第2話 恋の自覚
僕が感じた予感の通り、マーガレット嬢とは、あれから何度も顔を合わせることになった。
一言二言、言葉を交わすこともあれば、姿を見かけるだけで終わることもある。
はじめは、彼女から声をかけてくれたが、そのうち、父の仕事の補佐の合間に、僕から声をかけることもあった。
けれど、そのどれもが挨拶の範疇。
その夜も、僕は、外交筋と縁の深い貴族が主催する集まりに参加していた。
いつも通り、補佐として脇について、父と外国からの客人とのやり取りを眺める。
最近は、何度か顔を合わせた相手であれば、直接言葉を交わす許可も下りていた。
父が一言尋ね、客人が柔らかに、何かを含んで答える。
それに対して、父はわずかに首を傾けて相手をじっと見た。
父のその沈黙が意図されたものだということを、僕は知っていた。
知っていた、はずだった。
けれど。
──ここは、補足したほうがいい。
「つまり現状では、その点について慎重な立場、だという理解でよろしいでしょうか」
気づいた時には、もう、口を開いていた。
言葉自体は、間違っていない。
配慮も含んだ。
だが客人は僕を見て、一瞬だけ考えるような間を置き、すぐに穏やかに首を振った。
「いえ、そこまで限定したつもりはありません。ただ、いくつかの可能性を示したかっただけで」
ほんのわずか、ピリと空気がひりついた。
父が自然に会話を引き取り、場は何事もなかったように流れていく。
後悔した。
今のは、……言わなくてよかった。
咎められるようなことではなかった。
それでも。
やらかしてしまった、とはっきり理解した。
自分の判断が、父の沈黙の意味を狭めてしまった。
助けるつもりで、一歩、踏み出しすぎた。
会話の許可を得た矢先に、これだ。
苦い思いで視線を外した先に、彼女がいた。
マーガレット嬢。
彼女は会話の輪の外に立ち、こちらを見ていた。
じっと見つめていたわけではない。
ただ、今のやり取りを偶然目にしてしまった、という顔だった。
僕は反射的に表情を整え、ふいと視線を逸らす。
また、か。
こんなところ、できれば見られたくなかった。
少しして、父に「少し休め」と言われ、僕は壁際へと下がった。
グラスを手に取るが、喉はあまり渇いていない。
「……こんばんは、グランデッタ卿」
振り向くと、彼女が立っていた。
「先ほどは、……お疲れのように見えました」
近すぎず遠すぎない、いつもの距離。
「いえ、大丈夫です」
そう答えたものの、間が空いた。
僕はふっと息を吐き、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「……いつも、情けないところをお見せしてしまいますね」
冗談めかして言ったが、完全な冗談でもなかった。
自分で言ってしまって、不甲斐ない思いが倍増する。
彼女はすぐには答えず、ほんの一瞬だけ首を傾げる。
「そうでしょうか」
否定でも慰めでもない声音。
「そうは見えませんでした」
彼女はその穏やかな琥珀色の瞳で僕を見て、微笑んだ。
それ以上、話は続かなかった。
彼女は軽く会釈をし、元いた場所へ戻っていく。
僕に、彼女を引き止める理由も、言葉もない。
それでも僕は、その背中を見送りながら思った。
彼女の前では、こういうことを言ってもいいのかもしれない。
情けなさを冗談にしてしまっても。
それで何かが壊れることはないのだと。
次の集まりでも、その次でも、僕は同じように会場に立っていた。
父の補佐として挨拶をし、言葉を交わし、必要があれば黙って控える。
ただそれだけ。
けれど、ふとした拍子に、視線が動いてしまう。
人の輪を追っているつもりはない。
誰かを探しているつもりもない。
それでも、気づけば、マーガレット嬢の姿を捉えていた。
──今晩も、いるな。
そう思って、はっとする。
慌てて視線を逸らす。
これまで、彼女がいる夜会では、偶然姿を見かけて「あ、いるな」と思う。
それだけだった。
それだけで、特別な感情はないはずだった。
けれど、ある夜、彼女が来ていないことに気づいた。
──今日は、来ていないのか。
会場を見渡して、なんとなくがっかりする。
うまく言葉にできない感覚。
理由はわからない。
ただ、夜会がいつもより長く感じられた。
音楽も、人の声も、変わらないはずなのに。
何かが、足りない。
それが何なのか、僕はまだ考えないようにしていた。
それからは、会えた夜と会えなかった夜が、はっきりと区別されるようになった。
会えた夜は、なぜか気持ちが高揚して、でも落ち着いた。
言葉を交わすことがなくても、会釈ひとつで十分だった。
会えなかった夜は、理由もなく彼女のことを思い出した。
会いたい、という言葉を使うほどではない。
けれど、声を聞きたいとは思った。
あの琥珀色の瞳を見たい、とも。
その感情の置きどころがわからず、僕はひどく戸惑った。
そして、ある夜、また違う夜会で。
僕はいつもと同じ、変わらぬ位置。
音楽が変わり、広間の空気がふっと軽くなった。
明るい円舞曲。
誰にでも開かれた旋律に、人々が自然と動き出し、円を描くように組ができていく。
夜会ではよく見られる光景だ。
その中に、彼女がいた。
彼女は誰かに手を取られていた。
差し出された手を、ためらいもなく取っている。
ほんの一瞬の会釈。
それだけで、彼女は相手の腕に身を預けた。
相手の男は、彼女より少し年上に見えた。
知己かどうかは分からない。
相手との距離感から、特別な間柄でないことだけは、伝わってきた。
よくある社交の一場面。
踊る二人を、僕は会場の端から見ていた。
止める理由も、声をかける資格もない。
彼女の時間を、自分が奪うことはできない。
それでも、その光景から目を逸らせなかった。
軽やかに動く足元。
自然に重ねられた手。
その瞬間、はっきりと理解した。
僕は、あそこに立ちたいのだと。
そして同時に。
誰かに手を伸ばすことを、許されていない。
それが、どういうことなのか。
ダンスを申し込むこともできない。
手を取ることなど、最初から考えてはいけない。
胸の奥に、鈍い痛みが走った。
ようやく、言葉が追いつく。
これが──恋なのだ。
そう名付けた途端、すべてが腑に落ちた。
情けないところを見られた夜から、少しずつ、静かに。
気づかないふりをしていただけで、戻ることはできなかったのだと。




