第4話 秘密の逢瀬
マーガレット嬢とダンスを踊った夜会の後、僕は父と王都を離れていた。
そのあいだ、僕は仕事に集中していた。
少なくとも、そう振る舞うことはできていたと思う。
あの夜の言葉が、ふいに思い出される。
──あなたと話していると、とても安らぎます。
言うべきではなかった、と何度も思った。
だが言わずにいた自分を想像すると、それはそれで息が詰まる。
感情が、後悔と安堵を行ったり来たりして、落ち着かない。
彼女が忘れていてくれたなら、僕の軽率さは無かったことになる。
けれど忘れられていないなら、あの言葉は確かに届いたということ。
馬車の揺れの中、その矛盾を解けないまま、僕は王都へ戻った。
王都に戻って最初の仕事場は、子爵家の夜会だった。
そこで僕は、イブニングドレスと燕尾服の人垣の中から、すぐに彼女を見つけた。
そして彼女もこちらを見ていた。
視線が触れたのは一瞬。
まさかこちらを見ているとは思わず、ハッとしてすぐに逸らす。
だけど、二週間ぶりのマーガレット嬢だ。
やっぱり見たくて。
次の瞬間には、また合う。
偶然?
そう思おうとしたところで、今度は彼女のほうがわずかに遅れて目を伏せた。
僕は父の隣に立ち、仕事に自分を戻そうとした。
挨拶、紹介、短い応答。
そうしている間も、気づくと彼女を見てしまう。
そして、目が合う。
逸らして、また合う。
自惚れだ、と言い聞かせるには、回数が多すぎた。
気のせいではないのかもしれない。
そんな淡い期待を持ち始めたころ、人の流れの中で、短い会話を交わす距離になった。
彼女は騒がしさを避けるように、ほんの少しだけ声を落とす。
「こんばんは。……おひさしぶりですね」
その言い方は礼儀正しく、社交の範疇に収まっている。
「……仕事で王都を離れていまして」
あの、ダンスの時のことに言及することもできず、僕の視線は定まらなかった。
「そうでしたか。お仕事は……ご無事で?」
「ありがとうございます。問題なく」
それ以上を言う勇気はなかった。
沈黙が落ちる。
以前なら、彼女とのあいだの沈黙は、穏やかで居心地のいい間だった。
けれど今日は、尻の下がむず痒くなるような、ソワソワとした落ち着かなさ。
なんて言おう。
彼女は、あのときのことを覚えてる?
僕が内心焦っていると、
「……あの、少し前のことですけれど」
少しだけ潜めた声で切り出した彼女は、息を吸って続けた。
「あの時のお言葉、うれしかったです」
「え……」
すぐに言葉を返せなかった。
胸の中で、何かが静かにほどけていく。
それが何なのかを言葉にしようとすると、手からこぼれてしまいそうな、そんな感じ。
彼女を見つめた。
いつもより、少しだけ長く。
視線を外す頃合いを、完全に失った。
彼女もまた、あのきれいな琥珀色の目を逸らさない。
──ああ、伝わっていたのだ。
何も言えず、顔が火照るのがわかった。
僕は礼をするように頭を下げた。
別れ際に彼女は小さく礼をして言った。
「……また」
問いかけでも、約束でもない。
けれど、その言葉に僕の胸は震えるほど熱くなった。
そして僕も同じように返した。
「また……」
それからの夜会で、僕たちは何度も同じ挨拶を繰り返した。
会話は長くならない。
僕は仕事で、立ち止まれる時間は短い。
これまで通り、挨拶の範囲内。
それでも、視線が交わるひと時と、最後の「また」だけは、少しずつ形を変えた。
人の輪の向こうに彼女を見つける。
彼女もこちらを見つける。
近づけるときには、短い言葉が交わされる。
「今夜もずいぶん暑いですね」
「ええ……この暑さには参ります」
ただの社交辞令だ。
そして、最後の「また」が何度も何度も積み重なって、それが僕たちの間だけの逢瀬になった。
周囲には、何も見えていない。
手紙もない。散歩もない。観劇もない。
残るのは、挨拶の短い時間と、言葉にならない一瞬の視線の交差だけ。
それでも恋は育つのだと、僕は初めて知った。
しかし。
社交期には終わりがある。
夏が深まれば、人は帰る。
その現実は、思っていたよりも早く、僕たちの前に現れた。
ある夜会の終わり際、人の流れが落ち着き、僕たちの周りだけが一瞬、静かになる。
マーガレット嬢が、いつもより深く礼をした。
「……近く領地へ戻ります」
声は平坦で、知らせる形を取っている。
けれど、それが何を意味するのか、僕は知らないふりができなかった。
戻る。
そのたった一言が、夜会の喧噪の中で、異様に鮮明だった。
「……そうですか」
僕はそれだけ言った。
言えることは、それしかなかった。
別れ際、いつものように礼をする。
そして、いつものように「また」が来るはずだと、どこかで待ってしまう。
けれど、彼女は言わなかった。
僕も言えなかった。
彼女は、自分がいつまでも未婚でいられないことを知っている。
安易に「また」と言えば、その言葉が彼女自身を縛ってしまうかもしれないことを。
そして僕も、知っている。
今、自分が「また」を言えば、それはもはや挨拶では済まなくなる。
言葉は、約束になる。
約束できない立場のまま、約束の形だけを渡すのは、彼女にとって残酷だ。
だから言えなかった。
彼女は最後に、ほんの少しだけ微笑んだ。
互いに同じ気持ちで立っていたと、ただ確かめ合うための、静かな微笑みだった。
この距離で、束の間、見つめ合ったからわかる。
あの印象的な琥珀色の瞳が、わずかに潤んでいた。
たまらなく苦しかった。
彼女が人の輪へと戻っていく。
僕はその背中をただ見送るだけ。
自室へ戻り、外套を脱いでも、胸の奥の重さは消えなかった。
真夏だというのに、火を落とした部屋の暗さが、いつもより寒々しく感じられる。
僕は椅子に腰を下ろして、項垂れた。
これまでは、約束しないことが、相手を守るのだと思っていた。
しかし、約束しないことで、失うことがある。
「また」が言えなかった。
その事実は、僕を打ちのめした。
彼女が帰れば、僕は二度と偶然を装って会えない。
社交の流れは切れ、夜会も終わる。
そして彼女の人生は、僕の都合を待ってはくれない。
僕は、ようやく決めた。
「待て」と言われたことは理解している。
けれど、もういいのではないか。
僕は立ち上がり、机の上の書類を整えた。
伯爵に会いに行く。
感情に溺れるためではない。
約束ができる場所へ立つために。




