんと時間を重ねたい」
これは、入り口だ。
永遠でも、誓いでもない。
けれど、はじまりの約束。
「その許しを、いただけますか」
彼女の瞳が溶けそうに、一層潤んだ。
でも、目は逸らさなかった。
「……はい」
その一言で、十分だった。
僕の目も、知らずに潤んだ。
緊張で遠ざかっていた夜会のざわめきが、耳に戻る。
僕は彼女の隣に立った。
その夜。
僕たちは王都で言えなかった言葉で、別れた。
「また」
今度は挨拶ではない。
彼女が少しだけ微笑む。
その花開いたような微笑は、これまで見たどの表情よりも、美しかった。
「また」
同じ言葉だけど、意味はまるで違う。
それから幾通もの手紙を重ね、秋が過ぎ、冬を越え、春を迎えた頃。
僕は改めて彼女に求婚した。
大仰な言葉は要らなかった。
誓いも、約束も、必要な分だけ。
そしてその年、僕たちは結婚した。
王都で交わした視線も、言えなかった「また」も、誰にも知られぬまま育った時間も、すべてはこの日のためにあったのだと思う。
長いあいだ、僕は用意された曖昧な未来の中で生きてきた。
けれど、最後に選んだのは、僕自身だ。
そして彼女もまた、僕を選んだ。
それだけで、十分だった。
秘密だった恋は、その日、名を持った。




