第1話 線を引かれた夜の出会い
二週間ぶりの王都。
今晩の仕事場は、とある子爵家の夜会だった。
華やかなイブニングドレスと燕尾服の人垣の中から、すぐに彼女の姿を見つけた。
──見つけてしまった。
彼女も僕の方を、見た。
視線が合う。
こんなに離れているのに、見ていたと知られるのが恥ずかしくて、思わず視線を逸らした。
けれどやっぱり見たくて──。
合って、
逸れて、
それでもまた、合う。
二週間前までは、僕の方が一方的に彼女を探して見つめていた。
けれど、今は。
彼女も、もしかしたら、僕と同じ気持ち?
それとも……。
そう思って、胸が高鳴ると同時に、締め付けられるほど苦しくなった。
今はまだ。
僕は、彼女に、何も約束することができない──。
*
社交期が始まったばかりの王都。
少し前まで学生だった僕は、外交官の父の補佐として、貴族たちの私的な集まりにも顔を出していた。
夜会は、滞りなく進んでいた。
高い天井に下がる燭台の灯りは柔らかく、銀器はよく磨かれている。
父の名刺代わりのようなこの席に、失礼があってはならない。
僕は父の少し後ろに立ち、必要とあらば書類を取り、視線を受け止め、静かに応じていた。
少しずつ慣れてきた役割。
人脈を知り、空気を覚え、言葉を選ぶ。
やがて音楽が変わり、客たちがいくつかの小さな輪に分かれ始める。
その中に、見知った顔があった。
ついこの前まで、寄宿学校で机を並べ、同じ卓を囲んだ者たち。
同じ教師に叱られ、同じ試験に備え、同じ未来を当然のように語っていた相手。
友人──だと思っていた相手。
彼らの視線が、こちらに向く。
笑みを交わす。
だが彼らの瞳に、かつて浮かんでいた親しみの色なかった。
「……グランデッタ卿のご活躍、お伺いしております」
父に向けて誰かが、丁寧にそう言った。
僕自身には、他人行儀な視線だけが向けられる。
親しく名で呼ばれることはない。
久しぶりだな、と声をかければ、返事はきちんと返ってくる。
笑顔もある。
礼儀も、欠けていない。
だが──。
「君は、今はそちらだったな」
「お父上の手伝いをされているとか」
気安い関係だったことさえ、なかったかのような台詞。
彼らの輪の中だけで納得したように頷き、話題は、近隣諸国の動向や領地の収穫高、次の議会の動きへと移っていく。
かつてなら、当然のように加わっていたはずの会話。
けれど今は、聞き役に徹するしかなかった。
質問は振られず、意見を求められることもない。
彼らに悪意はなかった。
それが分かるからこそ、何も言えなかった。
ああ、と思う。
爵位を継がない未来は、こうして、音もなく始まるのだと。
これは拒絶ではない。
ただ、区切られただけ。
同じ場所に立っているのに、もう同じ円の中にはいない。
なんだろう。
この、疎外感。
悲しくて、恥ずかしくて、惨めで。
「ジョー」
彼らから少し離れたところで、父に呼ばれた。
「何ですか?」
「……少し休んで来い」
情けなかった。
背筋を伸ばし、穏やかな表情を浮かべ、動揺を見せたつもりはなかった。
けれど、父には見抜かれていたらしい。
「このあと、また扱き使うからな」
父はそう言って、笑った。
「すみません。……少し外します」
そうして会場の端に移ろうとした。
その時、ふと、誰かと目が合った。
見覚えのある令嬢。
デビューしたての年若さでも、派手な装いでもない。
つい先日、別の夜会で、挨拶したことがある。
たしか……マーガレット嬢。
南の方に領地を持つ男爵の、二番目のご息女だ。
僕は会釈だけをして、視線を外す。
彼女も、同じように軽く頭を下げたが、
「……失礼ですが」
意を決したように、僕に話しかけてきた。
「先ほどの方々は、お知り合いですか?」
一瞬、うわ、と思った。
さっきの場面を、見られたのか、と。
きまりの悪いところを見られたのだと知り、顔が熱くなった。
「ええ。……同じ学校でした」
それだけ答えて、それ以上は説明する気にも、誤魔化す気にもなれなかった。
「そうなんですね」
彼女は束の間視線を巡らせ、もう一度、僕を見る。
「あの方々、皆さま、……家を継がれる方ばかりでしたね」
その言葉にハッとする。
もしかして、紹介してほしい、とかだろうか。
彼女は未婚だったはず。
未婚の令嬢の大多数がそうであるように、彼女も結婚相手を探すために、王都へやってきているのだろうから。
なんて答えようかと逡巡しているうちに、彼女の方が、焦ったように続けた。
「不躾に申し訳ありません。……少し、お顔色が悪くなられていたように見えましたので」
そう言われて、知らず肩に入っていた力を抜く。
なんだ、そうか。
彼女は、冴えない顔色の僕を、純粋に心配して声をかけてくれたのか。
「そう見えましたか」
苦笑するしかない。
僕は、全然取り繕えていないな。
「ええ。……差し出がましかったら、すみません」
「いえ」
声は思ったより落ち着いていた。
僕、ジョー・グランデッタといえば、少し前まで、貴族名鑑にも載っている爵位継承者候補のひとりだった。
名門グランデッタ伯爵家の後継。
正確にいえば、父が推定相続人で、その長子の僕は、継承権第二位。
ところが、正当な継承者が誕生したことで、僕の家は、分家──傍流へと格下げになった。
そのことについて、どうこう思ったりしているわけではない。
昔から父に、父の継承権はないものとして過ごせ、と口煩く言われていたから。
けれど。
外の世界は違う。
そのことを、まざまざと思い知らされた。
さっきの、仲間のように過ごした彼らの態度には、正直、……堪えた。
僕は項垂れたが、彼女はそれ以上踏み込んでこなかった。
「失礼いたしました。突然、お引き止めしてしまって」
そう言って、一歩、下がる。
──それで終わるはずだった。
けれど。
「……お気になさらず」
自分でも意外なほど、すぐに言葉が出た。
引き止めたのは、彼女ではなく、たぶん僕の方。
彼女は少し驚いたように目を上げ、それから、ほんのわずかに微笑んだ。
優しい琥珀色の瞳だった。
そのことがきっかけで、昼餐会や夜会に出た時、マーガレット嬢がいると気が付くようになった。
直接顔を合わせたり、言葉を交わしたりすることがなくても、「あ、今日もいるな」と認識する。
次に会話したのは、また違う夜会。
規模も、集まっている顔ぶれも、違う。
僕は、父の少し後ろの、必要なときだけ言葉を添えるいつも通りの立ち位置。
「こんばんは」
声をかけられて、思わず瞬きをする。
「……こんばんは。先日は、どうも」
「いえ。こちらこそ」
それ以上、会話が続くとは思っていなかったが、案の定、会話が途切れた。
けれど、沈黙は不思議と気まずくなかった。
「今日は……少し、賑やかですね」
彼女の言葉に、周囲を見渡してから頷く。
「ええ。この時期は、どうしても」
「お忙しそうですね」
「そう見えますか」
口にしてから、前回と同じ返しだったことに気づく。
彼女が、少しだけ笑った。
「前も、そうおっしゃっていました」
「……覚えていてくださったんですね」
「ええ。印象的でしたから」
その言葉に、どう返すのが正しいのか、迷う。
あんな場面は、早く忘れてほしかった。
少し間が空いてから、言葉を足す。
「今日は、お一人ですか?」
「父が、向こうに……」
「そうでしたか」
当たり障りのない会話。
それで十分だった。
約束をしたわけでもない。
次に会えると確かめたわけでもない。
それでも、彼女とは、こうして何度も言葉を交わすことになるのかもしれない。
そんな予感が、静かに残った。




