第3話 制約された人生
夏の光が、グランデッタ領の屋敷の廊下に、深く差し込んでいた。
窓は開け放たれ、どこかで乳母の足音がする。
遠くから、赤子の声がかすかに聞こえた。
学校の長期休暇のたびに滞在している、領地の屋敷。
伯父──伯爵から執務室に呼ばれ、僕は父と並び、執務机の前に立っていた。
伯爵は机に向かい、いくつかの書類に目を通してから、顔を上げる。
そして、僕を見て告げた。
「ジョー。君の今後についてだが……」
その声は、穏やかだった。
「卒業後も、当面のあいだ、進路は確定させないでほしい」
半分、予想していた内容だった。
「……承知しました」
自分でも驚くほど、自然に答えられた。
「留学についても、今は保留にしてもらいたい。それから──結婚についてもだ」
伯爵は、そこで言葉を切らず続けた。
「しばらくの間、縁談など進めることは控えてもらいたい。まだ、状況を見ている段階だ」
理由は語られない。
期限も示されなかった。
父は何も言わず、僕の隣に立ったまま、視線を落としている。
僕は、窓の外に目を向けた。
庭の緑は濃く、夏の盛りを迎えている。
具体的な時期については、告げられなかった。
だが、その理由が分からないほど幼くはないつもりだ。
生まれたばかりの後継者が、健やかに育つかどうか。
それが確かになるまで、家は何も決めない。
それが、どれほどの時間になるのかも。
二年か、三年か。
あるいは、それ以上か。
長い間、僕は、伯爵の娘と添い遂げる未来を仄めかされ続けていた。
それはすべて、僕が継承者だったから。
いずれ爵位を継ぐ立場にある者として、伯爵家にとって都合の良い存在だった。
けれど爵位を継げないとなれば、話は変わる。
継ぐ家のない僕に、娘を嫁がせる意味はない。
ただし。
跡継ぎに万が一のことがあれば、僕は再び継承者候補に戻り、そのときには、同じ話が持ち出されるのだろう。
そういう仕組みのなかに、僕は置かれている。
ただ、それだけ。
「状況が変われば、改めて話そう」
伯爵はそう言って、話を終えた。
部屋を出ると、夏の空気が肌に触れた。
屋敷の中庭は、使用人たちが行き交っている。
僕たち父子の曖昧な表情とは打って変わって、屋敷の者たちは皆、晴れやかな顔だった。
目が覚めて、夢だったかと息を吐く。
夢だけど、実際に起こったこと。
伯爵家に正当な後継者が生まれたばかりの、あの夏の記憶。
あのときは、まだ何も知らなかった。
何も始まっていなかったから、何も失っていないと思っていた。
あれが自分の人生を縛る言葉になるとは、思ってもいなかった。
「くそっ!」
口汚く吐き捨てて、身を起こす。
今日は、父の代わりに、紳士クラブに顔を出すことになっていた。
*
次にマーガレット嬢と言葉を交わしたのは、それから数日経ってから。
その夜、彼女はすでに会場にいた。
気づいた瞬間、鼓動が跳ねる。
探していたわけじゃない。
ただ、自然に視線が行っただけ。
──いた。
以前よりも早く、自然に、彼女を見つけている自分がいる。
そう思いながら、視線を逸らすことができなかった。
父の背後に控え、形式的な挨拶を重ねるあいだも、彼女は視界の端にあった。
数人の令嬢と談笑していたかと思えば、いつの間にか一人の紳士と向き合っている。
距離が近い。
心がわずかにざわついた。
……いや。別に、何でもない。
彼女は、誰と話してもいい。
そう思おうとしたとき、彼女がこちらに気づいて、軽く会釈をした。
人の流れを縫うように近づいてくる。
「こんばんは、グランデッタ卿」
声をかけられるのは、これで何度目だろう。
「こんばんは」
視線を合わせるだけで、鼓動が少し早くなる。
それなのに、言葉を交わすだけで、ほっとしている自分もいた。
「お疲れではありませんか。先ほどから、ずっとお立ちでしたでしょう」
「いえ、大丈夫です」
本当は、少しだけ疲れている。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
でも、会話はそれだけ。
彼女は微笑み、先ほど話していた紳士のほうへ一度だけ視線を向けた。
「それでは……」
「ええ」
引き留める理由は、ない。
分かっている。
彼女との時間が名残惜しくて、離れていく背中を、目で追ってしまう。
行くな。
心のどこかで、そう思っている自分に気づき、僕は視線を逸らした。
それからまたしばらく経った夜、別のサロンで。
父と離れ、少し休憩に入ったとき、マーガレット嬢が一人になった瞬間を、僕は見逃さなかった。
「……こんばんは」
声をかけてから、自分が何を言おうとしていたのか分からなくなる。
彼女は少し驚いたように琥珀の瞳を見開き、それから穏やかに微笑んだ。
「こんばんは。グランデッタ卿」
「今夜は、少し暑いですね」
我ながら、ひどく無難な言葉だと思う。
「ええ。人も多いですし」
それだけの会話。
それなのに、心が静かに満たされていく。
沈黙が落ちる。
いつもなら、ここで会釈して、終わっていた。
だが今は、終わらせたくないと思っている。
彼女も、動かなかった。
言葉がないまま、ただ、同じ空間に立っている。
その時間が、ひどく貴重に思えた。
会うたびに想いは募った。
何かの集まりで偶然会って、会釈をするか挨拶をする、ただそれだけの関係。
彼女と関係を深めたい、と何度も思った。
手紙を書くことも考えた。
だが宛名を書く前に、ペンを置いた。
親族でもない未婚の男女が手紙のやり取りをするなんて、何かしらの約束を交わしているとみなされる。
ふたりきりで散歩をする理由も、観劇に誘う口実も、すべてが今約束ができる男のものだ。
彼女は、王都に遊びに来ているわけではない。
結婚相手を探している。
だからこそ、僕は偶然でしか、彼女に会わない。
それが今の僕にできる、唯一の誠実さだった。
僕は何も約束できないから、彼女と挨拶さえできれば、それで十分。
そう思っていた。
それが欺瞞にすぎないと気づいたのは、その次の夜会でだった。
大広間に入ると、マーガレット嬢の姿はすぐに見えた。
視線が合う。
彼女は、確かにこちらを見た。
けれど、僕が会釈をする前に、すぐ隣の令嬢に話しかけられ、そのまま人の輪の中へ入っていく。
気のせい?
少しして、もう一度彼女に近づこうとした。
だが今度は、別の紳士が声をかけ、彼女は自然な流れで向きを変えた。
避けられている、とまでは言えない。
そのときは考えすぎで済ませようとした。
けれど二度三度、同じようなことが起きれば、それが気のせいでないことは、すぐにわかる。
マーガレット嬢に避けられている──。
これは思った以上に、僕に衝撃を与えた。
距離を置かれて初めて、僕は、自分が彼女に会う理由を持っていないのだと、改めて突きつけられた。
次の夜会の間も、彼女と言葉を交わす機会はなかなか巡ってこなかった。
彼女は終始、人の輪から離れず、目が合いそうになる前に、そっと視線が外される。
父の仕事の補佐として参加している手前、偶然を装って、彼女に近づくこともできなかった。
けれど父について挨拶を交わしながら、いくつかの輪を移るうち、気づけばマーガレット嬢とその父親の男爵がすぐ近くにいた。
立ち話の距離だ。
わざわざ引き合わせられたわけではない。
父と男爵が言葉を交わし、僕と彼女は、その少し外側に立つ。
「こんばんは」
「……こんばんは。久しぶりですね」
「ええ」
以前よりも、会話は短い。
そのまま、差し障りのない話題が続いていた。
やがて音楽が変わり、広間の空気が、ゆるやかに動き出す。
あちこちで自然に男女の組が生まれ、話していた輪が少しずつほどけていく。
「せっかくだ。踊ってきたらどうだ」
どちらの父が言ったのかは、よく覚えていない。
ただ、ごく当たり前の調子だった。
父たちはそのまま話を続け、僕と彼女だけが、その場に残る。
僕は一歩距離を詰め、手を差し出した。
「……よろしければ」
それ以上の言葉は添えなかった。
彼女はあの琥珀の瞳で僕を見た。
それから、わずかにうなずいた。
「一曲だけ、でしたら」
差し出した僕の手を彼女が取って、僕たちはダンスの輪に加わった。
近づきすぎない、正しい距離。
視線も、長く留めない。見つめない。
これは社交辞令のダンスだということを、理解している。
それでも、旋回するたびに、彼女の香水の香りがふわっと漂って、気配が近くなる。
鼓動が高鳴った。
「……失礼を承知で、ひとつだけ」
自分でも、なぜ声を出したのか分からない。
彼女がこちらを見る。
「最近は、立ち話も難しい状況でしたから」
一瞬、言葉に迷う。
何か伝えなければ、僕はきっと。
二度と彼女と話す機会は訪れない。
そう、感じたから──
「あなたと話していると……」
音楽に紛れてしまえばいい。
「……とても安らぎます」
彼女の瞳が、大きく開かれる。
言ってしまった。
僕は慌てて言葉を継いだ。
「今の私は、誰とも約束できない立場です。ですから、今の言葉は……」
彼女の動きが、ほんの一拍だけ遅れた。
「どうか、忘れてください」
それ以上、何も言わなかった。
彼女も、何も答えなかった。
拒まれたわけではないが、受け取られたわけでもない。
音楽が終わり、自然と手を離す。
「ありがとうございました」
「……こちらこそ」
彼女は人の輪へ戻っていく。
僕は、その背中を追わなかった。
今、伝えられることを、すべて伝えてしまった気がしたから。




