第九話 子と親
「それで、その……どうなんだ、学校は」
「ふつう」
父親が遠慮がちに出したコップを、ミツコは何も言わず受け取った。使いまわされたティーパックから滲み出たお茶は、味も風味も薄い。
ズルズルと、音を立てて緑水を喉奥に流し込む。会話を続けようとしていた父親は、気勢を削がれてしまったようで、口を閉じてしまった。
その程度で諦める話題なら、最初から話さなければいいのにと、ミツコは思う。
「────そもそもの始まりは、空が突然ねじれたことにある。空間がいきなりつままれたみたいになって、それから、そこに穴が空いたんだ」
テーブルの端から男の子の声が流れてくる。
いつもなら新聞紙が無造作に放置されているのだが、今は代わりにスマホが設置され、動画サイトの配信を映し続けている。それもご丁寧に台座を付けて、だ。
私たちはいったい何をしているんだろう。ミツコは心の中に疑問を浮かべた。
「どゆこと。つまむって、指で? ……うーん、空ってつまめるのかな?」
「詳しいことは脇に置く。研究者たちはこれを空間転移現象の一環だと考え、調査を進めたんだ」
「前にアッくんが騒いでたやつ! あれでしょ。アルミホイルで大儲けしたフリーでメイソンな富裕層が、人口調整のために宇宙の外側にいた邪神を喚んで……」
「わーっ、よせ! 俺の話は忘れろ! 公共の場で陰謀論を垂れ流すのはいろいろ……アレだから!」
ミツコは自分のスマホを取り出すと、画像フォルダを開く。
ずらりと表示されるのは、制服姿の学生たち。同級生や、部活の後輩、先輩だ。彼らは今頃、どのように過ごしているのだろうか。
まあ、自分よりはマシだろうと、彼女は結論付けた。
「調査の結果、穴の中は致死量の放射性物質で満たされて、しかも超スピードで増殖していることが判明した。それが溢れ出してくるのが、これから一時間弱後。世界規模で拡散して、人類は終わる」
「へぇー。よくわかりました!」
「……ほんとか?」
「つまり詳細は省くけど、結論から言うと人類は終わる……ってことだよね!?」
「おう、詳細を話してたんだよ今までよ」
「でも詳しいことは脇に置いたじゃん。詳しくも細かくもないじゃん」
「配慮だよ! 論文聞きながら死にてぇのか?」
人類が終わる。自分は死ぬ。
だから、ミツコはここにいる。普段なら学校で授業を受けているこの時間に、机の下でスマホをいじっているようなこの時間に。
バイブレーションが新着メッセージを報せる。アプリを開くと、友達の笑顔が表示された。
仲の良い連中で集まって、ダベって、ダラダラしながら、気が付いたら全部終わってる。そんな終わりを過ごす彼女たちのことが、羨ましい。
適当に返事をして、トーク画面を閉じる。暗くなった液晶に映る自分の顔が、ひどくつまらなそうにしているのが、少女は何となく腹立たしかった。
「…………友達か」
「うん」
「あー、ミライちゃん、だったか」
「ミレイ、ね。いつ覚えんの?」
父親はこれ見よがしに咳払いをして、それから顔を横に向ける。自分の娘と同じぐらいの年頃であろう男女の配信を、楽しくも無さそうに見つめる。
沈黙を破ったのは、親子どちらからでもなく、配信を流していたスマホだった。バイブレーションと同時に、画面の上部にメッセージが表示される。けれど、父親は反応しなかった。
「……メッセ来てるっぽいよ」
「気にするな」
「あっそ」
気にするな。それは、日ごろから父親が口にしている言葉だった。
体調が悪そうな時も、落ち込んでいる時も、母親が出て行った時も、娘に対して「気にするな」と言った。
彼は決して、自分の人生に子供を立ち入らせようとしなかった。同時に、子供の人生に自分から立ち入ろうともしなかった。
だから、父が人類最後の日を共に過ごそうと言い出した時、ミツコは驚いた。
「ミレイちゃんとは、仲直りできたのか」
「うん……てか、もう一年前の話じゃん」
「そうか、そんなに経つのか」
「そうか」を連呼しながら、父親は液晶画面をじっと見つめていた。
またしてもスマホが振動して、メッセージが表示される。なお微動だにしない彼に対して、娘は「確認しなよ」と少し早口で言った。
「いいんだ。気にするな」
「いや、動画見てる途中でウザったいって。用事あるなら早く終わらせなよ」
ミツコは、父のメッセージ相手が誰かさっぱり分からない。どんな用事で、なぜ父なのか、皆目見当が付かない。何より、今さら興味など湧かなかった。
ただ、彼が「気にするな」と言うのが腹立たしかった。
「なに、娘には知られたくない相手? 恋人とか? 親ってそーゆーの隠したがるでしょ」
「興味ない」
「だろうね。なんでもいいからさっさと返信しなよ。ほら、早く」
配信が止まる。律儀に一時停止してから、父親はスマホを手に取った。
なおも画面を見下ろしたまま動かない親の脚を、少女は軽く蹴り上げた。
「マジでなんなの。私が邪魔?」
「いや、違う」
「邪魔だって言うんなら、出てくけど」
「父さんも……」脛をさすりながら、父は言った。
腰を浮かせていたミツコが、ゆっくりと席へ戻る。
一年前、ミレイと喧嘩した時は、相手の話を聞かずに立ち去ってしまった。ギクシャクした関係がしばらく続いて、一時は学校に行きたいと思えなくなった。その時の思い出が、彼女をこの場に留まらせた。
「ミツコと一緒だよ。友達と喧嘩したんだ。そいつからの連絡で……」
「……喧嘩?」
「仕事の関係で、ちょっとな」
ミツコの父は公務員だ。詳しいことは知らないが、なんとなくそうだろうと、彼女は考えていた。
「父さんって喧嘩するんだ」
父親はわずかに眉を上げて、娘を見る。
どこか間抜けに見えるその表情が、ミツコは面白かった。
「みんな、仕事を全うするんだと言っていた。自分の家族が、今日という一日を全うする限り、それを維持するのが我々の仕事だと」
ミツコの父は、電力会社に勤務していた。
彼はミツコが小さな頃から仕事一筋で、だから妻は出て行った。職場でそのような話が出たなら、今日も出勤を選ぶのが目の前の男だろうと、少女はそのように考えた。
「私には……想像ができなかった。お前が送る一日が、全く思い浮かばなかったんだ。だから、ダメ元で誘った」
「分からないって……そういう教育方針だったんじゃないの?」
「親として、子供に過干渉するのは避けようと思っていた。だが……」
言い淀む父親の脛を、もう一度蹴り上げてから、ミツコはコップを「おかわり」と言って突き出す。ふらつきながら、男は茶を入れるために立ち上がった。
「……私がくだらない理由で不登校になった時、何も言わなかったよね」
過去、仕事から帰って来た父に、少女は泣きながら学校のことを話した。友達と喧嘩したことも、クラスで孤立したことも、勉強に手が付かなくなったことも、とりとめもなく、真夜中まで話し続けた。
彼女の脳裏に、あの出来事が過っていた。
「あの時はその、ありがとう」
戻ってきた父が、娘の前にコップを置く。
ぬるいお湯だった。お茶の味も風味もすっかり抜けて、おまけに冷めていた。
「こちらこそ、今日はすまん」
「すまんじゃなくて、そこはありがとうでしょ」
「…………ありがとう」
「いいえ、どーもいたしまして」




